第229話
血が足りない。
穿たれた左肩から流れ出た血はあまりに多く、魂が幾ら叫び声を上げようとも肉体がついてこない。気を抜けば暗闇の底へ転がり落ちる意識を保つだけで精一杯で、目を開けることすら困難を極める。
そんな中にあって、底知れぬ執念を感じさせる白髪の剣士の声は、不思議なほど耳によく通った。
「こんなところで僕は――俺は終われない!」
「な、にを……?」
喋ろうとして、血塊が喉元を塞ぐ。
襲い来る息苦しさのままに咳き込み、溢れ出した血を吐き出す。存外に多くの血が唇を濡らすことを薄っすらと感じた。
「死んでたまるか。俺はまだ、何もやれちゃいない……!!」
「……存外によく喋る」
込み上げる感情を隠そうともしない語り口。白髪の剣士は瀕死ながらに戦意を絶やさず、刀を失いながらも拳を握り固めようとする。左腕を斬り落とされ、その身体からは既に力の大半が失われているというのに、膝すら着こうとしない。
(こいつは、なぜ――)
なぜ、こうも戦おうとするのか。己に勝とうとするのか。
そう問いかけたところで、即座に棄却する。答えを考えるまでもない。奴が不気味なほどに勝利に囚われているのと同様か、もしくはそれ以上に。己自身も勝利に恋い焦がれていることを自覚したからだ。
「く、そったれが……!!」
震える膝を起こす。吐息に混じって生命が流れ出ていくような錯覚に陥るが、かと言って息を止める訳にはいかない。血の匂いがこもる外気を取り込み、床に突き立てた刀を頼りにして立ち上がった。
ただ立っているだけだというのに、秒毎に体力が失われていく。さながら瀑布の内に立ちすくんでいるが如く、グラグラと身体の軸が揺れて定まらない。頭を立てることは叶わず、冷たい柄頭に額を押し当てた。
「大人しく、寝ていればいいものを……」
「ハハッ! オリジナルが立てるんだから、模倣体の俺も立つに決まってるだろ……」
白髪の剣士の言葉に、震える唇を愉悦の形に歪める。
こちらには全く覚えはないものの、ずいぶんと己は執着されているらしい。身の全てを――生命すらを投げ売ってでも打ち勝たんとする意思には、煩わしさはそこそこに、溢れるほどの誇らしさを覚える。
とは言え、それにつき合って死んでやる道理はない。ノアやヒカルを始めとする友人たちは、今も魔王軍を相手に戦っているはずなのだ。彼らを置いて先に朽ちるなど、許されるはずがない。
奥歯を噛み締め、渾身の力をもって上体を起こす。刀を正眼に構えるだけの力はないが、せめてもと白髪の剣士を睨めつける。
「――行くぞオリジナル!」
裂帛の叫び。白髪の剣士から気炎が上がる。蹌踉めき、崩れ落ちるような体勢から、その勢いを合わせた踏み込み。
こちらが万全の状態であったならば難なく迎撃できただろう突貫だが、血の気が失せた死に体には些か厳しい。突き立て支えとしていた刀を抜き、床を擦りながら下段に置く。
「オラァッ!」
「ぐっ!?」
繰り出される拳を受け止めるため刀を引き上げ、刃を立てる。
動かずとも羽虫を裂くと称された鋭い刃は、正面からぶつかった剣士の拳をも裂いてみせた。血の華が裂き、肉の奥にある骨が刀身にぶつかる感触が返ってくる。それに安堵する暇もなく、死に体で受け止め切れぬ衝撃がヤマトの胸を打つ。
血糊に濡れた靴底が床を滑り、ガクンッと視点が下がる。肩を起点に全身へ奔った痛みに顔が歪み、刀を握る手から力が抜ける。
「まだ――まだまだっ!」
拳を裂かれ、肉どころか骨が露出する有り様になりながらも、白髪の剣士は吠える。傷ついた身体を押して腕を振り上げ、迎撃のため立てた刀を避けず――それどころか、真っ向から砕かんという勢いで拳を振り下ろす。
一撃。二撃三撃、四撃五撃六撃。
鮮やかに咲き乱れる血の華も最初だけ。次第に肉片が飛び散り、終いには骨片までもが飛沫に混じる。
「こいつ……!?」
「どうしたオリジナル! 守ってるだけじゃ勝てねぇぞ!!」
これが本当に死に体から放たれる攻撃なのか。刀を介して尚受け止めがたい衝撃が身体を打ち、全身の疲弊し切った骨が悲鳴を上げる。
狂気としか言いようがない殺意の奔流。己の骨を削りながら振るわれる拳は、その度に耐え難い激痛を当人にもたらしているはずだが、白髪の剣士は腕を休めようとしない。段々と自身が朽ちていくことが眼中にない様子で、口端に泡を噴きながらヤマトだけを眼中に捉えていた。
(いつになったら――否、こいつは止まるのか!?)
例え拳が失せようとも腕で、腕が失せれば足で、五体が振るえぬほど崩れても牙を剥き、終いに身体が朽ちた後も情念で喰らいついてくる。そんな直感がひしめき、思考に一抹の恐怖が紛れ込む。――それが、きっとよくなかったのだろう。
―――――ッ!!
手元から聞き覚えのない金属音が立ち昇る。加えて、それを遥かに上回る苦悶の悲鳴がヤマトの脳裏を駆ける。込み上げる衝動を抑えきれずに視線を落とせば、手元の刃に小さな――なれども致命的なヒビが入っていることに気づかされた。
(酷使のしすぎか!?)
思えば当然のことだ。
鋼鉄をも断つ鋭さの代償に、手入れの欠かさぬ繊細さと熟練の技巧をもってしても儚い短命を背負った刃が、極東の刀というもの。幾ら戦に勝つためとは言え、振るわれる鉄刀に幾度も打ちつけ、狂気じみた拳を受け止め続けて尚無事でいられる道理はない。むしろ、今この瞬間まで保ってくれたことが奇跡であろう。
何にせよ痛恨に違いない。断末魔に似た悲鳴を上げる刀を握りながら、逡巡する。
その間隙を、見逃すほど生温い敵手ではなかった。
「貰ったァッ!!」
獰猛に牙を剥き、白髪の剣士が飛び掛かってくる。その拳を今一度刀で受け止めれば、今度こそ真っ二つに折れることだろう。かつて相棒を失い、ゆえに丹念に手入れを施してきたからこそ、そのことに耐え難い恐怖を覚える。
――躊躇うな。
どこからともなく響いた何者かの声が、躊躇するヤマトの背を押す。
刀は武人の魂なれど、生命に代えられるものではない。刃の欠けた刀であろうとも、渾身の力をもって振れば人を斬ることは容易い。さぁ、斬れ。
「―――っ!?」
眼前に赤い軌跡が浮かび上がる。その通りに刀を奔らせれば、間違いなく敵手を討てると本能が囁く。指先が独りでに蠢き、刀の柄を握り締めて。
(――駄目だ)
理性をもって、刀を振るわんとする腕を押し留めた。
飛び掛かってくる白髪の剣士。何が何でも腕を振るえと叫ぶ声。それら諸々を受け止めた上で、覚悟を固める。奥歯を噛み締めて。
「オラァッ!」
「ごっ!?」
目の前に星が散った。
全身の力を込めて振るわれた拳が顔面を打ち、脳を思い切り揺さぶる。既に血を流しすぎた恩恵か、改めて血反吐を吐くようなことはない。衝撃に耐え切れず蹌踉めき、定まらない視界の中で再び拳を振りかぶる男の姿を認める。
(これは、受けては駄目か)
夢幻の中に囚われたときのような、定かではない心地の中。振るわれる拳を眼前に控えて、どこか他人事のようにそんなことを思い浮かべてから。
「――おぉッッッ!!」
思い切り右腕を振り回した。
「がっ!?」
逆手にした刀の柄頭が、何か硬いものを捉えた感覚。鈍く肉を打つ音と骨を砕く音、次いで男の苦悶の声が耳に入る。入れ替わりに拳がヤマトの頬を撫でるが、大した力はこもっていない。グラリと脳が揺れるものの、そのまま倒れぬよう踏み留まることはできた。
奇跡的なほど上手く入ったカウンター。白髪の剣士は顔面から血を撒き散らしながら、グラリと後ろへ身体を傾かせる。――ここだ。
「ラァッ!」
「て、めぇ……!!」
男の腰元に思い切り体当たりを喰らわせ、そのまま地に這わせる。腹部を膝で押さえつけ、血に塗れた顔を見下ろした。
かつて夜月を映すススキの如く輝いていた白髪は、血肉に塗れて赤黒く汚れている。当初の涼し気で飄々と顔もどこへやら、今は絶えぬ妄執の炎を双眸に宿してヤマトを睨めつけている。
「これで、終いだ」
「くそ、ったれがぁ……!」
なぜこんなにも敵意を向けられているのか。何がそんなに彼を衝き動かすのか。幾つかの疑問は残るが、もはや関係はない。これにて勝負は終わり。己と此奴の縁も失せる。
手中の刀を掲げ、柄頭を男の顔面に向ける。
死を目前にして尚、白髪の剣士は敵意を剥き出しにして喰らいつこうとする。死地にあり、終焉を目前にしながらも足掻き続けようとする胆力は天晴かな。ゆえに、この手で幕を下ろそう。
真っ直ぐに、刀を振り下ろした。




