第223話
分厚いモヤの中に入り込み、前後不覚に陥る感覚。
水中に囚われたかのように身体が自由を失っていることを確かめて、ここが夢の中であることを認識した。
(また、この夢)
都合三回目。ここまで連続して過去の夢を見ていることに、少なからず作為的なものを感じずにはいられない。よもや鬼の所業かと疑いたくなるが、今のところ実害には至っていない上に、現実ではどのようなことが起きているかを思い出せないのだから、思案するだけ無駄とも言える。
諦観を滲ませて脱力。一種の悟りを開きながら周囲を見渡したところで、例によって黒塗りの世界が色鮮やかに彩られていく。
(始まるか)
これより始まるは、ヤマトが極東にいた頃の記憶。道理を弁えぬ童だった頃を越し、道の端緒を知るのみで全容を知った気になった青二才を経て。今宵の夢で描かれる情景は、いつの頃の姿であろうか。
色とりどりの絵具をぶち撒けたような世界が、徐々に秩序を取り戻していく。空と大地が描かれ、両者を貫かんとする大木の幹が描かれて。
「――くしゅっ!」
くしゃみが出た。直後に冬の寒風が首筋を撫でていき、寒気に肌が粟立つ。
辺りを見渡せば、そこは見覚えのある森の中。夏の頃とは打って変わって色鮮やかさを失いながらも、微かな生命の鼓動が感じられる木々が辺りに立っていた。
「寒すぎる……。森に出たのは失敗だったか」
これまでの夢同様に口が勝手に言葉を紡ぐ。その声音を聞いて、今現在のものと大差ないことを悟る。
同時に、この夢が何を描いたものか見当がついた。久しく記憶の底に眠っていたことは確かだが、忘れられるはずもないほど決定的な出来事だ。
夢の中のヤマトは寒気に身を震わせながらも、周囲を見渡して人影がないことを確かめた。腰元に変わらず下げていた木刀を握り、正眼に構える。その切っ先が向く先は、冬を迎え色褪せたように見える大木の幹だ。幾度となく打ち込んだことを思わせる傷跡が刻まれている。
「ふぅ――」
整息。
冬特有の乾き冷たい風が肺腑を凍てつかせ、思わず硬直させてから。息を吐き出し、体内を巡る血流を意識する。
「シャッ!」
掛け声と共に木刀を振り抜いた。
乾いた風切り音、腹の底に響く鈍い打撃音。細かく舞い散る木片を巻き込み、返す刃で木刀が再び木の幹を打つ。
高速の打ち込み。未だ実戦を知らぬゆえの固さは残るものの、その刀術は極めて高い水準で完成されている。一撃一撃が人の骨を容易く砕けるほどの威力を秘めた連撃が、息を吐く暇もないほど素早く打ち込まれていた。
上段、下段、下段。突き、薙ぎ、回し、袈裟斬り。里の師範に教わった型をなぞり、ときにそれを逸しながら木刀を振る。素人目には一つの芸術作品に見えるほど鮮やかな剣舞。だが、その斬撃を後方で見たヤマトはそっと溜め息を零す。
(見ていられん)
まるで子供の八つ当たりだ。
一太刀一太刀に込めるべき必殺の魂をどこかに忘れ去り、ただ我武者羅に木を打つことに専心する有り様。刀術を磨くために振るのではなく、己が胸中のわだかまりを吐き出すために木々を殴っているのだ。これでは技が向上するどころか、無闇に木を打った衝撃で身体を痛めるばかりであろう。
思わず制止したくなるものの、言わば亡霊の如きヤマトにそれができるはずもない。諦めと共にその動きを目で追ったところで、ガサッと枯れ枝を踏む音が耳に入った。
「――誰だ!」
「私だよヤマト。久し振りだね」
「師匠!?」
反射的に木刀を振り上げ、音の鳴った方へ叫んだ直後。
霜が降りた土を踏み締めながら、師匠――幼き頃から年に一度だけ会合を繰り返してきた“あの人”が姿を現した。
「なんで……」
深い笠で顔半分を覆い隠し、紅を塗らないながらに色鮮やかな唇だけが覗ける。艷やかな黒髪が一結びにされて背から垂れている姿も、飾り気のない藍色の着物も、腰に一振り下げられた長刀も相変わらず。幼少期に出会って以来、既に十年ほど経っているはずだが、彼女の姿は当時から全く変わっていないように見える。
思いがけない出会いに頬をほころばせながら、それでも隠し切れない疑問を顔に浮かべて、夢のヤマトは木刀を下ろす。
「なぜここにいるのです? いつもはもっと暑くなった頃合いだったはずですが」
「いやなに、ふとした気紛れさ。特に大きな理由はないよ。あえて挙げるなら、弟子の顔が見たくなったというところだ」
当時は師に出会えた喜びで一切気がつくことができなかったが、その背後で見守るヤマトからは、師が何事かを誤魔化すように早口になっていることが分かった。邪念は感じられないが、問い詰められると都合が悪いことでもあるのだろうか。
麗しい唇から無意識に視線を外しながら、ヤマトは師に尋ねる。
「そうでしたか。今日は里に立ち寄ります?」
「遠慮するとしよう。急な来客というのも、些か迷惑そうだからね」
「そのようなことはないのですが……」
「まぁ、それよりさ」
微妙に未練を感じさせる言葉を断ち切って、“あの人”は笠を持ち上げ、紫紺の瞳でヤマトの目を覗き込んだ。
それだけでドギマギとしている自分に、無理からぬことという共感と、情けないと顔を覆いたくなる羞恥心が生まれる。
「な、何か――」
「ヤマト、何を悩んでいるんだい?」
その問い掛けに、ヤマトは言葉を詰まらせた。
「どうして分かったのか」「特に悩んではいない」「大したことはない」。様々な言葉が脳裏を駆けるも、結局は口をパクパクと開閉するだけに留まり、遂に言葉が漏れ出ることはない。結局、何を言うこともできないままに口を閉ざして俯いた。
「懸念があるんだろう? それも、君の根幹を揺るがすほどの大きなものが。私じゃ頼りないかもしれないけど、よかったら聞かせてくれないか?」
「俺は……」
様々な思念が頭を渦巻き、どう言葉にすればよいのか分からない。
そんな己の姿を他人事のように見下ろしながら、ヤマトは当時のことを回想した。
(里を飛び出す寸前のことか)
結果から言ってしまえば、このときの悩みをきっかけにしてヤマトは里を飛び出し、刀一つを頼りにして大陸へ飛び出していったのだが。それは置いておくとして。
“あの人”や里の師範から刀の扱いを教わり、自らも精力的に刀に向き合ったことで、当時のヤマトは巧者として近隣に名を馳せていた。魔導に一切の適性がないという欠点こそ抱えていても、当時の極東では魔導技術はほとんど発達していなかったゆえにそれほど重要視されず、純粋に刀術が巧みだと評価されていたのだ。ときにヤマトへ刀術の試合を申し込む浪人が現れるほどであり、将来が楽しみだと両親共に鼻高々であったことを覚えている。
そんな折に、ヤマトたち一家の元へ一通の文が届けられた。記されたものはただ一言なれども、それに似合わず華美な装飾を施された文だった。
「……招集されたんです」
「招集?」
「神皇の近衛としてです。前に追い返した浪人が、どうやら都の監査役だったらしくて」
神皇とは、この極東を統べる王のこと。神話に語り継がれる神々の血を継ぐと伝えられる神皇は、様々な武士が覇を競って争う最中にあっても、必ず極東の頂点にあるべしと誰もが認める存在だ。
その近衛――神皇が住む御所の警備兵ともなれば、一国一城の将に等しいほどの名誉が認められる。極東各地に名を馳せる猛者が募る近衛は、実際に並外れた力の持ち主が集結しており、ほんの数十人で一国の総力に等しい力を発揮する。
とどのつまりは、この上を望むべくもない話だ。家族丸ごと養えるだけの給与のみならず、末代まで語り継げる栄誉が与えられる。
「凄いじゃないか!」
「……えぇ、まぁ」
笠の下の瞳を驚きに丸くして、師は歓声を上げる。
その音の響きに頬を緩ませながらも、ヤマトの表情は優れない。そのことにすぐ気がついたようで、“あの人”は表情を平時のそれに戻した。
「けど、察するにそのことが悩みの種なのかな?」
「はい。家族や里の皆も喜んでくれているんですけれど……」
当時のヤマトには、ただ漠然と「嫌だ」程度のことしか分からなかった。困った表情の“あの人”に明瞭な説明をすることもできず、ただ鬱々とした様を見せつけるに留まってしまったのだが。
(結局は、束縛されることが嫌だったというだけの話)
神皇の近衛。名実共に栄誉に溢れた職ではあり、望んで就けるようなものではない。一度携われば将来までの安寧が約束されるがゆえに、誘いを断るような物好きはそういない。問題点を挙げるとすれば、神皇という重要人物に仕えるゆえに自由が制限されることであり――それが、当時のヤマトにとっては耐え難いものであったのだ。
(素直に近衛になっていれば、もっと違う道が開けていたかもしれんが)
極東各地から剣豪を集めた御所。その中に身を置けば、大陸を当てもなく彷徨うよりも遥かに効率的に腕を磨けたことだろう。今直面している壁などは遥か後方に置き去りにして、勇者も魔王も関係ないと一蹴できるだけの力を得ることも可能だったかもしれない。
そうして腕を磨き、極東随一の剣士となったとき。それまでの日々を誇らしく思い返すことができるだろうか。
(恐らくは、否)
狭い御所に閉じこもらず、広い世界へ旅立ち腕を磨いた。様々な価値観を抱く武人と相対し、ときに血を流しながら研鑽した。その日々は、ただ効率を見れば回り道だったかもしれないが、この道を辿ったからこそ今の己がいると確信している。
「――そっか。根っこは変わってないみたいだね」
「なっ!?」
“あの人”の言葉が、不思議なほど迫って聞こえる。
思わずそちらへ目をやろうとしたところで、夢の中の身体が動いていることに気づいた。記憶を再現するために奪われていた身の自由が蘇り、肉声も思った通りに出せる。その眼前で、“あの人”が笠の下から真っ直ぐな視線を送っていた。
「師匠……?」
「さぁヤマト。いつまで足踏みしているつもりだい? 私が教えた君は、道が分からなくてもとりあえず走ってみるような、手のつけられない腕白小僧だったはずだよ」
呆気に取られるヤマトの前で、“あの人”はいつか見たような眩い笑みを浮かべる。
かつての冬景色を映した世界が崩れ始めた。色褪せた木の幹や霜が降りた土が消える中、変わらず鮮明な輝きを伴って“あの人”は語り続ける。
「大陸に渡ってから色んな出会いがあったんだろうね。始めて会ったときと比べると、君はずいぶんと大きくなった。道理や摂理を知り、その中で己を輝かす術を知った君は、もう立派な大人さ。――だからこそ、もう一度我武者羅に走ってみることもできるんじゃないかな?」
「いったい何のことを!?」
「常識が人の夢を縛り、責任が人に現実を植えつける。いつしか人は自らの可能性を閉ざし、漫然と日々をすごすようになる。そのことは悪くない、現実を見なければ人は生きていけず、そうして数々の偉業を成してきた。だけど君は――」
これは現実か夢か。崩れ行く世界の中、己の存在すらも不確かになっていく。
そうした混沌にあって、“あの人”だけは姿を崩すことなく。極東ですごした日々のまま変わらぬ姿で、優しげにヤマトを見つめる。
「さぁヤマト、決断のときだ。夢を抱くか、現実を歩むか。どちらを選ぶかは君の自由だけど、後悔はしないようにね?」
「何を――何を言っているんです!? いや、それよりも貴方は――」
必死に叫ぶヤマトの思いを他所に、夢が覚めていく。
世界が現実の光に白く染め上がり、師の姿を眼に捉えることすらできなくなる中。口元に緩やかな弧を描いた“あの人”の声が、最後にヤマトの耳に響いた。
「それじゃあねヤマト。またいつか、いつもの場所で会えるときを楽しみにしているよ」
「師匠ッ!!」
目も開けられないほどの白光が爆発する。
反射的に目蓋を閉ざしたところで、意識が暗転する。水底に横たわっていた精神が急浮上し、水面目指して足掻いて――




