第263話
「ひとまず、一件落着ってところか」
ホッと安堵の溜め息を零してから、鈍い痛みを訴えるこめかみを指先で押さえる。遠く離れたエスト高原に送った機兵の管理という仕事は、想定していた以上の負担だった。
(現地に赴くより楽とは言え、まだまだ改善の余地はあるな。動作の確実性を高めねぇと)
それは機兵のみならず、ヤマトに渡していた通信機にも同様に言えることだ。
安定した環境下でこそ確実に機能していたものの、戦争により魔力の流れが乱れた中では通信は乱れていた。ノアが片手間に張った結界で通信阻害されてしまったことも、大きな課題の一つ。これからは更に遠方の地へ派遣することが考えられるから、通信機の性能をより向上させることは必至と言えよう。
「忙しくなるな」
辟易したような口調とは裏腹に、アナスタシアの眼は爛々と強い輝きを放つ。
やるべき課題は明確なのだ。ここで手を休めている暇などない。
ヤマトとの通信を繋いでいた機械を他所にして、白紙を前に筆を取ろうとしたところで。
『……――あ、あー、あー。これで聞こえるかな?』
「あん?」
通信機から聞き馴染みのない声が響いた。
この通信機は、ヤマトに持たせた端末以外にはチャンネルを閉ざしているはずだ。ならば、ヤマトが端末を奪われたのか――
「いや違ぇ。てめぇノアだな」
『ご明答。まあ一度挨拶したから、流石に分かるか』
アナスタシアの脳裏に、数日前の出来事が蘇る。
ヤマトを介してノアと接触を試みた日のことだ。人間側の協力者になれという要請を断ったノアは、そのすぐ後に通信へ割り込み、宣戦布告紛いのことを告げてきた。それ以上の会話を交わすことはなかったものの、その日見たばかりの術式へ平然と割り込んでみせる手腕には、アナスタシアも感嘆せざるを得なかったのだ。
そのノアが、再び通信を送ってきた。
(何のつもりだ?)
事前に張られた結界のせいで見届けることができなかったが、ヤマトとノアの戦いで何かあったのだろうか。
白い部屋の中で小首を傾げながらも、それを言葉の上には表さずに応える。
「わざわざ何の用だよ」
『そう大したことじゃないよ。またしばらくヤマトを任せることになりそうだから、その挨拶をと思ってね』
「律儀なことだ」
無論、額面通りには受け取らない。
穏やかに応じながらも、アナスタシアはすっと眼を細めた。一方のノアの方も、通信機越しですら緊張感を巡らせていることが伝わってくる。
『改めてになるけれど。ヤマトを利用して、貴方は何をやるつもりなのかな?』
「……前にも言ったはずだぜ。俺の目的は勇者と魔王の戦いを止めること。そのために、ヤマトには人間との橋渡し役を――」
『それは違うよね』
強い口調で断言される。
「言ってくれるじゃねぇか」
『戦争の阻止。そんな綺麗事を、貴方みたいな人が馬鹿真面目に掲げるはずがない。ヤマトだって、その程度の話で手の平を返すような男じゃないよもっと別の目的を隠しているんでしょう?』
それは、きっとその通りだ。
頭で考えることは苦手だと常々口にしているヤマトは、その分だけ直感を重視する。理屈で反論できない主張を掲げたところで、彼の心を揺さぶることはできない。彼の心を動かしたいのであれば、論理よりも情動に重きを置くべき。
そのことを踏まえてみれば、なるほどアナスタシアの言葉は信用には足らない。
(ここをしくじったか)
アナスタシアが想像していた以上に、ノアはヤマトという男のことを根源まで理解していた。それが、彼女が説得に失敗した理由だろう。
口の中にジワリと苦味が滲み出すことを自覚しながら、アナスタシアは通信機に視線を向ける。
『言ってみなよ、本当の目的を。それを聞けば、僕だって気が変わるかもしれないよ』
「……そうか」
しばしの黙考。
やがて頭を振る。
「ないな。お前はその程度で揺らぐ奴じゃない」
『あらら残念。もう一押し足りなかったかな?』
朗らかな笑い声を挙げたノアへ、視線が届かないとは分かりながらも、通信機を睨まずにはいられない。
口ではアナスタシアを期待させるようなことを言いながら、本当に彼女の元へなびく意思は毛頭なかったということだ。言葉では脈があるような姿を装って、アナスタシアの秘めた情報を引きずり出そうとしたにすぎない。
(喰えない奴だ)
ヤマトがノアを油断ならないと評した気分が、今になればよく分かる。およそ尋常ではない生を送ってきたアナスタシアからしても、ノアは御し難い人物だ。ヤマトはアナスタシアを指して化生のモノと言ったが、アナスタシアからすればノアこそが化生のモノだ。
じっとりと嫌な汗を滲ませる手の平を擦り、そっと深呼吸を繰り替えす。
「用件は終わりか? つまらねぇ話ばかりしているようなら、もう切るぜ」
『あぁちょっと待ってよ。本題はここからだからさ』
「本題ねぇ?」と揶揄するように口にしてみれば、通信機の先からは苦笑いが聞こえた。
『まぁそう言わずに。話次第じゃあ、貴方に協力してみてもいいと思ってるんだよ?』
「へぇ?」
どういう心境の変化だ。
問い返すように声を上げれば、ノアはクツクツと笑みを零す。
『そのために、少し話を聞いて欲しいんだよ。あまり面白いものでもないと思うけど』
「……言ってみろよ」
ノアが喰えない人物であることに変わりはないが、その力を得られる意味は大きい。
ひとまず続きを促してみる。
『さっき言った通り、僕は貴方が何か別の目的を秘めていると考えている。それがどんなものなのか、聞かせてもらえればありがたいんだけれど、言うつもりはないんでしょう?』
「あぁ」
『まあそれはいいんだ。本題はその次。僕が見る限り、貴方は――目的のためならば、何であっても犠牲にできてしまう人だ』
「―――」
否定の言葉は出なかった。
事実そうした面が自分の中にあると、アナスタシア自身が自覚していたからだ。「知的好奇心を満たす」という目的を果たすために、並大抵のものならば犠牲にできてしまうだろうと、自分のことゆえに理解できてしまう。
そんなアナスタシアの反応に確信を深めたらしく、ノアは淡々と言葉を続ける。
『もう言いたいことは分かるよね。貴方はヤマトをさも仲間であるかのように扱っているけれど、いざとなれば切り捨てるくらいは躊躇わない人だ。そう僕は確信している』
「……さてな」
『現に、貴方は既にヤマトには伏せて行っていることがある。知らないとは言わせないよ』
通信機越しに詰問の視線が飛んでくるような錯覚。
口を閉ざして黙殺すれば、ノアはふっと小さな笑い声を漏らした。
『そんな訳で、貴方にこのままヤマトを任せっきりにするのはどうかと思ってね。協力するって建前で、少し貴方のことを見張らせてもらおうかと』
「隠さない奴だ」
『隠しても仕方ないからね』
ヤマトとの協力体制とは異なった形。アナスタシアが優位に立てる契約ではなく、アナスタシアとノアが対等の立場――むしろノアの方が上手なくらいの契約となる。
(断ってもいいところだが)
ノアを眼の届かないところに放置することの危険性に、アナスタシアの本能が警鐘を鳴らした。
ここまでの会話で散々理解させられたように、ノアの頭の巡りは脅威的だ。下手に野放ししてしまったときに、どのような手段で邪魔をされるか分かったものではない。
(ならば、ひとまず手を結んでおくのもアリか)
得体の知れないものを身近に置く恐怖心はあるが、理屈で感情をねじ伏せる。
溜め息を一つ。腹をくくった。
「分かった。手を組むとしよう」
『おっけぃ! じゃあ今後は適当に通信で情報を流していくよ。対魔王連合軍の動向、帝国の意向、勇者の居場所。そんなところを伝えればいいかな?』
「あぁ、充分だ」
トントン拍子で話が決まっていく。
ヤマトを相手にしているときとはまた違った空気に戸惑うが、それを努めて腹の中に収める。
そんなアナスタシアの反応を他所に、ノアは更に言葉を重ねた。
『連絡はこっちから適当に流すよ。何か聞きたいことがあるなら、冒険者ギルドに連絡すれば届くと思う』
「おいおいギルドってお前――」
『どうせそこにも手は出しているんでしょ?』
まぁ、否定はしない。
不機嫌な雰囲気と共にむっつりと黙り込んでみせれば、ノアはカラカラと明るい笑い声を上げた。
『それじゃあ今日はこんなところで。これからよろしくね、研究者さん』
「……あぁ、よろしく頼む」
ブツッと音を立てて、通信が遮断された。
静寂。嵐のような激しさで場を乱された反動で、白い実験室がひどく無機質な場所に思えてくる。
胸の内に確かに溜まっていた疲労を自覚して、深々と溜め息を漏らした。
「これは、早まったか……?」




