第216話
「『斬鉄』!」
大上段から襲う光速の斬撃。斬れ味に特化した刀の特性と、それを十全に引き出すため鍛錬を積み重ねた使い手の技量が合わさったその一撃は、人の目では捉えることが叶わず、また尋常なる手段で受け止めることも叶わない。
ゆえに、不可避の斬撃。これまでの戦いでも幾度となく振るってきた自慢の太刀であったのだが。
「……避けたか」
『おいおいフライングだぜモルモットよぉ? 俺様じゃなきゃ情報入力が間に合っていなかったね』
呆れたような女の声が拡声器から響くが、今はそれに構うどころではない。
刀を振り切ったヤマトの眼前に、先程までの悠然とした佇まいから一変して、獣らしく荒々しい敵意を剥き出しにしたキメラが立っていた。獅子の顔でうなり、蛇の牙を剥く。鷲の翼と犀の角がヤマトを威圧するように雄々しく広げられ、鷹の爪は即座に敵を斬り裂かんと怪しい輝きを放っている。
『んじゃあグダグダになったが、実験開始だ。実験はどちらかが死ぬまで続けられる。せいぜい生き残ってくれよ?』
「ちっ」
嘲笑うような声を残して、拡声器が切断される。
思わず顔をしかめたヤマトに向けて、口端から涎を垂らしながらキメラが唸り声を上げた。
「―――――」
「煩い獣だ」
余裕を表すように毒づくが、キメラを見つめる視線は険しい。
先程の『斬鉄』による奇襲は、避けようがないほど完璧に入っていた。少なくともヤマトが対峙したことがある敵手――竜種も含めて、その斬撃を回避することは不可能なタイミングだった。刀を振りながら、キメラの意識が向けられていないことをヤマト自身も確かめていたのだ。
それにも関わらず、紙一重で避けられた。
(それだけ、こいつの身体能力が抜けているということか)
従来の魔獣どころか、竜種をも越え得る身体能力。
問題は、そのポテンシャルを十全に引き出せるだけの知性をキメラが宿しているかどうかだが。
(こればかりは、当たってみなければ分からんか)
元より異形の怪物。
これまでの経験に該当しない姿から、不気味さ以上の情報を引き出すことは困難だ。ならば、一旦は心の懸念を捨てて刃を交える他にあるまい。
「いざ」
刀を正眼から上段へ。
あくまでキメラの動きを注視することに気を払いながら、静かに足を踏み出す。
(身体能力で劣っている以上、場の主導権を握られたならば逆転は困難)
先手必勝。その言葉が太古から囁かれている通り、戦いにおける先――主導権を握ることの重要性は、それだけで勝敗を決定づけられるほどに大きい。
ただでさえ実力の劣っているヤマトが、キメラに先手を取られてしまったら。これまでの経験値を駆使して抗うことは可能でも、そこから勝利することは非常に難しくなる。このふざけた実験を抜け出すためにも、とにかく先手を取らなければならない。
(とは言え、迂闊に刀を振っても逆効果か)
脳裏に先程の光景――『斬鉄』をキメラが目視で回避した姿が浮かび上がる。
ヤマトの持つ技の中で最速の斬撃を、目視してから回避できるだけの反応速度の持ち主。何の技巧もなく刀を振ってみせたところで、難なく対処されて終いだ。
(ならば――)
力で抗うことができないのであれば、技で抗うしかない。
覚悟を固め、踏み込むと同時に体内の気を練り上げる。
「『水月』」
「―――――?」
踏み込みと同時に、身体の重心と気の動きを幾重にもズラす。足の行く先を相手に悟らせず、惑わせる歩行術。
『水月』を前にしたキメラが戸惑うように唸り声を上げ、視線を彷徨わせるのを確かめて。音もなく振り上げた刀の刃を立て、一息に振り下ろす。
「ふっ」
「―――ッ!!」
キメラの目からは、刀が突然虚空より現れたように映ったことだろう。寸分の殺気も籠もらないながらも、獣を殺すため充分以上の威力と速度を備えた一撃。
『斬鉄』に至らないながらも必殺の名を冠するに相応しい斬撃を前にして、キメラは戸惑いの声を漏らしながら――飛び退る。
(やはり避けるか)
だが、想定内。
卓越した身体能力で回避することは可能であっても、即座に反撃できるほどの余力はなかったらしい。刃から逃れるために大きく飛び退ったキメラを見やりながら、ヤマトは振り下ろした勢いのままに納刀。腰を落とし、刀の柄を握る力を緩める。
「『疾風』ッ!」
抜刀。同時に、刀身にまとわせた気を解放させる。
未だ空に身を置いているキメラに向けて鎌鼬の嵐が殺到する。肉眼に映らない風の刃だが、キメラは本能でその危険性を察知したらしい。獅子の頭で虚空を睨めつけ、獰猛に牙を剥く。
「―――――!!」
「なっ!?」
咆哮。同時に、鷲の翼が大きく羽ばたく。
驚愕のあまり目を見開くヤマトの前で、キメラの巨躯が空を飛んだ。鎌鼬全てとヤマトを眼下に置くように舞い上がり、そのまま滑空して着地する。
「……その翼は飾りではないということか」
「―――――」
一瞬で間合いが十メートルほどに離された。
思わず歯噛みした先で、キメラは悠々と翼を畳む。元々が獅子の身体だというのに、明らかに異質な空を飛ぶ行為に違和感を覚えていないらしい。古代文明の技術は、確かにキメラの認識を誤魔化せているようだ。
(だが、どうする)
刀術に限らず武術全般において、空を飛ぶ獣との戦いは想定されていない。人はあくまで地に足を着けて戦う生き物であり、空を自在に飛び回るものを相手取ったところで無意味だからだ。自然、ヤマトは空を飛ぶキメラを撃ち落とすような技を会得はしていない。せいぜい、『疾風』を空に向けて撃つ程度か。
救いどころがあるとすれば、キメラも地上と同じように空を飛び回ることが可能な訳ではないという点だろう。先に見せた通り、自身の巨躯と備えた得物の重さゆえに、せいぜい低空を滑空する程度が限界らしい。無理をすれば更に飛ぶことは可能かもしれないが、少なくとも容易ではないはず。
その仮定を元に戦略を練り始めたヤマトの思考を遮るように、キメラが牙を剥き、咆哮した。
「―――――ッッッ!!」
「休ませるつもりはないか」
舌打ちと共に、組み立て始めていた戦略を頭の隅へ追いやる。
刀を正眼に構えたヤマトの視線の先で、キメラはグッと身体を沈めた。四足に力を溜め、鋭利な鷹の爪で実験室の床を踏み締める。
(来る――!!)
視覚以外の五感全てと第六感をも総動員して、キメラの動きを注視する。
ビリビリと空気が震えるような錯覚を起こすほどの緊張感の中。キメラの爪がピクッと床をえぐるのを視認するのと同時に、腰元の鞘を眼前に掲げた。
「―――――!!」
「『柳枝』!」
目にも留まらぬ速度でキメラが突っ込んできたと確かめられたのは、盾のように掲げた鞘を凄まじい衝撃が突き抜けた瞬間だった。
最大限の警戒を払っていたにも関わらず、その突進を一切視認することができなかった。その事実に驚愕を覚えながらも、事前に想定していたヤマトの心に動揺はない。鞘越しに伸し掛かる重みに顔をしかめながらも、身体から脱力して鞘の傾きを調節する。
「う、ぉぉおおおッ!」
「―――!?」
正面から脳天を叩き割る軌道の爪撃を、力に抗わず横から押し込み受け流す。左肩から聞こえた嫌な悲鳴を意識の外へ追いやって、脇へ逸れたキメラの横腹目掛けて刀を振り抜いた。
万全の体勢から放った攻撃をいなされたことに惑うキメラだったが、相変わらずの反応速度で刃から逃れた。
振り抜かれた切っ先はキメラの装甲を浅く削るに留まり、血を一滴流すことすら叶わない。
「これは、よくないな」
存外の反撃を受けて警戒したか、再びキメラが大きく飛び退る。
その動きを見ながらも、ヤマトは追撃の手を下すことができない。傍目から分からずともジクジクと痛みを訴える左肩の熱が、ヤマトの足をその場に縫い止めていた。
(多少のダメージは想定していたが、これほどとは)
ただ巨躯の獣が勢いよく突っ込んできただけであれば、これほどに手を焼くことはなかっただろう。事前に軌道とタイミングを読み切り、防御と反撃に専心していた上で肩を負傷したのは、ひとえにキメラの力が想像を上回っていたからだ。
獅子としての脚力と、古代文明によって改造された膂力。それらに合わせて鷲の翼が羽ばたき、キメラの身体を加速させていたのだろう。その速度は魔導銃から放たれる弾丸に等しく、到底人の目で――否、およそ全ての生物が目で追えるものではない。
それでもキメラに一太刀入れられたならば、まだ痛み分けとして納得のしようもあっただろうが。現実は、キメラの身体に縫いつけられた金属装甲を浅く削れただけだ。
「……覚悟を決めるべきか」
分かってはいたが、とてもヤマト一人の力で太刀打ちできるような敵手ではない。ヒカルたち全員の力を借りて、何とか勝利を得られるかどうかというほどのレベルだろう。
一度は捨てると覚悟を固めたゆえに、生き永らえたことで未練が芽生えたらしい。だが、命を惜しんだ戦い方で敵うような相手ではない。今一度、この身体を賭してでも敵を討つべしと定める必要があるか。
不吉に鼓動を速める心臓を抑えながら、相対するキメラを改めて睨めつけて。
「――む?」
妙な違和感を覚えた。
先程までは一切感じ取れなかったもの。キメラの動きが、どことなく不均等なものに乱れている。
その違和感の原因を探るように目を凝らし、思考を巡らせて。
「……やれるのか?」
一筋の希望が芽生えた。
論と呼ぶにはあまりに証拠不十分だが、確かな希望だ。真っ向から刃を交えても勝利を望めないのだから、この一縷の望みに賭ける価値はある。
緊張のあまり脂汗が滲む手で刀を握り直し。ヤマトはゆっくりとキメラの方へ歩みを進めた。




