第219話
「―――」
意識が覚醒した。
夢の中では思考を覆っていたモヤが嘘のように霧散している。少し記憶を辿れば直前の出来事――この部屋でキメラと死闘を繰り広げたことと、戦闘直後に睡眠薬を投与されたことが想起できた。
(舐めた真似をしてくれる)
メラッと憤りの炎が胸の中で立ち昇るが、努めて腹の底で鎮める。今ここでそれを発露したところで何の得にもならないどころか、かえって損になる可能性の方が高い。
深呼吸を数度。腰元の刀を握り精神統一。
「……よし」
平常とまでは行かずとも、ひとまず燻りは収まった。
軽く頷いてから薄く目を開く。飛び込んできたのは、先日に嫌というほど目にした純白の部屋だ。緑色の血を撒き散らしながら力尽きたキメラの死骸は失せ、戦闘があったことが嘘のように静謐な雰囲気を取り戻している。
白い壁にもたれかけた背を起こし、静かに膝を立てたところで。部屋の隅に取りつけられている拡声器から、ブツッと何かが切り替わる音が聞こえた。
『お? ようやくお目覚めかよ』
「貴様は」
思わず語気が荒くなったことを自覚して、続く言葉を飲み込む。
そんなヤマトの様子が面白かったのか、拡声器の向こう側から愉快そうな笑い声が響いた。平時ならば可愛らしくも思えた声だが、今はやたらと神経を逆撫でにされている心地になる。
『具合はどうだ? こっちのデータじゃあ問題なし。実験に支障もないレベルに落ち着いているようだが』
「……そうか」
言われて、若干の違和感を覚える。
睡眠薬によって強制的に意識を遮断されたために細かな時間感覚は失せているが、若干の疲労感や空腹感は覚えていて然るべきだ。それだけキメラとの戦いは過酷なものであったし、相応の時間は経ったらしいと直感は告げている。それにも関わらず、今の身体は万全そのものであった。
そうした身体の調子のみならず、キメラに負わされた左肩の打撲まで回復している。高速治癒の加護を得た者ならばあり得る話だが、無論ヤマトにそんな代物は備わっていない。
(どういうことだ?)
内心で首を傾げたヤマトに応えるように、女の声が拡声器から響く。
『薬で眠らせている間に諸々の処置は終わらせてるぜ。妙な感覚があれば今の内に申告しろよ?』
「ほぅ?」
『今日もこれから実験を始めるからな。調子が悪いから失敗しましたなんて言ったら、張り倒すぞ』
実験。
先日のキメラから推測するに、再び尋常ならざる相手との戦闘を強要されるということか。女の思惑通りに事が進むのは業腹であるが、確かに万全の態勢で臨まねば命が危うい。
改めて身体の調子を確かめ、刀の柄を握り締めて。刃を抜きかけたところで、その“鈍り”に気がつく。
(身体の芯が重い。すぐに支障を来たすほどではなさそうだが……)
『どうした?』
「……そうだな」
身体の具合に問題はない。女は先程そう言っていたが、確かにヤマトの感覚では身体が僅かに鈍い。女の言葉に信を置くのであれば、これは心の問題――日々の鍛錬で培う気と身体が乖離し始めているということか。
そんなヤマトの事情を完璧に理解した訳ではないだろうが、女も何事かを察したらしい。拡声器越しに深々と溜め息を漏らす。
『五分やる。その間に調整しろ。無理そうならもう一度点検だ』
「助かる」
五分。この“鈍り”を是正するには心許ない時間だが、ないよりは遥かにマシだろう。
女の言葉に頷いてから、腰の刀を抜き払う。その刃の怪しげな光を見下ろし、正眼に構える。
「――ふぅ」
整息。
刀の切っ先を微動だにさせないまま、心に凪いだ水面を映す。外界の些事に揺れる自己を池の底へ沈め、核とも言うべき揺れない己を水面に立たせる。
(―――)
先程の夢に引きずられたのか。ふと、かつての記憶が蘇る。
それは“あの人”から始めて指導を受けた日のこと。何をするでもなく遊び呆けていた少年が刀を握る契機となった出来事だ。ほんの一時間にも満たない邂逅で“あの人”が教えてくれたのは、刀の構え方だった。
(心に水を描け。風も音も光もない中、月影を余すところなく映す鏡の如き水を)
すなわち“静”の極地。
目に映らぬ些事を逃さず映し、他方で触れたとて砕けぬ水鏡。数多ある”動”の太刀を統べるに相応しく、刀の基本かつ深奥と呼ぶべき技。
『へぇ。大したものだな』
かつて“あの人”を師事した童には理解できなかった。“静”も“動”も弁えぬ素人が会得できる技ではなく、ただ形を真似るに留まった。
“あの人”の下から旅立った青二才には認められなかった。技の道理を知ったがゆえに“動”ばかりに気を惹かれた若造は、その深奥に目を留めることができなかった。
(今ならば、“あの人”にも認められるだろうか)
夢想して、即座に首を振る。
かつて目を焼いた“あの人”の輝きは、他ならぬヤマト自身がよく知っている。力を得て技を知るも、その深奥に指先を触れさせた程度の未熟者では話にならない。例え“あの人”が認めようとも、ヤマト自身が己を認めることができそうにない。
だが、それでいい。理想は追わずにいられぬほど輝かしいものでありながら、容易く至れるものでないがゆえに、理想足り得るのだから。
「整ったぞ」
『おう、きっちり五分だな』
刀が思いがけないほど手に馴染む。その刃にまで神経が行き交い、切っ先に触れる空気すらも手に取るように感じ取れた。先程まで覚えていた微弱なズレも失せ、今ならば自信を持って万全と頷くことができよう。
そんな内心の変化を感じたのか、拡声器の奥で女が感心するように溜め息を漏らす。
『身体データに変化はない。瞑想中に何かをした様子もないが――確かに、変わっている。データに映らない部分の変化か』
「始めないのか?」
『始めるが、少し待ってろ』
女の声音から、つい先程までは絶えず含まれていた煽りの色が失せていることに気がつく。ブツブツとほとんど聞き取れない程度の声は思わず背に怖気が走るほど凄味に満ちており、どこからか身体の隅々までを抉るような鋭い視線が突き刺さることが感じられた。
顔をしかめ、衝動に任せて刀を振りかぶろうかと思い立ったところで、拡声器から女の疲れたような溜め息が聞こえる。
『ふぅむ。もう少し検証の余地があるか』
「終わったか?」
『あぁ待たせたな。それじゃ早速だが、今日の実験に移るとしようか』
いよいよ本番。
姿も見えぬ女の思惑に乗って戦うことへの抵抗感はあれども、ここに退く手はない。ヤマトに許されているのはただ刀を振ることだけだ。とても心が沸き立つような場面ではなかった。
(――だが、せっかくの難敵だ)
楽しめる戦場ではない。だが、不思議なほどに気は満ちている。
その要因は先日に続いて目の当たりにした“あの人”の姿にあった。永らく記憶から失せていた輝きを目前にして、奮い立つなという方が無理な話。
(無様な姿を晒さぬよう、せいぜい気張らねばな)
気迫に応えるように、刀がギラリと凶暴な輝きを放つ。
それに確かな頼もしさを覚えながら、ヤマトは相手が姿を現すところを待ち構えた。




