第261話
ノアという人間を言い表すとき、どんな言葉を使えばいいのだろう。
ヤマトが初めて彼と出会った際の印象を言うならば、ノアは見た目こそ可憐な少女そのものであるものの、その本質はどこにでもいるような少年のそれであった。特異な性質を秘めた様子もなく、その美貌以外に特筆すべき点もないように見えた。
共に旅をするようになってから、その印象は覆された。ノアは並々ならぬ頭脳の冴えを秘めた少年だ。飄々として己の内実を明かそうとせず、余人を寄せつけないほどの明晰さをもって暗躍する。他方で情に厚いところもあったから、ヤマトとしては親しみを覚えられる男だった。
だが今となっては、そのどちらもが外れているように思える。ノアは純朴な少年でも、大なり小なり頭脳明晰な少年でもない。そんな生易しい言葉で形容することなど、できるはずもない。眼前に立つノアは、言うなれば――
「シッ!!」
「おっと危ない」
脳内に立ち込める邪念を払うように、勢いよく刀を薙ぐ。振り抜かれた白刃は、その頑強さの代償に失った斬れ味を物ともせず、触れたならば鋼鉄をも断つ鋭さを秘めている。
だがそれも、当たらなければ仕方のない話だ。
人の目で捉えられるはずもない速度の刃は、だがノアの身を裂くには至らない。危なげないバックステップと上体の捻りにより、必中の斬撃がいとも容易く空を斬る。
(また避けたか)
心の中で毒づいた。同時に、乱れた息を整える。
ノアとの戦闘を始めてからどれほどの時間が経っただろうか。既に百を越す斬撃を見舞ったはずだが、その一つもノアを捉えられずにいる。いい加減にヤマトの体力も消耗してきており、疲労ゆえに精細さを欠いた刀では、尚のことノアを斬れないという悪循環――
(否。そうではない)
小さく首を横に振る。
自分の動きが鈍っているという自覚はあった。刀を持つ腕はジンと熱を持ち、正眼に構えるだけで鈍い痛みを訴える。酷使した身体も悲鳴を上げ、本音を言えば今すぐにでも腰を落ち着けたいところでもある。
だが、一向に攻撃を当てることができていない原因は、もっと別のところにある。
(ノアの動きがよくなっている)
結果を言えば、最もノアに肉薄できたのは初太刀であった。その折に得た手応えを元に、ヤマトも試行錯誤を経て様々な攻撃を繰り出したものの、そのいずれもがノアにとっての脅威足り得ていない。一太刀で疲労し切ったということではない。ノアが、ただ一太刀を元に急速に成長を遂げているのだ。
交戦する前のノアと今相対しているノアとでは、その動きのキレが大きく異なる。この短時間の戦闘の間に、ノアは目を見張るほどの速度で戦闘技術を高めた。再びヤマトの身に万全の力が蘇ろうとも、今のノアを斬ることは困難であろう。
(これが天賦の才か。まったく嫌になる)
思えば、戦いの最中に辟易とした気分にさせられることは初めてかもしれない。
だが、そうと自覚したからと言って気を改められるほど、今のヤマトに余裕はなかった。
「どうしたの、ずいぶんと疲れているみたいだけど」
「……嫌味なことだ」
「ふふっ。まぁ許してよ。一応は敵なんだから」
努めて息を落ち着かせようとしているヤマトとは正反対に、ノアは涼しい顔をしている。体力に大きな差があったということではない。ヤマトが闇雲に繰り出していた太刀を、ノアが必要最低限の労力をもって対処していた結果。――すなわち、両者の技量に大きな差があるということになる。
(流石に分が悪いな)
多少の不利で闘志を萎えさせるほど軟な性格はしていないが、この現実は如何ともし難い。
刃を交えるごとにノアの動きは洗練され、対するヤマトは疲労で刃を鈍らせる。既にノアの方へ流れが傾いている以上、徒に突っ込んで体力を消耗するのは得策ではない。
ならば、どうするか。
「奇策をもって戦いを制する。それしかないよね?」
「チッ」
この程度の浅知恵はお見通しということだ。ヤマトが思考を形にするよりも早く告げられたノアの言葉に、思わず盛大な舌打ちが漏れた。
ノアはそれを意に介した様子もなく、にこやかな笑みを浮かべたまま佇んでいる。
(……ノアの言う通りだ。そこにしか活路はない)
手の上で踊らされているようで癪ではあるが、それ以外にヤマトの取れる手はない。
かくなる上は、想定されて尚ノアの推測を凌駕する成果を挙げる他ないだろう。
(だが、具体的にどうすれば――)
思考の海に沈みかけたところで、本能が鳴らした警鐘のままに飛び退る。直後に、ヤマトが寸前までいた場所を弾丸が貫く。
「また避けた。その勘はどうにかならないの?」
「さてな」
油断も隙もあったものではない。
ひらひらと手の内の魔導銃を揺らしてノアは呆れた顔をするが、ヤマトとしても同じ表情を浮かべたい心地だ。
「考えをまとめる時間くらいは、見逃してもらいたいところだが」
「嫌だよ。下手に譲歩すると、ヤマトなら本当に奇想天外なことしそうだから」
「買い被ってくれる」
ともあれ、ノアはヤマトに息吐く暇すら与えるつもりはないらしい。
立て続けに発砲された魔導銃の銃口から逃れるように、必死に身体を捩り刀を払う。
脇を掠めた弾丸が二発、白刃に弾かれた弾丸が三発。
(一つ見逃した)
眼と耳で捉えた射撃は四発分だったのだが、実際にヤマトを襲った弾は五発。ヤマトの反応が遅れたのか、ノアが更に奇策を重ねたのかは定かではないが、重要な事実が一つ。
(この間合いに留まることも、もはや安全とは言えないか)
刀は届かず、一方的に魔導銃で嬲れる遠距離。そこに留まれていた理由は、ノアが撃つ弾丸の尽くを見切れていたからだ。だがそれも、今の射撃をもって覆された。
この間合いが危地と化した今、後退の手も愚としか言いようがない。――ならば。
「前進あるのみ!」
「まあ、そうするしかないよね」
踏み込む。同時に放たれた銃撃を弾き飛ばし、更なる一歩と共に『水月』を発動させる。
それにもはや驚愕の色を表すこともなく、ノアは両手の魔導銃で弾幕を張りながら後退していく。あくまで自らの優位を崩そうとしない、嫌気が差すほどに効果的な一手だ。――それでも。
「押し通るッ!!」
手の内にある得物が刀であることを、束の間忘れる。
アナスタシアに依頼して得た頑強さを遺憾なく発揮、その刀身で弾丸を続けて受け止める。小さくない衝撃が刀を通してヤマトの身体を打つが、奥歯を噛み締めてグッと堪える。
「んな無茶苦茶な……」
「問答無用! 覚悟!」
十メートルほどあった間合いを一息に詰め、弾幕を潜り抜けると同時に刀を握り直す。その刀身に薄くヒビが入っていることを目の端に捉えつつ、刀を中段突きの構えへ。
「ヒュッ!」
「危な!?」
鋭い呼気と共に放たれた神速の刃は、しかしノアの胴を捉えることなく空を貫く。
見れば、口では焦るようなことを言いながらも、ノアの眼は揺れることなく刀を捉えていた。やはり完全に見切られている。
(だが、ここまでは想定通り)
むしろ、この程度で当たるようでは拍子抜けというもの。
間を開けずに刀を引き戻しながら、高速で思考を回転させる。開戦当初であれば絶対的な優位を築けた近距離も、もはやノアは互角以上に立ち会ってくる。これを崩す奇策、起死回生の一手は――
「それ!」
「うおっ!?」
呑気にも聞こえる掛け声とは裏腹に、容易く人の喉を裂ける手刀が突き込まれた。
数歩の後退で手刀から逃れれば、視界の端でノアが軽く右足を浮かしているところを捉える。それに伴って左足が沈み、ノアの身体に力が溜められて。
「そぉい!」
顎を狙った右足の蹴り上げ。その後隙を埋めるように放たれる左足の後ろ回し蹴りが側頭へ。
本職の武闘家顔負けな連撃。旅していた頃は頑なに訓練に打ち込もうとしなかったが、やはり秘めた実力があったではないかと毒づきたくなる。
(だが、これは好機)
脳の片隅で組み立てていた戦術諸々を棄却。胸の内から湧き出す衝動に身を任せ、一転して前進。
顔を逸らし、頬を掠める蹴り上げの威力に脂汗を浮かべつつ。刀を離した右手を伸ばし、上段を薙ぐ回し蹴りを横から押し出す。相当な威力が右半身に掛かるが、耐えられないほどではない。
「ちょ、ちょちょっ!?」
「胴が空いているぞ!」
「待った待った待った!」
蹴りを流され体勢を崩したノアの胴目掛けて、左手で刀を薙ぐ。
ゆるりと温い軌道で放たれた斬撃を、やはりと言うべきか、ノアは難なく避けてみせる。その最中に崩れた体勢をも立て直そうというのだから、大したものだ。
「だが、まだだ!」
引き戻した右手も合わせて刀を握り込んだ。踏み込むと同時に両手を上段へ、刀身に全体重を乗せる。
「『斬鉄』」
「――そらッ!!」
脳天を砕く不可避の斬撃。その重みは鋼鉄をも砕き、その速さは風を越す。これまで数多の難敵を斬り伏せた必殺の刃。
それを前にしても焦ることなく――むしろ闘気を高めて、ノアは果敢に立ち向かう。手にした魔導銃を、不可視の刃へ叩きつけるように横殴りに。衝撃の瞬間に銃身を傾け、引き抜き、絡め取る。
(こいつ!?)
驚愕の声は出なかった。
手の中にあったはずの刀が自ずと滑り出し、瞬く間に指先から離れていく。ハッと我を取り戻すと同時に指を伸ばすが、僅かに指先が柄の上を滑るばかり。――咄嗟に、指先で刀を上空へ跳ね上げる。
「貰った!!」
ノアが左手の魔導銃を構える姿が眼に入った。
咄嗟に上体を逸らせば、右肩を何かが貫く感覚を覚える。痛みはない。ただ突進する獣に突き飛ばされたときのような衝撃が肩を走り、やがて全身を揺らした。刹那の内に右腕に痺れが走り、焼けた鉄を突っ込まれたかのような灼熱に視界が赤く染まる。
戦慄く身体を堪え、奥歯を噛み締める。
「これで――」
ノアが何事かを言いかけている様子だが、それを気に掛ける暇はない。
無事な左腕を上空へ伸ばす。――空を舞っていた刀の柄を握り込み、その重みのままに振り下ろす。
「ぬんッ!」
「嘘でしょ!?」
勝ちを確信していたか。ノアの反応は遅れる。ヤマト自身で情けなくなるほどに緩い軌道の斬撃へ、咄嗟に迎撃を選択。残る魔導銃を横殴りに振り抜き、刃にかち合わせた。
――鋼が割れる音。細かな金属片が散る。
(折れた?)
頑強性に重きを置いた刃が折られたという事実は驚嘆に値するが、それにかまけて硬直する暇はない。
半ばで砕けた刀を手放し、左拳を固める。
「シャッ!」
「うひゃぁ!?」
情けない悲鳴を上げながらも、ノアは的確にバックステップ。あっという間に間合いを離す。
咄嗟に追い縋ろうとしたところで、判断を取り下げる。両の魔導銃を砕いた以上、ノアの遠距離支配は失われたのだ。見送っても問題はない。
「………」
「………」
彼我の間合いは再び十メートルほどへ。だが、今はヤマトもノアも得物を失っている。ノアは魔導術を行使することができるという点で、僅かに優位に立たれているか。だが、それも決定的な差とは言い難い。
膠着状態。互いが決め手を失った以上、下手に動くこともできない。
(だが、ここからどうするか)
このまま睨み合っているというのは、あまりに芸がない。
場が落ち着いたからか痛みを訴え始める右肩を無視し、次の一手を模索し始めたところで。
遠方から、血気盛んな鬨の声が聞こえてきた。




