第235話
世にありふれた人であれば、その問いに何と答えるのだろう。
大金を得て今よりも豊かな生活を送るか。美男美女を侍らせる贅沢を極めるか。いっそのこと世界でも獲ってしまおうか。いずれにしても皆、それらが荒唐無稽な絵空事であることを踏まえて口にするはずだ。真剣にそれを叶えようとは考えておらず、さながら神の奇跡の如く天から降ってくればいいとだけ思っている。
子供の頃に描いた夢に殉じるなどできることではなく、皆が現実を見て賢く生きてきたゆえに今の世がある。その事実は火を見るより明らかであり、ゆえに夢追い人はときに愚者と嘲笑される。
(だが、認めざるを得まい。俺は――俺たちは愚者であるのだと)
金色の眼を爛々と輝かせるアナスタシア。その瞳の奥では果てしない野心が姿を覗かせ、常人には直視し難いほどの輝きを放っている。智を得る代償にかつての輝きを失った者にとって、子供がそのままの純粋さで成長を遂げたような彼女の姿はあまりにも眩く――ゆえに、どうしようもないほど心が騒ぐ。
「俺は……」
「躊躇うことはないさ。他所からすれば取るに足らない荒唐無稽な絵空事、だから何だ? 俺たちにとって“それ”は千金よりも価値を持つものだろ?」
まるで悪魔の甘言。幼気な声がヤマトの耳を通してスルスルと脳を絡め取り、およそ賢さと呼ぶべきもの一切を廃していく。
否応なく理解してしまう。このまま彼女の声に耳を傾けていれば、己はきっと尋常な世界に留まることはできない。先駆者のいない荒道を突き進み、やがて道半ばで朽ち果てる定めに囚われる。それは愚者の道だ。真っ当な暮らしを、友と共に温かな生活を望むのであれば、その道を進んではならない。
「ククッ」
思わず笑い声が喉から込み上げた。
理性が必死に制止の声を上げる。道理を連々と並べて、愚者の道を歩むべからずと己を叱咤する。――だから、何だ。
いつの日だったか、一番の親友に言われたことがある。己の取り柄は「馬鹿であること」。現実や常識に囚われず妥協も許さず、ただひたむきに理想を追い求めた姿にこそ惹かれたのだと。
(ならば、迷う必要もない――!)
面を上げ、間近から眼を覗き込んでくるアナスタシアの視線を真っ直ぐに見つめ返す。
今こそ認めよう。己は愚者だ。およそ叶うはずのない理想を追い求め、その道半ばで殉死する未来を予期しながらも足を止めることない愚者だ。
「――俺は、強くなりたい」
「へぇ」
「大層な理由などどこにもない。俺は心が叫ぶゆえに強さを求める。その果てにあるものが空虚で価値ないのだと嘲笑されたところで、俺はその歩みを止めるつもりは毛頭ない」
そうだ。これこそが己の中核足り得る夢の姿。
故郷で“あの人”と出会い、彼女の言葉を通じて世界の広さを知った。狭い地で刀を振る中で己の限界を悟り、それでも尚、刀の頂へ至らんと欲した。そこにまともな道理などなく、ただ心を滾らせる炎が灯るばかり――ゆえに、現実を蹴飛ばし夢を追うことができる。
半端に得た賢しさが嘲笑する。だからどうした。この夢を追わず生き永らえた己など、誰より己自身が認めることを許さない。他所の理性など知ったことではない。己が己であるために、この夢だけは捨ててはならない。
「世の中には才能ってものがある。どれだけ努力したところで越えられない壁があるんだ。それでも、その夢を追うのか?」
「無論。その程度で諦めるものであれば、俺は夢などとは呼ばない」
「夢を追い、奇跡的にその果てに至れたところで。そこにあるものはきっと虚しい地平だ。誰もお前を理解することなどできず、孤独に空虚な誇りばかりが残るだけ」
「大した問題ではない。例え孤独で空虚であろうとも、それは俺にとって何にも代え難い。ならば、追い求める価値はある」
きっと友らは呆れ果てることだろう。こんな険しく虚しい道を歩もうとする己を、何とか止めようとするかもしれない。
だが、既に賽は投げられた。道理を越して灯る炎を自覚してしまった以上、これ以外の道を考えることなどできない。
「クククッ! 見込んだ通りのいい眼をしやがる! 面白くなってきたなぁオイ!」
新たな玩具を与えられた童の如く、眼を輝かせてアナスタシアがはしゃぐ。
見方によっては可憐に思えるその姿を見やってから、ひとまず思考を現実に引き戻す。すなわち、アナスタシアと手を組むべきか否か。
「世間から馬鹿にされるしかない愚か者なお前だが、俺と手を組むにあたって気にするべき要点は三つ!」
「聞かせてみろ」
「まず一つ目、俺はお前が強くなるためのサポートを全面的に担ってやる。衣食住の保証、敵手の確保、戦場の整備。面倒な諸々全部を俺が片づけてやる」
ヤマトにとって悪いことがないどころか、都合のいいことばかりな破格の条件。これを蹴ろうとすれば、それこそが愚かという謗りは免れない。
既にほとんど気持ちが固まっているとは言え、話の大半を飛ばして承諾するようなことはできない。半ば予定調和の如く頷いてから、話の続きを促す。
「そして二つ目、お前は俺の目的成就のため、俺の依頼をこなすことを要請する。どうしてもって話なら拒否を受け入れるが、基本的には全ての案件を引き受けてもらうぜ」
聞きようによっては道理に合わない話に聞こえるだろう。依頼と称してどんな悪辣非道を強制されるか分かったものではない。知らず悪事に加担させられるなど、常人にとっては耐え難いことだろう。
だが、そのようなことは起こらないはずだという確信がヤマトの内にあった。根拠を挙げるとすれば、己と似た光をアナスタシアの中に見出したからだろうか。大願の仔細を聞き出した訳ではないが、それを外れて非道を行う意思は彼女にはない。
「最後に三つ目。これは要点ってよりは提案、決意表明に近いことなんだがな」
金髪金眼の童女が、その幼気さに似合わない獰猛な笑みを浮かべる。戦士であるヤマトが思わず背筋を正したくなるほどの威迫、歯向かう者があれば誰であろうと撲滅せんという戦意の高揚。
「勇者に魔王。神話気取りで悲劇演じてる奴らに、喧嘩売ってやろうぜ。――お前らは所詮、脇役なんだってな」
片や不敗の名を冠する英傑。その身に宿る加護は常軌を逸し、大陸の人全ての希望を担って王者に反旗を翻す。
片や不死の名を冠する覇者。連綿と受け継がれた血により不死性を獲得し、英傑以外の何者にも殺せぬ王者として君臨する。
両者によって繰り広げられる戦いは干渉不可が常識であり、それを疑う者もとんといなかった。抗おうとした者の尽くが力果て、神話の前に膝を屈してきた。
「さぁ、どうするよ」
悪魔という表現すら生温い。誰にも成し得ぬ偉業を唆すその言葉は、言うなれば魔神の囁き。差し出されるは、人を外道へと招き入れる魔性の手だ。その手を取れば最後、血肉どころか魂が磨り減り失せるその瞬間まで、冥府魔道を引きずり回されることだろう。
(あぁ、だがそれは――)
とてつもなく、愉快なはずだ。
知らず知らずの内に口端が釣り上がることを自覚しながら、ヤマトはアナスタシアに向けてそっと手を伸ばした。




