第253話
(いよいよ、か)
眼下に広がるはエスト高原。
青々と茂った草原を舞台に、北側には己の率いる魔王軍が。南側には人間の対魔王連合軍が展開していた。その数は双方合わせて万を優に越すほどか。歴史上、この辺境と言ってもいいエスト高原にこれだけの人が集まったことなど類を見ないだろう。
天上が徐々に灰色の雲で覆われていき、湿気た風が吹き抜けヘクトルの頬を撫でた。その奇妙な冷たさに背筋を震わせつつも、それを外面には一切出さないまま直立不動を保つ。
「――報告します! 魔獣部隊、所定の位置に着いたとのことです!」
「……そうか。報告ご苦労。下がれ」
「ははっ!」
戦いを目前にした高揚ゆえか。妙に力の入った敬礼をした後、伝令兵は駆け去る。
その背中を軽く一瞥してから、ヘクトルは小さな溜め息を零す。
(数の上では互角。士気はこちらが上。――なれど、練度はこちらが下か)
万全を期して仕掛けた開幕戦だが、元の総数が少ない魔族では数を互角程度に揃えることで精一杯だった。加えて、戦いを一度も経験したことがない新兵の集団ゆえに、正直に言って練度は低い。唯一の救いどころは士気が高まっていることくらいだが、これも未熟な新兵の間にあっては、迂闊に眼を離せば命令違反をされるという危険を孕んでいる。
仮にも将軍に任ぜられるほどの能力を備えたために、ヘクトルには魔王軍の危うさが際立って見える。急ごしらえの訓練でどうにか形にはなっているものの、果たして実戦に耐えうるものなのか。
(認めるのは業腹だが、魔獣部隊の活躍次第となるか)
魔王軍の構成員は魔族の他に、彼らが使役する魔獣部隊がいる。本来は理性がないために命令にも従わない魔獣だが、歴代魔王が連綿と受け継いできた研究の成果により、最低限の命令を聞かせられる程度に使役できるようになっていた。
人と人が行うからこその戦と考えるヘクトルからすれば、魔獣部隊は決して受け入れやすいものではない。それでも、新兵揃いで未熟な魔王軍においては、彼らが必要不可欠な戦力であることも一つの事実だった。
「ヘクトル様。何かご懸念でも?」
「案ずるな。大したことではない」
どことなく顔色の悪い副官の言葉に、小さく首を横に振って答える。
「副官、策は分かっているな」
「はっ! 魔獣部隊による先制攻撃の後、我らが軍は敵陣確保を目指します。本作戦は殲滅を目的とはしないため、必要以上の追撃――特に帝国を刺激せぬよう、本陣確保を第一優先事項とします」
「それでいい。これだけの平原だ、下手に策を講じても無駄になる」
第一、策を講じて実行できるだけの練度が魔王軍には備わっていない。
そうつけ加えようとして、咄嗟に口を閉ざす。それは嘘偽りのない事実であり、ヘクトルの脇に控える副官も了承していることではあるが、無闇に口に出していいことでもない。下手に盗み聞きをされては、唯一の取り柄だった士気をも下げることになる。
代わりにムンと腹に力を込め、頼りない表情をした副官の背を叩く。
「そう気を病むな。奴らとて、長らく戦を経験していないと聞く。決して分の悪い戦いではない」
「……はっ!」
ヘクトルの見立てでは、十中八九は魔獣の突撃で優勢に立つことが叶う。それが可能なほどに強い魔獣を揃え、更に数も増やしたのだから、そうでなくては困るというもの。最悪の場合でも、ヘクトル一人が全力で暴れれば戦場を支配することも可能なはずだ。
そう何度も自分自身に言い聞かせるものの、内心の暗雲はなかなか晴れない。何か想定外のことが起こるはずだと直感が叫び声を上げる。
(とは言え、今更逃げ出す訳にもいかん――!!)
深呼吸。早鐘を打つ鼓動を鎮める。
立ち上がり、後ろの副官に手で指示をする。
「始めるぞ」
「ははっ! ――伝令、開幕の笛を吹け!」
直後に、静謐を保っていたエスト高原を高らかな法螺貝の音が響き渡る。腹の底を震わせる重低音が否応なく戦意を掻き立て、眼下の敵軍を睨む眼を鋭くさせる。
ビリッと軍内を緊張感が走るのと同時に、前線に配置した魔獣部隊から遠吠えが鳴り響いた。微かな地響き。見下ろせば、黒い塊となった魔獣が一斉に戦場へ飛び込む姿が眼に入る。
「全軍武器構え!! すぐに魔獣共に続くぞ!」
ガチャガチャとけたたましく鉄の擦れ合う音が陣内に響いた。
落ち着きを失った様子の兵たちに顔をしかめつつ、ヘクトルは魔獣部隊の行く末に視線を向ける。
(流石に動きが速い)
あまりに広大な風景ゆえに遠近感が狂いがちだが、魔獣部隊と人の軍との距離は短かった訳ではない。どうにか互いを目視できる程度に離れていたはずだ。人の足では駆けても数分を要する距離。それを、魔獣部隊は一目離した隙にほとんど詰めていた。
まるで黒い風だ。人が隊列を組んでひしめく陣へ突っ込み、そのまま散々に荒らし回る。瞬く間に軍の陣形は崩れ、遠目でも分かる混乱状態がもたらされた。やはり烏合の衆だったのか、混乱はなかなか収まるところを見せない。
(攻め時だ)
この機を逃す手はない。
すぐさま手を上げて合図すれば、副官の男は一つ頷いて。
「――進軍開始! 人間共を蹂躙するぞ!!」
威勢のいい叫び声を上げる。
それに応えるように喝采があちこちから上がるのを聞き届けてから、ヘクトルはそっと安堵の息を漏らした。
「ひとまず上々。“彼女”らに借りができたか」
魔獣部隊による先制攻撃は、望外の成果をもたらしてくれた。ある程度抵抗されるだろうし、事によっては撃退される未来すら予想していたのだが、結果として攻撃は成功。簡単には立て直せぬほどの混乱が人の軍に撒き散らされて、この上ない好機が生まれた。後はこの好機に乗じて進軍し、敵陣を奪還すれば作戦成功だ。
(このまま何事もなければいいのだが)
そう都合のいい話はあるまい。人の手では御し切れぬほど変化に富むのが戦であり、どれほど有能な指揮官であろうとも、それを完璧に抑えつけることは不可能。せいぜい致命的な事態を招かぬよう、この眼を凝らして見届けるしかない。
そう心を引き締めたところで。
――首筋がチリッと焼けつくような感覚。
「何奴ッ!!」
叫ぶと同時に、手元に置いていた大盾を引き寄せる。胸元を庇うように構えれば、その中心を凄まじい衝撃が叩きつけた。鋼鉄同士がぶつかる甲高い音が響き渡り、耳の奥がキンと鳴る。
「ぐぅっ!?」
「ヘクトル様!?」
かつてヘルガの剣を受け止めたときを彷彿とさせる衝撃だ。分厚い盾を貫いて痺れが全身を走り、一瞬だけ呼吸が止まる。
(受け止めては危険。受け流さなければ――!?)
数瞬の間もおかず、再び殺気が襲い来る。
痺れる腕を酷使して盾を構えれば、再び衝撃がその中央を打ちつけた。膝関節を柔らかく保ち、全身を駆ける衝撃を喰らわぬよう、地に逃がす。ダメージはなし。同じ手を二度は喰らわぬ。
盾からそっと視線を持ち上げ、突如現れた襲撃者を睨めつける。
「……何奴だ」
そこに立っていたのは、戦場の血煙が似合わぬほど可憐な出で立ちの少女だった。
藍色の髪と瞳、華奢で流麗な身体。とても武器など持てないほど細い指だが、確かに二丁の魔導銃が握られている。
「あらら、奇襲失敗か。あれを防ぎ切るとは思わなかったよ」
「こちらの問いに答えよ」
ジンジンと痺れを訴えていた腕だが、徐々に落ち着きを取り戻していく。
華蘭な見た目に惑わず戦意を向ければ、少女はやがてニッコリと笑みを浮かべて。
「僕は冒険者ノア。依頼を受けて、貴方の生命を貰いに来たよ」
宣戦布告がなされた。




