第218話
(――また夢か)
身体が泥の中に埋まり、モゾモゾと身動ぎするのでやっとなほどの倦怠感。
つい最近に感じた覚えのある感覚に、今夢を見ているらしいことを悟った。思考が分厚いモヤに包まれたかのように満足に働かず、直前に何があったかを思い出せないことも夢ゆえか。
微妙に不快感の残る身体から脱力し、水の中にたゆたう感覚に身を任せる。
(夢なぞ、ここ数年は見ていなかったのだがな)
故郷を飛び出して大陸に渡り、我武者羅に刀を振り続ける日々をすごしてきた。寝ても覚めても刀のことばかりを懸想し、暇があればとかく身体を動かす毎日。夢とは己の記憶を整理する作業と聞いたことがあるが、そうする暇もなかったということだろうか。
直前の記憶は一切思い出せないものの、どことなく身体の端々に残る重さが、日々の鍛錬をこなしていないらしいことを如実に伝える。ここで念じても詮ないことではあったが、目覚めたら鍛錬に励もうと決意する。
(来たか)
そうこうしている間に、見覚えのある光の奔流がヤマトの意識を埋め尽くした。
目の前も満足に見通せない暗闇の世界が一変し、かつて駆け回った森の景色が再現されていく。極東の夏特有な湿った熱風が肌を焦がし、ブワッと不快な汗が背中から滲み出す。
「……暑い」
夢だというのに、妙なところまで細かく再現している。それだけ故郷の夏に辟易していたということか。
思わず溜め息を漏らして額の汗を拭ったところで、己の身体に違和感を覚えた。
(未だ成熟し切れていないが、子供とも言い難い年頃。先の夢から幾分か年月を経たのか)
記憶の残滓を辿れば、先日見た夢はせいぜい十歳程度の頃合いだったように思える。その折の感覚と比べると、今の身体はずいぶんと出来上がっており、まだまともに刀を振れるようになってきている。年齢は十五前後だろうか。
滝のように流れ出る汗を頻りに拭いながら、少年ヤマトの足はふらふらと森の中を進んでいく。
「ったく、今年の夏の暑さは酷いな。夕方だっていうのに、下手したら倒れるぞ」
少年ヤマトの口が勝手に動き出し、幼少期の名残を感じさせる声を放つ。先日の夢でも同様のことが起きていたが、今回はずいぶんと早いらしい。
そのことに些か意外感を覚えながらも、ヤマトは当時のことを思い返す。
(まともに刀を握って数年。何とか基礎が固まりつつあった頃合いか)
幼少期に“あの人”と出会って以来、ヤマトは以前までの一日中遊び呆ける日々から一転して、毎日刀の修練に励む日々を送っていた。刀そのものに魅力を覚え始めたことも嘘ではないが、それよりも“あの人”から教わった技を会得することが楽しかったのだろう。その身の入り様は鬼気迫るものであり、寡黙な父や温厚な母が少し心配気な面持ちを浮かべていたことも思い出せる。
早朝に目覚めたならば体力作りのため野山を駆け回り。昼前に里の師範の下で刀を学ぶ。同い年の子供たちが帰路についた後は森へ入り、一人で木刀を振り回した。両親が心配することも無理のない、遊びたい盛りの子供が送るには少々違和感のある光景だ。
「……ここら辺でいいか」
とは言え、そんなことを当時のヤマトが知る由もなく。
呑気に森の中で足を止めた少年ヤマトは、腰に下げていた木刀を抜き払う。身体の成長に合わせて父がこしらえてくれた木刀だが、日々の鍛錬に耐えかねて数多の傷が刻まれていた。それでも、鉄刀を振り回すことの許されない少年にとっては無二の相棒であり、その傷でさえも勲章のように誇らしくあった。
刀身にちらりと視線を落とし、自慢気な鼻息を漏らした後。木刀を正眼に構え、森の木々を睨めつける。
「――せいっ!!」
掛け声と共に一閃。カコンッと小気味いい音を立てて、木刀が木の幹を強打した。
「せいっ! せいっ! やぁっ!!」
並ではない衝撃が木刀を伝わって少年ヤマトの腕に伝わるが、それを振る腕は止めない。威勢のいい掛け声に合わせて我武者羅に刀を振り続け、乱れそうになる体勢と太刀筋を矯正していく。
その剣戟を当人の目から、それでいて外野のような立ち位置で眺めたヤマトは、ふと頬を緩ませる。
(荒いな。ろくに狙いをつけず、刃も労らず、技もない太刀筋だが――勢いはある)
それはきっと、今のヤマトから欠けつつあるものだ。
刀の道理を知り、己の至らぬ強者の数々と相対し。彼らの中にある武術の流れに触れたヤマトは、自然と技の研鑽に傾倒した。より鋭い太刀筋を生むため、より力強く振るため、より見切られぬ斬撃とするため。それらは確かな力となってヤマトの中に培われていたが、他方で、かつて技を知らず刀を振り回していた頃の衝動を失いつつあったことも確か。
戦は常に流動するものであるがゆえに、ただ高度な技が扱えるだけで勝つことは難しい。ときに場の流れに乗り、抗うための力強さが求められる。
(今一度、刀を見つめ直すべきかもしれんな)
ヒカルと出会い共に旅をする中で、幾人もの強者と出会ってきた。その経験は確かな糧として築かれているが、ときに歩み方を変え、新たな道を探ることも必要だろう。
ふつふつと腹の奥底から熱が込み上げてくることを自覚する中で、ヤマトの耳が人の足音を捉える。
「誰だ!?」
「――私さヤマト。相変わらず鍛錬に励んでいるようだな」
「師匠!」
木々の間を潜り抜け、枝葉を踏み締めて。相変わらずの装束で身を包んだ“あの人”が、少年ヤマトの前に姿を現した。
深い笠と暗い色合いの着物、腰に飾り気のない長刀一振りという色気のない出で立ちでありながら、不思議なほどの存在感がヤマトの目に焼きつく。幾年経っても慣れることがない“あの人”の輝きを前に、心臓がドクンッと大きく脈打つことを自覚しながら、ヤマトは正眼に構えていた木刀を下ろした。
「邪魔をしたか、済まない」
「気にしないでください! 今年も来ていたんですね。やはり、今回も里には泊まらないのですか?」
「うむ、少し急を要する案件を抱えていてな。ここへ寄るかも悩んだが、可愛い弟子がいるんだ。顔を出さないというのも不義理だと思い直してね」
「無理はしないでいいんですよ?」
遠慮するようなことを口にしながらも、少年ヤマトの心は師の言葉に沸き立つ。
数年前に出会って以来、“あの人”は毎年茹だるような暑い夏の季節にふらりと姿を現し、ヤマトに刀の指導をして旅立つことを繰り返していた。浪人として受けた依頼の寄り道ゆえに里に立ち寄ることもなく、森の中でヤマトと鍛錬をするだけ。年にほんの数時間もない邂逅ではあったが、それは当時のヤマトにとっては何にも耐え難い楽しみであり、ゆえに毎日疲れた身体に鞭打って森に足を運んでいたのだ。
そんなヤマトの心境を知ってか知らずか、“あの人”は笠の下で緩やかな笑みを浮かべる。
「それにしてもヤマト、ずいぶんと腕を上げたね? 少し覗き見していたけど、驚かされてしまったよ」
「本当ですか!?」
「勿論さ。より鋭く重い太刀を放つための技は星の数ほどあるけれど、一番大事なのは刃に気を乗せることだ。熟練の武芸者でも難しいことに、今のヤマトは手を届かせつつある」
少年ヤマトを褒め称える言葉のようでありながら、その背後にいるヤマト自身を激励するような言葉。
意識だけだというのに思わず背筋を正して、“あの人”の言葉に聞き入った。
「気、ですか?」
「里の先生とかに聞けば詳しく教えてくれるだろうけど、そう難しく考えることはない。要は、一太刀ずつに全霊を込めて打ちなさいということだ」
「……なるほど?」
「刀の道理を知り、戦いの術を身につけると、無意識に計算してしまうものなのさ。この相手はどの程度の力で斬ればよくて、どの技が最も効率的なのかとね。だが、ときには全てを忘れて我武者羅に打ち込むべき戦もある」
「全てを忘れて?」
「己の力と技が通用せず、どう足掻いても勝てそうにない相手と戦うときとか、全てが互角の好敵手に競り勝つときとか。己の気迫が物を言う戦いも、存外に多いものだ」
当時の少年ヤマトにはほとんど届いていない言葉だったが、今になってみればよく分かる。小綺麗な技の応酬は確かに重要だが、ときにそれを引っ繰り返せるほどには、気迫という不確かなものも肝要だ。
とは言え、それを今のヤマトがどれほど痛感したところで、少年ヤマトの心持ちが変わる訳でもない。小難しい顔をして考え込んだ少年ヤマトだが、やがて小首を傾げる。
「よく分かりません」
「ふふっ、それでいいのさ。技を知り刃を知り戦を知り、そうして改めて気づくべきことだ。今のヤマトは、とにかく刀の技を身に着けて、その道理を会得することに専心するべきだ」
「……よく分からないですけど、分かりました」
どことなくはぐらかされているような心地のまま、曖昧な表情で頷く。
そんな少年ヤマトの顔が余程面白かったのか、“あの人”が年月を感じさせない朗らかな笑い声を上げるのを最後に。
夢の世界に再び白光が入り込み、景色が崩れていった。




