第242話
「戻ったぞ」
『おう。話があるから、俺の部屋まで来てくれ』
いかにも恐ろしげな魔王城を脱し、不本意ながらも見慣れた研究施設に入った途端、安堵の溜め息が自然と漏れ出た。
魔王を始めとする、魔王軍幹部面々との顔合わせ。怪しげな動きを見せるクロ一行との邂逅。そのどちらもが、気を抜けば取って喰われそうな緊張感に満ちていた。一介の武芸者として出会ったならば心地いい高揚に留まっただろう出会いだが、仮にもアナスタシアの協力者であるという自負が気負いとなっていたらしい。鍛錬では慣れることのできない疲労感が肩に募り、妙な重みを感じさせる。
改めて、自分が格式張った場に似合わない男であることを痛感する。
疲労の滲む身体を引きずるように歩くこと少しして。継ぎ目ない白壁の廊下の先に、見慣れた扉を認める。
「入るぞ」
軽く一声掛けてから扉を押し開けた。
戸の先に広がっているものは、相も変わらず白く殺風景な部屋。仮にも年頃の少女が暮らしているとは思えないほど彩りに欠け、さながら牢獄の如き寒々しさすら感じられる。必要最低限すら満たせていないほど家具に乏しいものの、その一角だけは、見ただけでは機能の分からない魔導具が積み重なり、妙なグラフや図を水晶板に映し出していた。
「来たな。適当な場所で待っててくれ」
「あぁ」
適当な場所とは言っても、壁際で立っているくらいしか選択肢はないのだが。
込み上げる溜め息を噛み殺しつつ、ヤマトは部屋の主――積まれた魔導具を相手に格闘している童女に目を向けた。傍目では何をしているか分からないが、それなり以上に重要なことなのだろう、真剣な眼差しで水晶板を睨んでいる。
(またやっているのか)
ここ数日で既に見慣れてしまった光景だ。童女アナスタシアが語ることには、水晶板には、この施設で集めた実験結果や外で観測されたデータ諸々をまとめて映し出されているらしい。一つ一つを事細かに解説されればヤマトでも理解できる可能性はあったが、そのために彼女の時間を割かせることは忍びない。結局、本日に至るまでヤマトはアナスタシアを手持ち無沙汰に眺めることに終始していた。
「――まぁ、こんなところか」
今日の待ち時間はそう長くない。ぐるっと部屋の内装を見渡し終えたところで、アナスタシアは大きく伸びをして水晶板から目を離した。目頭を指先で揉み込み、グルグルと肩を回す。
「お疲れのようだな」
「うん? そう大したことじゃねぇさ」
苦笑い一つ浮かべてから、アナスタシアはペチッと自分の柔らかな頬を叩き揉みほぐす。
「そっちも結構大変だったみたいだからな。クロに絡まれてたろ?」
「……やはり分かるか」
「そりゃ当然」と言わんばかりにアナスタシアは首肯する。
「通信妨害に人払い、加えて時空隔離の結界。あんな術式をポンポン出されちゃ堪らねぇな」
「時空隔離か」
内部と外部との時間の流れを狂わせる結界術。中の一瞬を外の一日に、逆に中の一日を外の一瞬にも変化させられる高度な魔導術だ。クロが魔導術による通信妨害を行った直前直後とで、アナスタシアの言葉が一続きになっていた理由はそれらしい。かつてノアは結界を破ることに成功していたが、ヤマト一人では太刀打ちの方法すらも思い浮かばなかった。
本音を言えば、ヤマトは既に魔王よりもクロの方を脅威と認めていた。魔王の加護なる怪しげな力さえ除けば、魔王はまだ理解できる力に留まっている。だがクロの方は、その力の底が知れない。
「俺の正体に気づいていたようだが、問題ないか?」
「あー……、まぁ問題ないだろ。あいつは気紛れな上に、魔王からも信用されてない。密告されたところで、幾らでもやりようはあるさ」
「そういうものか」
「そういうもんさ」
具体的な方策はヤマトの頭では考えつかないものの、アナスタシアがそう言うならば任せてしまえばいいだろう。ノアと共に旅をしていた頃にも痛感したが、日頃刀を振り回してばかりいる己が頭を悩ませたところで、何か得になることは稀でしかない。ならば、必要なときに頼られるよう腕を磨き心を落ち着けることに努めるべきだ。
深呼吸一つ。煩わしい思考を頭の外へ追い出してから、改めてアナスタシアに向き直る。
「本題は?」
「クソガキに命令された物資搬送についてだ。エスト高原まで配達するなんざ趣味じゃねぇが、ちょっとやりたいこともあるからな」
察するに、その「やりたいこと」が本題か。
視線で話の続きを促せば、アナスタシアは軽く頷いて口を開く。
「今日顔を合わせて分かっただろうが、今の魔王は微妙な奴だ。配下共が優秀だから粗は見えてないが、そいつらの手綱を引けていないことに加えて、分不相応な野心を持ってやがる。仮にあいつに従い続けたところで、行き着く先は破滅だけだ」
「ずいぶんと辛辣だな」
「隠しても仕方ないだろ?」
その言葉に肩をすくめて応えるが、ヤマトも本心では彼女の言葉には同意したいところだ。
氷の塔での初邂逅の折には、緊急時ゆえに魔王の脅威度ばかりが印象づけられた。ヘルガに比べれば劣るものの、勇者ヒカルには勝るとも劣らない実力は、充分以上脅威的なようにヤマトの眼に映ったのだ。だが先の邂逅では、並ならぬ実力と同時に垣間見える粗さが見て取れた。為政者として戦士として光る素質は持つものの、それを未だ十全に発揮できていない様子だった。
これが争いのない平時であったならば、彼を将来有望な君主として評価することができただろう。だが今は、大陸の趨勢をも決定づける大戦を目前にしたとき。将来にどれほど期待できようとも、今において未熟ならば論じるに値しない。
「でだ。こっち側での地固めは充分だから、そろそろ向こう側に手を出そうと思ってな」
「人と同盟するつもりか」
「向こう側」、すなわち勇者側に立って戦う者のこと。
アナスタシアの秘めた目的が、勇者と魔王の大戦を阻止し、戦いの余波によって破壊される知識技術を繁栄させることという事実を踏まえれば、勇者側に協力を呼び掛けることは決して不自然ではない。
「当てはあるのか?」
尋ねれば、アナスタシアは溜め息と共に両手を上げる。
「なしだ。帝国とだけ緩く繋がってるが、奴らは力をつけすぎた。俺がちょっと口を出した程度で協力する連中じゃねぇ」
「……参戦を促すくらいは可能ではないか?」
「帝国の利益にならないと判断したなら、あいつらは梃子でも動かないさ。ここの連中も帝国が脅威ってことを理解してるから、下手に突いて刺激もしないだろうしな。奴らが参戦するとしたら、勇者と魔王の戦いが長引きすぎたときだな。だがそのときは、既に大陸も相当疲弊していると見ていい。終戦後は帝国の名の下に復旧が行われて、めでたく大陸は統一されるって訳さ。反吐が出る」
「むぅ」
エスト高原で垣間見た帝国の軍事力。それをもって参戦すれば、魔王や騎士団長らが容易く蹂躙されることは想像に難くない。ゆえに少なくない期待を持っていたのだが、そう簡単に事は運べないらしい。
なかなか困難な道程が予想されるが、それゆえに腕が鳴るというもの。軽く頬を叩いて気を張り直してから、アナスタシアの金眼を見返した。
「ならば、どうする」
「現地に行って誰か捕まえるしかねぇだろ。だから、ひとまず最前線にお前をねじ込む」
「無茶苦茶だな。――だが、悪くない」
かつての相棒ならば、策と呼ぶこともおこがましいアナスタシアの提案に苦言を呈していたことだろう。だが、それくらい単純な方がヤマトにとってはやりやすい。
首肯し、募る気負いを紛らわすように腰元の刀を撫でる。少し前とは些か感触は異なっているものの、これはこれで悪くない。
「出立はいつだ」
「機兵に命令入力する必要があるから、すぐって訳にはいかない。が、なるべく早くに済ませるさ。お前は最終調整でもしておけ」
「分かった」
だいぶ戦いの勘が研ぎ澄まされたとは言え、まだまだ詰めの甘い部分は残されている。これから行く先は人間と魔族の戦場。およそ想像のつかぬ出来事が待ち構えていても不思議ではないのだから、準備のしすぎということはない。
打てば響くようにアナスタシアに応えてから、ふと懐かしい心地に頬を緩ませる。大陸を旅していた折も幾度となくノアと言葉を交わし、様々な苦難を乗り越えてきたものだが。
(今頃、あいつは何をしているのだろうな)
今もヒカルのことを支えてくれているだろうか。それとも、ヤマトでは想像もできないような場所にいるのだろうか。――いや、もしかしたら。
幾つもの取り留めのない空想が、頭の中で浮かんでは消えていく。その感覚に僅かなこそばゆさを覚えながら、ヤマトはそっと緩んだ頬を締め直した。




