第231話
「――よう! 顔を合わせるのは始めてだな」
扉を押し開けてすぐ、先程までの死闘と満身創痍な現状に似合わないほど朗らかな声が投げ掛けられた。
血の気が失せた顔を持ち上げれば、殺風景な部屋が目に入る。ヤマトがいた実験室が殊更何もなかった訳ではなく、この施設全体を同じような様式にまとめていたらしい。傷一つ浮かんでいない白い壁と床。中心に置かれた銀色の机に、腰掛ける女が一人。
「……お前は」
「とは言っても治療は毎晩俺がやっていたんだから、実際には顔を合わせているんだけどな」
キメラ戦や機兵戦で負った傷が翌朝にはすっかり完治していたのは、彼女が夜な夜な治療してくれていたかららしい。大方予想はしていたが、改めて聞かされると得心したくなる。その納得を心の奥底に押し込めてから、ヤマトは女の容姿を観察した。
まず目を惹くのは輝くような金髪だ。癖一つない滑らかな髪が背まで流れ、細かな身動ぎに応じてサラリと揺れる。白一色しかない無機質な部屋にあって一段と色鮮やかなそれは、思わず見ないではいられない。
次いでその美貌。完全に左右対称な顔立ち、曇りのない大きな金眼に細かくも長い睫毛、スッと通る高い鼻と色が薄くも艷やかな唇。リーシャやレレイ、認めたくはないがノアといった絶世の美貌を持つ人々に見慣れたヤマトですら、息を呑んでしまうほどのものを彼女は持っている。
だが、それらよりも何よりヤマトの意表を突いた要素が一つ。
「子供だと?」
背丈はヤマトの胸元に届くかどうか程度だろうか。手足もそれに準じて小さく柔らかく、まだ肉体が完成していないことが容易に伺える。
思わず目を点にしたが、すぐに頭を振る。
「いや、違う。何者だ」
「クククッ! こんな幼気な童女を捕まえて、そんなことが言えるかね普通」
非難するような口振りと、わざとらしく傷心をアピールするような声音。それとは正反対に表情には意地悪気な笑みがたたえられ、警戒心を顕わにするヤマトを面白がるように見つめていた。
反射的に視線を険しくさせれば、呆れたような溜め息が返される。
「やれやれ、冗談の通じない奴だな。ちょっと空気を和ませようっていう、俺の小粋な気遣いが分からないかね」
「戯言を――」
こうして口を開くことにすら体力を消耗する始末。女の方は会話を続けたいらしいが、それにつき合っていられるだけの余力はヤマトに残されていない。勝負を仕掛けるのならば、可能な限り早いタイミングが望ましい。
血に塗れた刀を持ち上げ、刃を女の胸元へ向ける。
「叩き斬る」
「ククッ、ずいぶんと威勢がいいじゃねぇかよ」
童女との間合いは数メートル。即座に斬ることはできずとも、一拍の間があれば容易に脳天を断つことはできよう。血を流しすぎたあまりに身体は言うことを聞かなくなってきたが、その程度なら応えてくれるはずだ。芯にヒビが入った刀の方も同様。
対する少女は余裕の表情を浮かべているものの、何かを隠し持っている様子はない。また一目で分かるほどに戦い慣れていない身のこなしで、ヤマトの踏み込みに反応することも困難であろう。すなわち、詰みだ。
(だと言うのに、なぜこいつは余裕を保っていられる)
懸念があるとすれば、その一点。
尋常な手段では逃れることのできない絶体絶命の危地。それにも関わらず、童女は余裕の様子を揺るがさない。取り繕っていると考えるには、あまりにも堂に入った姿。奥の手を秘めているとしても、刃を突きつけられて尚、ここまで堂々と振る舞うことが可能なものだろうか。
戸惑いを禁じ得ないヤマトを前に、童女は悪魔の如き笑みを深めながら口を開く。
「どうしたよ。さっさと斬ったらどうだ? お前の見た通り、俺に抵抗する手段はないぜ」
「く……っ」
「それとも、俺がこんな姿をしていたから躊躇ったのか? だったらその刀を引っ込めてくれよ。俺はこう見えても小心者だからさ、それを向けられてちゃ落ち着かねぇんだ」
大胆不敵な笑みを浮かべながら、幼女はヤマトが突きつける刀を手に取り、その切っ先を喉元にあてがった。元より鋭い刃がその柔らかい手を裂き、赤い血が刀を伝う。決して鈍くない痛みが奔っているはずだが、彼女は表情を僅かに歪めようともしない。怪しげな笑みと共に、一歩踏み出す。
小さな体躯から放たれる途方もない威圧感に、己が完全に気圧されていることを自覚した。無自覚の内に童女から距離を離そうと後退る。
「くそ――っ!」
白刃が奔る。
背筋を駆け巡る怖気。抗い難い生存本能。それらの叫び声に衝き動かされ――気がつけば刀を薙ぎ払っていた。童女の鮮血が四方八方へ飛び散り、ヤマトの頬を濡らす。
途端に込み上げてきた感情は後悔。理性で刃を押し留められず、衝動のままに刀を振るったことが俄には信じられない。武人として越えまいと心掛けていた一線を、己の足が容易く踏みにじっていることに動揺する。
「が、はっ!?」
「なっ、く――」
童女が苦しげな声と共に血反吐を吐く。極東由来ゆえの鋭い刃は容易く柔肌を裂き、致命と確信できる傷を喉元に刻みつけていた。
咄嗟に案じるように手を伸ばしかけてから、その指を握り込む。意図的か否かはさておき、手を下したのは己だ。であれば、今更童女の身を案じるなど――
「あぁくそ、やりやがったなオイ」
流暢に放たれた忌々し気な童女の声が、ヤマトの耳朶を打つ。
もしや幻聴かと視線を上げてみれば、やはり記憶通りに鮮血を撒き散らしながらも、存外に平気そうな表情の童女が喉元を手で押さえている姿が目に入る。その程度で止まる出血ではないはずだが、立ち姿に焦りの色はない。その余裕を表すように、秒毎に童女の喉元から溢れる鮮血は勢いを弱め、五秒も経った頃には傷は跡形もなく完治していた。
「貴様は、いったい――」
「クククッ! 俺が死ぬとでも思ったのか? 生憎と、ただ傷つけられた程度で死ぬような身体じゃねぇんだ。残念だったな。それよりも――」
一度刃を身に受けたことなどなかったかのように、童女は怪しい笑みを浮かべた。
とても尋常ではない。例え強大な加護――勇者ヒカルが有するような加護を得たとしても、喉元を断たれて生存するような真似は不可能だ。それをしてしまえば、そいつはもはや生命の枠からも逸脱したことになる。
気圧され、今度は刀を構えることすら忘れて後退る。そんなヤマトへ歩み寄った童女は、平然と顔を覗き込み、そして何かを調べるように視線を巡らせる。意地の悪そうな笑みがふっと消える。
「思ったより損傷がデカいな。応急処置程度はしておくか」
「何を――」
戸惑いの声を上げる間もなく、口の中へ“何か”が放り込まれた。咄嗟に吐き出そうとしたところを童女の手が塞ぐ。
「俺様特製の薬さ。勝手に溶けて摂取されるから、進んで飲み込む必要はないぜ?」
その言葉が真実であることを示すように、すぐさま口内の“何か“――錠剤型の薬が唾液に溶け込んでいく。これでは即座に口内を洗い流しでもしない限り、薬剤を摂取してしまうことだろう。
先に衝動的に斬ってしまったことへの罪悪感か、それを物ともしない童女への畏怖か。どちらが理由か定かではないが、刀を振る気力は湧いてこない。その代わりに身体の調子を丹念に窺えば、徐々に指先へじんわりと温かい感覚が伝わっていくことが自覚できる。
(これは……?)
「雑に言っちまえば、ちょっとした回復薬だ。根本的な治癒にはなっていないが、一時凌ぎ程度にはなる」
信じ難いことに、白髪の剣士との戦いで失われた力が戻ってくる。とても万全とは言い難い状態ではあるが、今にも意識が暗転しかねないというほどの窮地からは脱したようだ。
恐ろしい薬効だ。瀕死の男が錠剤一つで危篤を脱するなど、現実に溢れているものではない。神話の産物か、はたまた古代文明の遺産なら可能なのか。
「ひとまず顔色はよくなったな。無理に身体を動かせば倒れるだろうが、ゆっくり動く程度ならばもうできるはずだぜ」
「……目的は何だ」
ふわりと柔らかな香りを残して、童女は身を離す。
その後ろ姿を何気なく見送ってから、呆然とした心地のまま口を開いた。敵対意思を見せたとは思えないほどの対応に、ただひたすらに脳が混乱する。
「おっ、ようやく心変わりしたか」
「ひとまず話は聞く。それだけだ」
煌々と燃やしていたはずの闘志は失せ、死を目前にして固めた悲壮な覚悟も薄まった。代わりに湧いてきたのは、簡易的とは言え治療を施した童女の真意への疑念と、訳の分からない事象が続いたことへの戸惑い。
それらを一度消化しようと心を固めたヤマトに対して、童女は真面目な表情を崩し、再び巫山戯た厭らしい笑みを浮かべる。
「それで結構だ。だが、そうか目的か。確かにそれを先に言っちまうのが手っ取り早いかもな」
人の神経を逆撫でするような口振りは相変わらず。それでいながら、彼女の声音から悪意を感じ取れなくなっているのは、己の中に巣食っていた先入観が失せたからだろうか。
黙したまま次の言葉を待つヤマトへ、童女は平たい胸を張って高らかに宣言した。
「――俺の名はアナスタシア。魔王軍に籍を借りる真理の探求者だ。俺はお前に、共闘を申し出たい」




