第246話
翌朝。
エスト高原の空は、大地が戦備えによって一変したこととは正反対に、数ヶ月前に訪れた際とほとんど変わらぬ様相を呈していた。曇りなく透き通った水晶の如き青空を、大きな双翼を広げた鳥が悠々と飛んでいる。
遥か彼方から響く鳥の鳴き声を耳にしつつ、ヤマトは眼前の喧騒に視線を投げた。
『汁物は一人一杯まで! 札を持ってこないと渡すことはできないぞ!』
『大盛りぃ? そんなリクエストは受けつけていない! 受け取ったらさっさと列から外れろ!』
『騒ぐな! 無用な騒ぎを起こせば、その分配給は減ることになるぞ!』
野戦基地の一角に設けられた天幕は、臨時の倉庫として機能している。ヤマトと機兵たちが北の山脈を越えて運んできた物資もその天幕に収められ、今は陣内の兵士たちに炊き出しとして振る舞われていた。
軽く見渡しただけで目眩がするほどの人混み。これほどの数がいたのかと呆れたくなるほどの魔族兵が、天幕の前で振る舞われる炊き出しへと殺到している。ヘクトル直属兵が彼らを整理し、順序立てて食事を与えようとしているものの、なかなか尋常ではない混雑を前に手を焼かされているようだ。
(呑気なものだ)
仮にも物資を運んできた責任者である身ゆえに、炊き出し現場の監査をしながら。ヤマトは魔族兵たちの喧騒に、そっと溜め息を漏らす。
『ククッ、ずいぶんな賑わいじゃねぇか』
「少々はしゃぎすぎのようだが」
周囲に人目がないことを気にしてから、通信機へ密かに返事をする。
「未だ開戦前とは言え、弛みすぎているように見える。そう与し易い敵ではないだろうに」
『生まれてこの方、北地から出たことがないって田舎者の集まりだからな。雪が積もっていない、太陽が空に昇っているってだけでテンションが上がっちまうのさ』
「……そうか。新兵集団だったな」
人の間に伝わる魔王軍の印象は、とかく狂暴な魔族の集まりというもの。およそ尋常ではない術をもって侵略すると伝えられた魔王軍の影に、勇者ヒカルに率いられたヤマトも警戒心を抱いていたものだが。
(人も魔族も、そう違いはしないということか)
見慣れぬ環境へ飛び出せば浮き足立ち、無闇矢鱈に騒ぎたくなる。彼ら全員にとっての初陣だと思えば、これも当然の反応だ。種の命運を決する大戦に臨むには、正直役者不足の感が否めないのだが。
仮面の下の表情をふっと緩めつつ、改めて周囲を見渡す。
(顔に恐怖の色がない。ヘクトルの指揮の賜物か)
軍を率いるにあたって最も恐れるべきは、恐慌状態ゆえに指揮から外れた兵士の暴走だ。特に新兵は経験が浅いために混乱しやすく、容易く軍を崩壊させてしまう。指揮官の能力がどれだけ軍を統率できるかにあると考えれば、ヘクトルが優れた将軍であることが伺える。兵たち皆の信頼を勝ち得ることができる将軍でなければ、戦場を目前にこうも穏やかな空気が流れているはずもない。
戦時にも同様に統率が取れるかは疑問の残る部分ではあるが、今からそれを気にする必要もあるまい。
『――ま、そんなことはどうでもいいんだ。あいつらなんかより、さっさと人間の協力者を確保する方に専念しな』
「人間か」
アナスタシアの言葉に思考を切り替える。
このエスト高原にやって来た理由は、魔王に前線への物資搬送を依頼されたことが一つ。もう一つが、勇者と魔王の大戦を止めるというアナスタシアの目的を成就させるため、勇者側の協力者を得るというもの。前者はひとまず果たせたのだから、今は後者のことを考えるべきだろう。
(とは言え――)
辺りを見渡す。
「ここからは見当たらんな」
『当たり前だろ。捕虜が仕舞われている牢屋なり天幕なりがあるはずだ、探せ探せ』
「そうか」
今一つ危機感の薄い軍とはいえ、捕虜をそのまま歩かせるような不用心な真似はしないということだ。
その言葉に頷いてから、胸中の気怠さを吐き出すように深呼吸一つ。
(牢の場所。そこらの兵から聞き出せば何とかなるか?)
仮面を着けた不審者とは言え、一応は立場のある身だ。怪しまれることはあれど、拒まれることまではないだろう。
気を抜けば胸中に立ち込める暗雲を払い除け、姿勢を正す。周囲にグルリと視線を巡らせたところで。
「――ふむ?」
既視感。
何かが脳裏に引っ掛かるような感覚を覚えて、二度三度と視線を巡らせる。
『どうかしたか?』
「む。いや……」
異変を察知したらしいアナスタシアが怪訝そうな声を上げるが、上手く答えることができない。小骨が喉に支えたような違和感がまとわりつくばかりで、その原因を定かに知れていない。――それでも“何か”が引っ掛かる。
得体の知れない違和感に、首を傾げる他ない。
「――貴様、そこで何をしている!!」
ヤマトの耳に怒声が聞こえてきたのは、そんなときのことだった。




