第264話
かつて大陸北端に至ったと伝えられる大冒険家が、俄には信じ難い話を人々に伝えた。
曰く、氷雪に閉ざされた北地を更に奥へ行った先には竜種が築いた集落があるという。野性のままに暴れ回る通常の竜種とは異なり、竜の里に棲む種は理性を宿し、人との対話をも可能としているのだとか。
その真偽を確かめた者は今日に至るまでいなかったが、その歴史が今この瞬間、覆ろうとしていた。
「――ここが、竜の里」
戦の兆しで騒がしくなったエスト高原を抜け、雪積もる大地を歩くことしばらく。大量に持ち込んだ食糧が底をつき、いよいよ魔獣狩りで日々空腹を慰めていた頃合い。
吹き荒ぶ寒風に身を震わせながらも、褐色の少女――レレイは、眼前の険しい山々を見上げた。
極寒の凍土が辺りに広がり、人のみならず獣の侵入を拒む。その先にそびえ立つ山脈はゴツゴツとした岩肌が顕わになっており、迂闊に触れればこちらが傷つきそうな荒々しさを醸し出す。
見るからに踏破が困難そうな山。だが、最も眼を惹くべきものは別にあった。
「竜の巣。それに間違いはなかったらしい」
分厚く灰色の雲が覆った空を舞う、数多の竜種の影。その一つをもっても都市が容易く滅ぶだろう脅威が、十や百では済まない数だけ天を駆けている。
踏み荒らそうという気概を抱かせすらしない。まともな思考回路を持つ者であれば、それを一目した瞬間に己の無謀を悟るだろう。勇者と魔王の戦いがどうのと騒がれているが、ここの竜種がその気になったなら、人と魔族は互いに手を組まざるを得ないことは想像に難くない。
ホッと感嘆の息が漏れ出た。
(凄まじい気を感じる。流石、竜のみが棲むと伝えられるだけはあるな)
山々の間を抜き抜ける風には、思わず背筋を正したくなるような迫力が含まれていた。単なる寒さによるものではない。何か圧倒的な力を持つ者が先に数多ひしめいていることを直感させるような、激しさと厳かさを備えた威風だ。
かつて水竜の巫女を務めた経験ゆえか。思わず肌が粟立つほどの気迫が、山嶺からゆらりと立ち昇っているように感じられる。
(気を引き締めなければならないか)
言ってみれば当たり前なことを、改めて心に刻み直した。
寒気に耐えつつ視線を巡らせる。
一体だけでも脅威的な竜種が、一目では数え切れないほどに飛んでいる。そんな場所へ正面切って入っていくような蛮勇を、生憎とレレイは持ち合わせていなかった。
「む」
ふと、どこかから鋭い視線が飛んできたことを察知する。
人の気配はない。じっくりと辺りを見渡すが、見えてくるものは殺風景な銀世界ばかり。
(気のせい――ではないな)
周囲に何かが潜んでいるようには見えないが、肌に突き刺さる視線は段々と強くなっていた。最早、すぐ近くから睨めつけられていると錯覚するほどの鮮明さだ。
視線の正体が見当たらないことに薄気味悪さを覚えるが、ひとまず頭を振って余念を払う。
(敵意は感じられない。ただ観察されているだけ)
いっそのこと敵意をぶつけられた方が気楽だったという本音は、心の底に秘めておく。
ここが竜の里であること。その名に相応しい力を有した竜が数多棲んでいることを踏まえてみれば、その視線の正体は自ずと察せられたからだ。
「下手に忍び込む方が逆効果か」
視線の主に問い掛けるように声を出しながら、ゆっくりと一歩を踏み出す。
途端に、ゾッと背に怖気が走った。
「―――っ!? ……ずいぶんと熱烈な歓迎だな」
そうとでも言わなければ、今すぐに膝が崩れ落ちそうだった。
否応なく溢れ出す脂汗を拭い、ふっと息を吸い込む。丹田に力を込めて、思い切り背筋を正した。
(あまりにも大きい力だが――敵意はない?)
圧倒的すぎる力を前にして全身が萎縮するが、裏を返せば、それだけで済んでいる。ただ視線のみでレレイを縛れるほどの者ならば、やろうと思えば即座にレレイを殺すこともできるはずだ。なのに、どれほど立っていても身に危険は迫ってこない。
つまり、積極的に排そうとまでは思われていないということ。
(希望的観測にすぎるかもしれない。だが、試す価値はある)
震える身体に鞭を打ち、深呼吸を繰り返す。
遊び半分でこの地に来たならばすぐさま引き返すところだが、レレイとて生半可な覚悟を抱いてはいない。ただ抗い難い脅威があるという理由で、ここから引き返すつもりはないのだ。
更に一歩、もう一歩と踏み出す。
(一つ、二つ……五つ? どれも想像できないほどに強大だ)
恐怖で身体が震え固まりながらも、徐々に余裕が出てきた。身体に刺さる視線を数えて、その来る先を辿ってみる。
五つの視線。どれも抗うという発想が出ないほどに圧倒的な存在。この視線の主が、かつて竜の里を発見した大冒険家が伝えた「至高の竜種」だろうか。
気がつけば十を越すほど足を進めているが、視線に暴威までは混じってこない。やはり、即座に追い返そうという意思まではないようだ。
「ふぅ――」
整息。
ひとまず受け入れられていると分かったならば、徒に怯えている必要はない。むしろ無用な警戒を煽り、竜の里に至る障害となるかもしれないのだ。
深呼吸と共に身体の緊張を解し、脱力して自然体へ入った。
「――よしっ」
掛け声と共に気合いを入れ、頬を軽く叩く。
竜種がどれほど強大な存在であっても、レレイが幾つもの修羅場を越えてきたという事実は揺るがない。変に動揺していては、共に視線を潜り抜けてきた仲間たちにも失礼というものだろう。
来る者を拒むように雄叫びを挙げる、数多の竜種。その奥から物言わず視線だけを投げる、謎の存在。想像するだけで身がよだつが、臆する訳にはいかない。
(あまり舐めてくれるなよ!)
胸の内にメラッと炎が灯る。
ふつふつと沸き立つ闘志に任せて、レレイは竜の里へ大きく足を踏み出した。




