第255話
帝国。
魔族が隠れ住む北地が如何に大陸の辺境にあるとは言え、彼の国の名を知らぬ者はいない。文字通りの意味で大陸に覇を唱えられる超巨大国家であり、魔王がどれほど優れた王であろうと容易く勝利することのできない敵手。
ノアが指摘した通り、帝国であれば確かに一手で戦局を打開することは叶うだろう。
(だが、ありえぬ。我らとて帝国に最大限の警戒を払っていた。奴らが出兵することがあれば、即座にその報せが走るはず)
視力聴力に優れた魔獣を使役した偵察部隊が、今も絶えず警戒の眼を巡らせている。すぐ近くにある帝国の砦を監視させていたが、そうした不穏な動きがあったという話は聞いていない。
それに、今回の戦いには帝国が参戦しないという情報を踏まえて臨んでいたのだ。必要以上の警戒を払ってはいたが、帝国が一切の動きを見せなかったことは事実。
ならば、何が起こった。
ヘクトルの疑念に答えるように、ノアは微笑と共に口を開いた。
「知っているみたいだけど、帝国は参戦していないよ。連合国から弾かれたって理由もあるけど、そもそも魔王軍についての情報を得られていない。相手の内情も知らないのに宣戦布告するような真似は、とても合理的とは言えない」
「だが、先の音は――」
「ただまあ、今じゃどの国も帝国製の兵器は持っているから。それを撃ったんじゃないかな」
「後は自分で考えてね」とつけ加えて、ノアは口を閉ざしてしまう。
軍事に関わるものを売買するという感覚がヘクトルにはないが、長い平穏の間、帝国が行った交易の中では兵器も取り扱われたということか。実際に帝国が参戦せずとも、その力の一部を振るうことはできる。
今まで使われなかったことから察するに、恐らく人間の軍にとっても切り札のような兵器だったのだろう。帝国の常軌を逸した技術で製作された兵器は、その生産元の威光をそのままに、ただ一射をもって戦況を打開してみせた。先程までの楽勝ムードはどこへやら、今や不穏な空気が辺りに漂い始めている。
(マズい。今すぐに軍を立て直さねば――)
即座に態勢を立て直し、再び攻め直すことができれば。恐らく、このまま戦いを押し切ることも可能だろう。己ならば、それができるという自信がある。だが、最前線に今立っている者は経験未熟な副官だ。混乱を鎮めることはできても、そのまま攻め直し、勝利をもぎ取るようなことが彼にできるとは思えない。
焦り。ジリジリと胸の内が焦がれるようなもどかしさが募り、チラッと視線を逸らした。その瞬間。
――怖気が走る。
「どこ見てるのさ」
発砲音。
本能が警鐘を鳴らすがままに盾を掲げる。直後に、弾丸が盾の中央を打ち据え、強い衝撃が全身を駆けた。
「グゥッ!?」
「敵が眼の前にいるのに目を逸らすなんて、ちょっと感心できないね」
ヘクトルの注意散漫を嘲笑うように微笑みながら、ノアは魔導銃を携えて、一歩前進。
「ここからは僕もテンポ上げていくよ。下手に他のことを考えていたら、あっさり沈むかもね」
その言葉と同時に、ノアがまとう魔力が動きを激化させた。先程よりも鮮やかに魔導術を構築し、その矛先がヘクトルへ向く。
(手強い。だが、一刻も早く戦地へ行かねば――)
「考え事をしてる暇なんてないよ!」
牽制代わりの発砲。同時に踏み込み。
飛び来る弾丸を盾で弾いたヘクトルの眼に映ったものは、すぐ眼前にまで迫ったノアの姿であった。
「ヌッ!?」
「それっ!!」
左脚を軸にして全身を捻り、渾身の力を右足へ。回転の威力をも載せて放たれた蹴りが、盾越しにヘクトルを貫く。
「ぐ、ぉ!?」
痩躯から放たれたとは思えない膂力。
呻き声が口から漏れ出し、盾を持つ腕がジンと痺れる。
「まだまだ行くよ!」
「こ、の……っ、猪口才なッ!!」
息を吐く暇もない連撃が始まった。
先とは異なり超至近距離を舞台に、ノアは休むことなく攻撃の手を加え続ける。人間離れした柔軟さをもって数多より放たれる体術、間隙を縫って銃弾が飛び交い、ヘクトルの意識を外れた魔導術『霊矢』が死角から飛来する。
(こいつ、先までの戦いは戯れだったのか!?)
銃撃と魔導術で中遠距離を圧倒するスタイルから一線を画する、超至近距離でのインファイトスタイル。それも付け焼き刃では決してなく、ヘクトルであろうと容易に防ぐことのできない高水準で完成されていた。
反撃の糸目を探ることなど、できるはずもない。一度として同じ手を繰り返さない変幻自在の連撃。長年鍛え上げた技と勘を総動員して、どうにか防ぎ切れるかというもの。自然、余計なことに思考を割く暇もない。
(クソっ、このままでは軍が――)
「余所見厳禁ッ!!」
叫び声と同時に、背後から飛来した『霊矢』がヘクトルの肩を打つ。魔族の強靭な肉体と身に着けた鎧の頑強さゆえ、『霊矢』は肩を貫くことこそなかったものの、グラリと体勢が崩れる。
そして、それを見逃すほど甘い敵手ではない。
「はっ!」
裂帛の叫びと共に、体重を載せた回し蹴りが炸裂する。
何とか掲げた盾が蹴りを受け止めるも、その衝撃を逃し切ることなどできない。弾かれるように右腕が外へ流され、更に身体の傾ぎが大きくなる。
「くっ!?」
「もう一丁!」
蹴り抜いた勢いをそのままに、軸足としていた左脚を浮かせ、回す。一撃目よりも威力が減じている分、その爪先はヘクトルの首元を狙っており、受け損なえば致命になり得る。
右の盾は先の回し蹴りを受けて流され、使い物にならない。左の盾を無理に持ち上げれば防げるだろうが、果たしてその先に活路は――
(――行けるか?)
脳裏を電流が走る。
その発想に自信がついてくるよりも早く、戦士として鍛えた身体が勝手に動いて。
「ゴァッ!?」
横っ面に回し蹴りが直撃する。
頭が首から外れそうなほどの衝撃。一瞬で前後不覚に陥り、自分が今どうしているのかが分からなくなる。立つ感覚はとうに失せた。ならば地に伏せているのか、それとも宙を舞っているのか。
いずれにしても。
(時間はできた)
思考を巡らせる。
帝国兵器で前線が乱され、それを立て直せる自分がノアに足留めをされている現状。この窮地を覆す一手は何か。――結論。
「―――――ッッッ!!」
吠えた。
天を震わせ地を揺らす。大気を痺れさせる怒号に魔力が混じり、追撃を加えようとしていたノアの魔力を散らした。あまりの声量に喉が裂ける。
「何を……?」
己が己でなくなるような感覚。
体内の奥底に眠る魔力を叩き起こし、表舞台へ引っ張り上げる。――まだ足りない。魂を奮わせ、更に根源から力を引き出す。無意識に戒めていた力をも解放し、更にその先へ。
「何をするつもりか知らないけど、もう眠ってもらおうか!」
耳が発砲音を捉え、微かに残る理性がその危険性を説く。
だが、もう遅い。
「なッ!? 身体が黒くなって……!?」
額にまぶた。喉元に心臓の真上。
尽く急所を狙った弾丸が、甲高い音を共に身体の表皮で弾かれた。尋常ではない衝撃が身体を打つが。
――もはや気にする価値もない。
散々に声を上げた口を閉ざし、立ち上がる。先の戦闘の名残ゆえに血の溜まった唾を吐き、ふっと血生臭い息を零す。
「弾丸が通らない。身体の硬化、いやそれだけにしては――」
「間に合ったようだな」
怒声と共に荒れ狂った体内の魔力が、凪いだ水面の如く静けさを取り戻していた。その代わりに、先程までと異なり魔力の隅々に至るまで意識が巡らせる。全てを過不足なく十全に扱えるという自負が、胸の内にあった。
文字通りの意味で生まれ変わった感覚。ともすれば溢れ出しそうなほどの力の奔流に、背筋がゾクゾクと震える。
「……まったく面倒な。いったい何をしたのかな」
「この姿を晒すのは貴様が初めてだな。ならば、特別に教えてやろう」
あぁ、絶えることなく力が込み上げる。この感覚の何と甘やかなことか。
常に厳格たれと戒めた理性が薄れることを自覚しながらも、高揚に酔った口が止まることはない。
「魔族は黒肌が常。その黒こそが力を表し、我らの誉れとなる。――だが、魔族の中には白肌が生まれ落ちることがある」
「貴方もその一人。――だったみたいだけど」
「いかにも。黒とは真逆。積もる雪の如く白い肌は、魔族としてはあまりに異常なれど、誉れとして最上のものでもある」
白肌の魔族を代表する者としては、ヘクトルやミレディに代表される魔王軍騎士団長の面々。そして魔王。
明らかに異なる肌色をしながらも、彼らが魔族として崇められることには無論理由がある。
「理由は?」
「簡単なことだ。白肌は黒肌よりも優れた力を持つ証左であり、また逸脱した力ゆえに枷を嵌められた証でもある。枷を嵌めねば他を害しかねんほどの力を、我らはこの身に宿している」
「……じゃあ、今黒肌になっているのは、その枷を外したってことか」
「その通り」
御託はこの程度でいいだろう。
魔王に使える忠実なる下僕として、常に厳格たれと己を戒めてきた。それが失せたこの姿の、何と心地よいことか。この溢れる力をもってすれば、戦のみならず世をも――
(―――っ?)
チリッと、脳裏で何かが爆ぜる。
その正体に思いが至るよりも早く、眼前のノアが小さく溜め息を漏らした。
「確かに、黒肌になってから魔力は桁違いに大きくなっているね。それにさっきの感覚だと、身体も尋常じゃなく硬くなっている」
「ククッ。もはや貴様には、我を害することはできぬよ」
「そう。そうかもね。ただ、貴方はそれを力の解放と呼んでいるみたいだけど」
ふっと戦意を緩めて、ノアは不思議な色を宿した眼でヘクトルを見つめる。その瞳に映る色は、高揚や恐れというよりもむしろ――
「僕には、単なる暴走に見えるね」
「クハハハッ!! 生意気なことを言う! ならば、覚醒めた我が力をとくと味わい、そして恐れるといい!!」
「御免だよ、そんなの」
顔をしかめたノアが何事かを口にしているが、もはや知ったことではない。
ふつふつと込み上げるばかりの力を解放させるように、身を屈めたヘクトルは一息に跳躍した。




