第217話
一歩ずつキメラとの間合いを詰める。
その歩みをキメラは警戒心を顕わにして見つめるが、即座に襲い掛かってくるようなことはしなかった。先程の交錯で、装甲を浅く削っただけではあるが反撃されたことを危惧しているのか。
(やはり賢い獣だ。だが、この場合は好都合)
傍目からは分からぬよう表情を取り繕っているものの、ヤマトの左肩は鈍い痛みを訴え続けていた。理性で無視できる程度の痛みではあるが、ふとした衝撃で痛みが強まる可能性は充分に考えられる。可能な限り上体を動かさず、本命の一撃を全力で放てるだけの余力を残す必要があった。
獰猛ながらも知の兆しを感じさせる眼で佇むキメラへ、間合いを詰めながら右手の刀を正眼に構える。
「ふぅ――」
整息。
胸を圧迫するような緊張感を息と共に吐き出そうとするが、相変わらず腹がむしゃくしゃするものが残留した。ジットリと背から滲み出た脂汗が不快感を生む。
(本当にやれるのか?)
覚悟は定めたはずだが、再び疑念が鎌首をもたげた。慣れぬ場所と相手との戦いゆえの緊張感が原因か、彼我の力量差を明確に感じ取ってしまったことが原因か。はたまた、永らく側にいた仲間の不在が原因か。
正念場を目前にして身体が熱を放ち始める一方で、不安感に心が乱れる様を自覚する。いつものように意識を戦闘へ集中させようとするも、なかなかどうして“入って”くれない。呼吸が浅くなり、視界が段々と暗くなる。
(くそ、情けない)
少し相手が想定を越えた程度で乱れるなど未熟の極み。己を信じ切れないがゆえに心が惑い、刀までもが揺らぐ。幼子のように調子を乱している己を叱咤したい気持ちになるが、それが叶うならば苦労はしない。
だが、今になってそんな弱気に心を囚われている暇はないのは確かだ。例え虚勢であろうとも、今は心に闘志の炎を宿さなくてはならない。
「いざ――」
刀を下段に構える。力強さよりも素早さに重きを置く構え。
己の出し得る最速の斬撃をもって、キメラに見出した“急所”を穿つ。それ以外は眼中に捉えず、己の身すらも一つの刃と見なして致命の斬撃を見舞ってくれよう。
「――参るッ!」
踏み込み。
予想していた通りにキメラはその動きに反応し――飛び退ろうとする。
(退くつもりか)
萎えることのない戦意の炎を目に宿しながらも、肉薄するヤマトに対して後退する。一見滑らかな動きに思えるが、その右翼――ヤマトが浅く削った装甲で接合された翼が、不自然に揺らめいた。
その動きを目の当たりにした瞬間、微かに得ていた手応えが確信へと変わる。左肩に走っていた痛みを束の間忘れて、キメラへ肉薄する足を更に速める。威力を度外視し、ただ刃を届かせることだけを狙って刀を突き出す。
「シ――っ!」
「―――――ッッ!?」
突き出された刃はキメラの外皮を滑り、二つの獣を繋ぐ装甲に浅く切り傷を刻む。
鋼同士が擦れる耳障りな騒音がかき鳴らされる中、悲鳴にも似た獅子の咆哮がヤマトの耳朶を打った。
(当たってくれたか)
内心の冷や汗をおくびにも出さないながら、そっと安堵の息を漏らす。
先の交錯でヤマトがキメラに与えられた外傷は、金属装甲――獅子の胴と鷲の右翼を接合していた装甲のみ。だが、それからキメラの動きは不自然であった。キメラの制御から外れたように右翼が独りでに蠢き、全身の動きを僅かながら阻害しているように見えたのだ。
ゆえに推測した。拡声器の女の話では、キメラは数多の獣を無理矢理に接合させて誕生した異形だという。ならば、装甲に見えた金属部分はキメラにとってなくてはならない部位――例えば、元来の獣ならば必ず有するはずの違和感をかき消す役割を果たす部位なのだろう。ほとんど掠める程度の傷ですら動きに支障を来たしたのだから、仮にまともな斬撃が入ったらどうなるのか。
その結果が、目の前にあった。
「翼が完全に制御から外れた――否、それだけではないな。己の姿に異常を認めたか」
「―――――!?」
「明らかに道理が合わない獣の身体を保つため、無理矢理に均衡を取った。その代償が、異常なまでの脆さ」
掠り傷一つと、浅い切り傷が一つ。
幾ら急所に入れられたとは言え軽度の損傷にも関わらず、キメラは途端に調子を崩し始めた。痛みを堪えるように身体を硬直させ、各接合部から緑色の血を流し始める。キメラ自身の意図を外れて牙や爪、翼などが蠢き、獅子の胴を好き勝手に蹂躙する。もはやヤマトが改めて手を下すまでもなく、キメラの身体は自壊を始めていた。
完璧な十であるために調整を施されたキメラの身体は、針の上に立つに等しい繊細なバランスで成り立っていた。ゆえに、零に等しいほんの僅かな損傷がそのバランスを突き崩し、キメラという個を崩壊させる。
『――見事なもんじゃねぇか。案外あっさり勝ちやがったな』
「貴様か」
ヤマトが刀を鞘に収めるのと同時に、拡声器から再び女の声が届く。
『当初の計算じゃあ、モルモットはキメラに傷一つつけられずに敗北するって予想してたんだがな。おかげさまで計算外れだ』
「……そうか」
平静を装いながらも、ヤマトは僅かに眉間にシワを寄せる。
キメラに傷一つつけられずに敗北。その未来は字面ほど極端なものではなく、むしろ普通にありふれたものであっただろう。反則じみた奇襲でキメラの身体能力を推し測れていなかったら。こちらの技が通用していなかったら。キメラの攻撃を完璧に読み切れていなかったら。その弱点を即座に看破できていなかったら。どれか一つの要素でも欠けていたら、この戦いに勝利することは叶わなかったはずだ。
辛勝。その言葉がこれほど似合う戦いもない。
(だが、勝ちは勝ちだ)
そう己に言い聞かせるが、かつて相対した猛者たちに勝利したときほどの達成感は得られない。
その原因は、キメラが持つ明らかな異常性にあるのか。ほとんど偶然の勝利に納得していないのか。
『だがまぁ、モルモットは見事実験クリアだ! よくやったじゃねぇか。何か褒美でもやろうか?』
「………」
『褒美とは言っても、せいぜい情報程度になるけどな。これから魔王軍がどうするのか、勇者が何をしているのか。知りたくねぇか?』
「何だと?」
女の言葉は極力無視するつもりでいたが、思いがけない提案に問い返してしまう。
拡声器の向こう側で女がニヤリと笑みと浮かべているだろうことを予期しながら、次の言葉を待つ。
『勇者は無事大陸南部に到着したみたいだぜ。今は教会の力を借りて各国に対魔王連合の立ち上げを呼び掛けている。そんなに上手く行ってる訳でもないようだが、近い内に話はまとまるだろうな』
「……そうか」
ひとまず、ヒカルたちに差し迫った危機はないらしい。
そのことに安堵の息を漏らしながらも、なぜ魔王軍の一員であるこの女がその情報を知り得たのか、新たな疑問が芽生える。
『魔王軍はこの間勇者に宣戦布告したからな。軍を動かして、南下作戦を実施中だ。もうエスト高原の北部に侵入しているみたいだぜ』
「動きが速いな」
『時間をかければ、それだけ人間は備えができるからな。幾ら魔族個人の力が優れていても、結集した人間をまとめて滅ぼせるほど無茶なレベルじゃねぇ』
恐らくは、ヒカルたちが氷の塔で奇襲されたときには既に、この辺りの戦略は練り終えていたのだろう。勇者を討ったその足でまとめて大陸を飲み込み支配するというのが、当初の狙いか。
幸いにもヒカルは魔王の手を逃れて帰還したものの、依然として魔王軍は脅威。その進軍によって数多の国が滅ぼされるとあれば、勇者の使命である救世が果たせたとは言えまい。
(歯がゆいな)
ヒカルと魔王の動きを知ったことで、ヤマトの心中に焦りにも似た何かが募る。
一刻も早くこの場を脱して、友らの助けとなるべく馳せ参じたい。その思いが強まるが、現実として今のヤマトがここを抜け出すのは困難を極めていた。
『まぁそんな訳だ。外のことが分かったところで、モルモットはそろそろ就寝時間だぜ?』
「何だと?」
思わず窓を探して視線を彷徨わせて、そんなものがどこにもないことに気がつく。時計などという気が利いたものもないから、今が何時かも分からない。
そんなヤマトを他所に、女は何らかの操作を施したらしい。実験室の天井に切れ目が走り、ゆっくりと黒い筒が飛び出てくる。
「……あれは」
『モルモットが気持ちよく眠れるようなお薬だ。結構効くぜ?』
その言葉を聞いて咄嗟に呼吸を止めるが、それは既に遅すぎたらしい。
身体からガクッと力が抜け落ち、思わず膝をつく。すぐに立ち上がろうと足に力を込めるものの、視界が瞬く間に暗転し、平衡感覚すらも失われていく。
「く、そ……!」
『それじゃあまた明日だ! 今度も愉快そうな実験相手を用意しておくから、楽しみに待っていろよ!』
まるで友人に明日の約束をするような。
そんな気安い女の言葉を最後に聞き届けて、ヤマトの意識は深い海の底へと沈み込んでいった。




