第227話
飢えた獣の如く牙を剥き出しにして、白髪の剣士は踏み込む。
大上段に構えられた白刃に対して、こちらは刀を下段に置く。刀を握る最小限の力を除き脱力、凄まじい勢いで肉薄する剣士を睨めつける目へ気を巡らせる。
(どの程度の使い手なのか読めん。まずは挨拶代わりの――)
直後、背を駆けた怖気のままに飛び退る。
一瞬前までヤマトが立っていた虚空を白刃が音もなく裂き、まだ幾程か猶予ある間合いにいたはずの剣士が刀を振り抜いた後の姿が目に入る。必殺の刃が空振ったことに目を張る間もなく、白い影が再び間合いを詰めてきた。
(『水月』だと!?)
驚愕に目を見張る暇もない。
前進したかと思えば身体の軸がぶれ、左右へ逸れたかと思えば間合いを一気に詰める。尋常な術ではその走行を見切ることは叶わない。その足取りに目を惑わせたならば、刹那の内に刀がヤマトの生命を断つことだろう。
傍目から情けなく見えるほど必死に身を翻すことで、辛うじて襲い来る刃から逃れる。何とか斬撃の間隙を見切るため目を凝らそうとも、隙間なく駆使される『水月』がそれを許さない。
「ちっ!」
「どうしたのさオリジナル! こんなものじゃあ興醒めだよ!!」
苦々しさを滲ませた舌打ちを漏らせば、ギラギラと獰猛な眼光で白髪の剣士が吠える。
ひたすらに後退りながら牽制代わりの斬撃を奔らせるも、手応えは少しも得られない。まるで夢幻を相手取っているような感覚だが、紛れのない実体を伴った殺意は着実にヤマトを追い詰める。
(くそっ、やってくれる……!!)
数瞬前、安易に様子見を選択した己を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
女と白髪の剣士が散々に口にしていたことだ。奴は己と同等以上の腕を持ち、滾る戦意は充分以上。必殺を信条とする刀術を使いこなすともあれば、下手に受けへ回ることは自殺行為に等しい。そのことは、大陸の武者相手にヤマト自身が幾度も証明してきた――にも関わらず、定まらない心地のままに受けに回ってしまった。その要因は、己と同じ容貌をした敵手に惑ったか、あるいは近頃の好調に慢心したか。
(いずれにせよ、多少の手傷を覚悟で切り返さねば後はない!)
消極的に後退るだけで、刀の技が尽きることはない。無理矢理にでも勢いを堰き止めなければ、瀑布に等しい殺意の嵐が止むことはあり得ない。
意を決し、軽い斬撃を滑らせた刀を引き寄せる。鋭い殺意を前にすくみそうになる身体を激励し、刀を大上段へ。
「――『斬鉄』ッ!」
「温すぎる!」
一閃。頭蓋を裂き正中線を断つ軌道。
誰の目にも明らかな必殺を目前にして、白髪の剣士は更に笑みを深める。身体をグッと沈め込み、転進――かと思えば、後退する足を止めて刀を胸元に寄せる。
(見切られただと!?)
自傷覚悟の一撃が虚空を斬る。その切っ先は剣士の額を掠めることも叶わず、鼻先一寸前を通り抜けるに留まった。
驚愕を顕わにしたヤマトに対して、白髪の剣士は刃を煌めかせる。胸元に寄せた刀はさながら槍の穂先の如く構えられ、相対するヤマトの目からは点にしか見えない。
「ぐぅっ!?」
「へぇ? やるじゃないか」
矢の如く放たれた突きが、ヤマトの肩を貫いた。あまりに鋭く鮮やかな太刀筋ゆえに鮮血は舞わぬものの、痛みのあまりに視界が真っ赤に染まる。
本来ならば心臓を穿つ刺突だったが、間一髪でその切っ先から逃れることは叶ったらしい。代償として左肩を抜かれたものの、致命に比べれば軽いものだろう。少なくとも、まだ刀を振ることはできる。
敵意を隠さず右手の刀を振りかぶったヤマトに対して、白髪の剣士は感心するような言葉を漏らす。
「シャァッ!!」
「気概は買うけど、流石に刃が鈍っているようだね」
傷口を無理矢理広げるように、横薙ぎに払われた刀が左肩から抜かれる。
雨のように鮮血が舞い、頭蓋をグラグラと揺さぶるような死臭が鼻孔に滑り込む。それを除けるように破れかぶれで振り回した斬撃は、呆気なく白髪の剣士の眼前を通りすぎていった。
(マズい、マズいマズいマズい――!!)
ガンガンと警鐘がかき鳴らされ、募る焦りが脂汗となって額から溢れ出す。
相も変わらぬ痛みで左半身が麻痺し、身動ぎ一つするだけで眉間にシワが寄る。傷口を抉る際にあえて荒く斬られたのか、ダラダラと滴り落ちる血が左腕を赤く染めていく。その勢いから察するに、十分ほども放置していれば出血多量で意識を失う可能性がある。
ヤマトが苦悶に表情を歪める様が愉悦なのか、白髪の剣士は追撃の手を休めて嘲笑を浮かべた。
「くくっ! いい見た目じゃないかオリジナル。痛みの感覚はどうだい?」
「……最悪だな」
痛みのあまりに左腕が痙攣を始めることを自覚しながら、余裕綽々の表情を睨めつける。だが、幾ら視線に敵意を込めてみたところで、それで白髪の剣士が傷つくはずもない。
(どうする、時間と共にますます形勢不利になるぞ)
血の香りが漂う呼気を吐き、思考を巡らせる。
先程の交錯で悟らざるを得ない。両者共に十全な状態で戦いに臨んだとして、十回に七回以上は白髪の剣士に軍配が上がる。間違いなく相手方が上手であり、ヤマトには僅かな勝機を狙う以外に勝ち筋はなかった。
だがそれも、共に十全であるならばという前置きの上だ。左腕が機能不全なほどに傷ついた今にあっては、十に一つも勝ちの目はない。
(何か、何か隙はないか!?)
右手の刀を正眼に構える。
白髪の剣士につけ入る隙があるとすれば、詰めの甘さだろうか。今こうして会話に興じていることが何よりの証左。この隙に追撃を加えていたならば、ヤマトは為す術もなく倒れ伏すしか――
「くそっ! 違うそうじゃない……!!」
己の馬鹿さ加減に辟易する。相手が格上だと口で語りながら、未だに軽く見積もるなど愚の骨頂。状況が許すならば、この頭を自らの手で殴り飛ばしてやりたいほどだ。
追撃の手を休めているのは、白髪の剣士が慢心しているから、詰めが甘いからなどという理由ではない。ただ単純明快な話で、そうした方が奴にとって安全だからだ。ヤマトの左肩を破壊した傷は深く、こうして立って思案するだけでもジワジワと体力を削っている。手負いの武者に止めを刺すよりも、適当に時間を稼いで力尽きるまで待った方が効率的だ。
今こうして相対している間にも、戦況は刻一刻とヤマトにとって不利に動き始めている。
(俺から攻めるしかない――!)
痛みを堪えたまま踏み込もうとして、直後に白髪の剣士の指先が蠢くところを確かめた。足が止まる。
考えもまとまらぬ内に迂闊に踏み込んだところで、この身を真っ二つに斬られて終いだ。事実として奴はヤマトの踏み込みを察知し、その迎撃のために身構えてみせた。余裕ぶって嘲笑してみせているのもポーズにすぎず、双眸は冷静沈着にヤマトの動きを探っている。容易に突け入れる隙を晒せば、呆気なく首を跳ね飛ばされるだろう。
「く、そ……!!」
攻めなければならない。攻めることはできない。
相反する二つの事実が脳内を渦巻き、どうすることもできずに足を地に縫いつける。グチャグチャと散らかって一向にまとまる気配を見せない焦りを表すように、手にした刀の切っ先が細かに揺れた。
今のヤマトに許されたことは、白髪の剣士が容易に刀を振れぬよう身構えることと、着々と左腕から血を流すことのみ。徐々に爪先が冷たくなり、視界が暗くなっていく。己を苛む無力感を堪え切れず、噛み千切るほどの勢いで唇に歯を立てて――
「――思ったより大したことないな」
「……何だと」
嘲笑するような色はない。ただ純粋に、落胆の色だけを浮かべた言葉。
それが無性に耳にこびりつく。納刀音を最後に白髪の剣士から闘志が失せ、代わりに心底萎えたと言うように目から感情が失せる。
「マスターはお前を見込んで僕を作った。只の人間にしか見えないオリジナルだけど、きっと何かがあると見込んでいたんだ。僕も、そんなオリジナルを元に作られたことは誇らしかった――なのに」
その言葉に邪気はない。己の素直な心情を吐露しているにすぎないのだ。ヤマトから理性を奪うための挑発ではなく、幼子が劇の感想を述べるような口振り。
「オリジナルがこの程度だったなんて。マスターも見込み違いだってガッカリしてそうだね。マスターの推測が間違っていたって判明した訳だから、全くの無駄じゃないにしても――」
「ずいぶんと、口が回る」
気がつけば、左肩の痛みが意識の遥か彼方へ追いやられていた。代わりに腹の奥底から湧いてくるのは、全身を飲み込むほどの激情。
理屈も道理もなく、ただ無性に腹立たしい。これが意図された挑発だと言うならば大した手腕だが、そうではないゆえに、剣士の言葉はヤマトの琴線に触れた。何としてでも言葉を覆してやろうという気概が無力感を押し流し、一瞬前まで頭にひしめいていた雑念をまとめて燃やし尽くす。
痺れる左半身に鞭打ち、無理矢理に半身になる。正眼の刀を携え、刃の先に白髪の剣士を捉える。
「ふぅ――」
整息。
胸の内で荒れ狂う激情の炎を鎮めようと――即座に諦める。生半可な精神統一で収まるような昂ぶりではなく、遮二無二に刀を振り回しでもしなければ、この炎は失せそうにない。
ヤマトの様子が一変したことに気がついたのか、白髪の剣士は眉尻を僅かに上げる。その小さな仕草一つが、無性に癪に障る。
どうすれば奴の刀術をかい潜れるか。この傷を負った中でどのような手が効果的か。いつも通りに戦略を脳裏で組み立てようとしたところで、それら全てを捨て去った。
今、己が為すべきことは何か。その答えは決まっている。――ならば、グダグダと思案する必要もあるまい。
「――斬り捨てる」
死中に活あり。己が剣士であると誇るのであれば、道は刀の中に見出すべし。
その心意気に応えるように、手中の刀がギラリと狂暴な光を放った。




