第258話
時を遡ることしばし。
分厚い雲が立ち込める空から、あまり心地よいとは言えない生温い風が吹き抜ける。正直、開戦日としては歓迎できない天候だ。
草と獣の匂いの中に鉄錆のそれが混じった風を受けながら、ヤマトは無言で顔をしかめる。
「始まったかか」
先日から辺りには鉄の匂いが充満していたものの、今日はそれが特に顕著。鼻がへし曲がりそうなほど濃い鉄の匂いに、いつもならば空を悠々と飛んでいるはずの鳥すら姿を隠してしまったようだ。
『どうした、緊張してんのか?』
「さてな」
茶化すようなアナスタシアの言葉は、適当に受け流す。
兵士が慌ただしく行き来する陣営の中には、明らかに常とは異なる空気が流れていた。本格的な戦争を目前にして、誰しもが安穏とはしていられないらしい。その雰囲気に当てられてか、ヤマト自身もどことなく胸の内がムズムズと落ち着かないことは事実。
とは言え。
『俺たちが戦う必要はないんだ。さっさとそこから退散したらどうだ?』
「……そうだな」
変わらず生返事をすれば、通信機からは呆れたような溜め息が返ってきた。
あくまで物資搬送の命を受けてエスト高原に来ただけのヤマトには、ここでの戦いに参加する義務はない。むしろ、用が済んだならば早く帰れという無言の圧力が、周囲の魔族兵から放たれている始末だ。
普通に考えるならば、この場をさっさと出立してしまう方が賢い。戦闘が本格化したならばいざ知らず、まだ始まって間もない今の内に退散してしまえば、無駄に危険な目に遭うことはないのだから。猿でも分かる理屈はヤマトも同意するところであり、事実としてここに来る前まではその予定でいたのだが。
(それでいいのか?)
自問自答。
氷の塔でヒカルたちと離れ離れになり、アナスタシアの手を取り再起した瞬間に、胸の内に固めた思いがある。元より理屈を蹴飛ばして馬鹿をやってきた身上、今更下手に賢しくなったところで仕方がない。ここまで来たならば、更に馬鹿を突き抜けてしまおうではないか。
理性の声を黙殺し、感情のざわめきに耳を傾けて。
決定する。
「予定変更だ」
『へぇ?』
「ここまで来て何もせず帰るのでは、あまりにもつまらん。せめて見物するぞ」
『ククッ、だろうな。それでこそヤマトだぜ』
改めて宣言してみれば、その方針はヤマトの胸にスッと落ち着いた。微妙に浮ついていた心が瞬く間に平静さを取り戻し、視界が鮮明さを増す。
面白がるようなアナスタシアの笑い声を聞き流し、ズンズンと慌ただしい陣地の中に踏み込んでいく。
兵士たちの中には訝しげな表情を浮かべる者もいたが、あまりに堂々とヤマトが歩を進めているためか、進んで声をかけようという者は現れない。面倒事がなくて好都合だ。
『機兵はどうする。必要なら、一体くらいサポートとして動かしてやってもいいぜ?』
「サポートだと」
『専属で荷物持ちさせる程度に考えとけ。幾らお前でも、食糧もなしに帰ってくることはできねぇだろ』
『どうするよ?』と問い掛けられて、しばし思考する。
機兵を介してアナスタシアが横槍を入れてくるという懸念はあるが、それ以外には断る理由もない提案だ。ヤマトが帰投するための食糧を持たせる役目や、ここへ持ち込んだ幾本もの刀を持たせるという役目もある。
答えが決まるまで、一秒も要さなかった。
「頼む」
『素直な奴は嫌いじゃないぜ。ちょうど荷物をまとめさせた機体がいるから、そいつを持ってけ』
「そうか、助かる」
要は、ヤマトに聞くまでもなく機兵にサポートさせるつもりだったということか。
どうにも偽悪的な物言いが目立つアナスタシアの心遣いに、思わず苦笑いが漏れ出る。
『何だよ、気味悪ぃ笑いしやがって』
「気にするな。他の機兵はどうするつもりだ?」
『予定通りに帰投させるさ。お前の無茶につき合わせて鹵獲でもされたら、面倒なことになるからな』
ヤマトも機兵も戦闘力は一般の魔族兵を大きく上回っているが、戦場に絶対はない。見物だけするつもりで戦闘に巻き込まれることや、その最中の流れ矢で大怪我をすることもあり得るのだ。万が一のことであっても警戒し、事前に手を巡らす必要はある。
アナスタシアに首肯したヤマトは、おもむろに辺りを見渡す。
『で? どこで戦場見学をするつもりなんだよ』
「ヘクトルの元だ。どうせならば特等席で見物したいだろう?」
何か面白そうなことが起こるとして、それをいち早く知ることができるのはヘクトルの傍だろう。ひとまず見学だけの予定だが、戦に乱入したい気分になったとき、格好の標的を探すためにもこの席は確保しておきたい。
そんな打算込みのヤマトに対して、アナスタシアが通信機の先で渋い表情を浮かべたことが手に取るように理解できた。
『堅物の傍かぁ……。まあ確かに、都合はいいかもしれねぇけどよぉ』
「気が進まないか」
『あいつは面倒くせぇからな。下手に顔を出せば、そのまま追い出されるかもしれねぇぞ?』
「それは面倒だな」
答えながら、声から軽い調子が拭えていないことを自覚した。
高い実力を持ちながら規律に頑固なヘクトル。その性格を思えば、帰投命令を無視して戦場をほっつき歩いているヤマトなどは、一目見てすぐさま追い出されることだろう。下手にそれに抵抗すれば遺恨となり、アナスタシアとヤマトの目的の障害にもなり得る。
(だが、そうはならない気もする)
アナスタシアが語るヘクトル像は、実力がありながらも規律に頑固で、なかなか融通の利かない男というもの。だが実際に相対したヤマトには、ヘクトルはその言葉と些か異なる姿を見せていたように思えるのだ。彼ならば、ヤマトの侵入をあっさり笑って許しそうな気がする。
いずれにせよ、ヘクトルの傍に一番情報が集まるということは事実。実際に顔を出すか出さないかは別として、ひとまず聞き耳を立てる価値はある。
そんな考えを再確認し、足を前へ運んだところで。
――ビリビリと肌が粟立つような気のぶつかり合い。
「出遅れたか」
『何だと?』
訝しげなアナスタシアに答える余裕はない。
気のぶつかり合い――戦いが起こっている場所までは、それなりに距離がありそうだ。周囲の魔族兵たちは何かしらの異変を察知しているようだが、その正確な方向までは掴めていないらしい。キョロキョロと忙しなく辺りを見渡しては、言いようのない不安感に顔色を悪くさせている。
それらを一瞥した後、手が己の腰元へ伸びた。新調した刀が一振り。顔面には認識阻害の仮面。後ろからついてくる機兵の手に、ここへ持ち込んだ刀が数本収められていることを確かめる。
(準備は万端か。ならば後は)
深呼吸。
心臓の鼓動を努めて鎮め、血に逸って茹だりそうになる頭を平静に保つ。息を大きく吸うと共に、丹田に力を込めた。
「――よし」
これにて覚悟完了。いつ敵が現れても斬り伏せる体勢が整った。
久しく感じていなかった真剣勝負直前の緊張感を受けて、スッと背筋が伸びる。
ヤマトが呼吸を整えている間に索敵を済ませたのか、通信機越しのアナスタシアが緊張を滲ませた声を上げた。
『ヘクトルに直接奇襲を仕掛けた奴がいるみたいだな』
「剛毅なことだ」
『護衛共の姿は見えない。今はヘクトル一人で戦っているぜ』
「仮にも総大将が何をしているのだ?」と首を傾げたくなるが、すぐに頭を振る。無駄な思考に精神を揺さぶられている暇はないのだ。
『行くんだな?』
「無論。――急ぐぞ!」
短く応じた後、ヤマトは弾かれたように駆け出した。




