第230話
「――っ、――っ」
いったいどれほどの時間、刀を振っていたのだろう。
長く過酷な戦いを越した身体は極度の疲労状態にあり、指先一つ動かすことすら億劫なことこの上ない。そんな中にあって時間感覚も当然のように失せており、組み敷いた男がピクリとも動かなくなったことに気づいたときには、既に数時間が経ったような心地さえしてくる。
バクバクと煩いほどに早鐘を打つ己の鼓動を他人事のように聞きながら、刀を握る指を緩める。辺りに溢れる血臭に顔をしかめるが、不思議なほどに胸中は凪いでいた。人を無残に殺害した呵責が欠片も浮かばないことに、我ながら違和感を覚える。
(刀は、もう限界か)
手中の“それ”を見下ろす。
元は優雅な趣すら感じられる華蘭な長刀であったが、白髪の男の血肉に塗れた今は、そのときの名残すら感じさせない。ドス黒く返り血のこびりついた刃は、もはや妖刀と形容した方が相応しい禍々しさを放っている。ならば人を斬ることも容易かろうという心地になるが、先程感じ取った刃にヒビが入る感覚は、今も鮮明に思い出せるほど意識に濃く焼きついていた。頑強さが売りの両手剣であろうとも欠けるほど酷使したのだから、その程度で済んだのは幸運であろう。
いつ折れたとしてもおかしくない。無理させれば人一人を斬るくらいは可能かもしれないが、共に修羅場を駆け抜けた相棒なのだ。その最期くらいは養生させてやるべきだろう。
「世話になった」
服で刃を拭い、こびりついた血脂を軽く落とす。記憶の姿よりも幾分か鈍い輝きの刃。更に手入れを加えてやりたいところだが、今はこれくらいが限界か。
そっと刀を鞘に収めたところで、深呼吸一つ。
『――よお、どうやらお前が勝ったみたいだな』
「……そうだな」
やはり、ここで行われていた戦いも観測していたのだろう。見計らったようなタイミングで、部屋に備えられていた拡声器から声が響く。
ここ数日ですっかり聞き馴染んでしまった声に頷きつつ、鞘を支えに膝を立てる。グラリと上体が揺れたところを懸命に堪える。
『“あいつ”は俺が作った模倣体の中でも一際優秀な奴でな。観測できる限りでは、オリジナルであるお前よりもスペックは上回っていたんだぜ。にも関わらず、五体満足で倒しちまうとはな。いや驚かされた』
「五体満足、か」
『派手に血を流した程度で瀕死ぶってんじゃねぇっての。今どき、生き物の血なんざは幾らでも作れるんだぜ? そこらで寝転がっていれば、俺が適当に治してやるよ』
「ふっ、そうか」
軽く鼻で笑った拍子に視界が暗滅する。
長らく大陸で武者修行の旅を続け、その最中で幾つもの傷を負った。ときに生命に関わるほどの重体に陥った経験もあったが、そのいずれもが、今回ほどに差し迫ったものではなかったと記憶している。満身創痍、虫の息。今ならば幼子の拳すら受け止めきれないことだろう。
それを自覚しながらも、あえて不敵な態度は崩さない。己はまだまだ立てると己に言い聞かせ、脳を欺く。
「ぐ、ぉ……!!」
震える膝を叱咤してゆっくり腰を持ち上げた。激痛。元より平衡感覚の失せた脳ごと視界が大きく揺さぶられ、吐き気が込み上げる。胃液の代わりに喉奥から迫り上がった血塊を吐きながらも、杖の如く立たせた刀を支えに、必死に立ち続ける。
呼吸をする度に、全身から凄まじい勢いで活力が失せているような錯覚――否、きっとそれは錯覚ではない。身動ぎ一つで血が噴き出ている様が理解できた。痛みのあまり、目の前の光景から現実味が失せていく。
『やれやれ。ずいぶんと強情なことだね』
「煩い……!」
いっそ倒れ込んでしまえば。このまま眠ってしまえば、死んでしまえたら、どれほど楽なことだろうか。
そんな悪魔の甘言に抗っている内に、気がつけば両足は地面を踏み締めていた。グラグラと出来の悪い人形の如く身体が揺れるが、ひとまず立つことはできている。
――ここまで来れば、後は楽なものだ。
「首を洗って待っていろ。すぐにそこへ行く……」
『クククッ! 色男にこうも求められるだなんて、俺ってば罪深い女だぜ』
女の軽口には答えず、震える足を一歩踏み出した。
痛覚すらも失せ、末端がジンジンと僅かに痺れているような感覚ばかりが返ってくる。とうとう身体が壊れ始めたらしいと悟るが、痛みで動きが鈍らないことはかえって好都合だ。これ幸いと数歩進み、不意に崩れ落ちそうになる膝を刀で支える。その勢いも前進のためと転じ、再び二歩三歩と足を進める。
一度歩み始めたならば、何か障害に行き当たらない限りは足が止まることはない。今の傷ついた身体にとっては、足を止め腰を下ろすことよりも、黙々と歩き続ける方が負担は少なく感じられるからだ。
(――寒いな)
不意に身体を寒気が奔った。
ふと気を抜けば、指先を包んでいた痺れが寒気の中に失せていくような感覚すら覚える。麻痺の自覚は多少なりとも生を自覚させてくれるものだったが、刻一刻と迫る夕闇の如くヤマトの背に指先を這わす寒気の方は、そうした生易しいものではない。包まれたならば引き返すことの叶わない死の気配だ。
必死に距離を取ろうと足を前へ進めても、死の気配はつかず離れずの距離を保って背筋を凍らせてくる。かと言って、ヤマトには逃げる以外の手は許されていない。
(くそ、こんなところで――)
「こんなところで俺は終われない」。
その台詞を吐いた者は誰だったか――あぁそうだ、己の模倣体だ。ヤマトを元に作られたと言う割には、刀をヤマト以上に巧みに使いこなしてみせた剣士。彼に辛勝できたことは、数奇なる運命の賜物と呼ぶ他ないだろう。それほどに技量は隔絶し、更に心意気においても奴は上回っていた。彼の妄執の源が何であるかは定かではないが、およそ尋常ではない覇気にヤマトは圧倒されていた。
そうだ、圧倒されていたのだ。
(忌々しい。なぜ奴はあんなにも)
訳が分からないながらも無視し難いモヤが身体を絡め取る。
剣士の言葉、眼差し、所作。それら一つ一つがどうしようもないほどヤマトの魂を揺さぶり、激情を煽る。ただ本体と模倣体という間柄なだけでは説明し難い確執が、奴との間にはあったはずだ。だが、それがいったい何であるのかが定まらない。
『おいおい、見ていて危なっかしい野郎だな。そんな調子で本当に俺のところに来れるのか?』
前後不覚に陥りながらも足を進めていたところへ、そんな声が滑り込んできた。
『そこの廊下を渡った先が俺の部屋だぜ。見ててやるから、さっさと来いよ』
「煩い奴だ」
認めるのは癪であったが、女の声が届いた瞬間に辺りのモヤが薄まったように思える。顔を上げれば、暗闇の中には確かに扉が鎮座しているようだ。
目的地が目と鼻の先にあるのであれば、話は早い。残る力を振り絞って足を前に運び、手中の刀で床を突く。
『あぁそうだ。“あいつ”の出来栄えはどうだったよ? 割と自信作だったんだが』
「………」
女の問いに口を開いて応えるだけの余力も残っていない。ただ黙々と足を運び、眼前にそびえ立つ扉に少しずつ近づいていくことで精一杯。
そんなヤマトには元から大した答えを期待していなかったのか、あるいは別の狙いがあるのか。女はあくまで問い掛ける口振りを保ちながらも、独り言のように言葉を続けていく。
『あいつはざっくり言えば、お前よりも高スペックの身体に、お前と同じ記憶を入力した素体なんだよ。つまりは、俺が「お前は素体だ」って言うまでは、お前と全く同じように生きていた。ここから脱出しようとすらしていたのさ』
俄には想像し難い話だが、死を目前に控えて自棄になりつつある今では「そんなこともあるのか」程度に考えていることが自覚できた。
沈黙を保ち続けているヤマトの意思をどう捉えたのか。女はニヤニヤとした笑みを隠そうともしない声音で言葉を続ける。
『あいつとお前の決定的な違いがあるとすれば、自分が偽りの存在だと自覚したかどうかってところだ。お前は自己を疑うことをしなかったが、あいつは自己を疑い、その克服を試みた』
自己存在への疑問。
それが、あの絶えぬ妄執の炎の源となったと言うのか。
『偽物ゆえに、お前を殺して本物になろうとしたのか。それとも別の思惑があったのか。細かなところは俺には分からねぇが、お前なら何か察せられたりするのかね?』
「……知るか」
ノロノロと前進を続けていた足が止まる。床に突き出した刀が扉にぶつかり、ゆっくり手を伸ばせば指先が取手に触れる。
『おっ、着いたみたいだな。鍵は開けてあるから、ちょっと押し込めば開くぜ。本格的な話はそれからだ』
「あぁ」
いよいよもって死期が近い。既に左腕はこちらの意思に反応せず、いつ込めたのかすら分からない力で刀の柄を握り締めている。血も吐けるだけの量が残っていないようで、先程から血の匂いがする吐息ばかりが口から漏れ出る。
もはや、己が何をしようとしているのかも分からない。なぜ女と会おうとしているのか。なぜここから出ようとしているのか。ここから出て何をするのか。それでも、脳裏には仲間たちの残像がこびりついている。
「今、行くぞ」
誰に向けたのか己でも分からぬ言葉を漏らして。
ヤマトはゆっくりと扉を押し開いた。




