第215話
遠近感を狂わせる白一色の部屋の壁に、黒く切れ目が浮かび上がる。
思わずそちらへ目をやったヤマトの視界の中で、壁に一辺三メートルほどの大穴が開けられた。
「キメラだと?」
『おうよ。大昔のアホ共がせこせこ作った実験動物だ』
拡声器の先へ問い返せば、そんな言葉が返ってきた。キメラとやらの存在を面白がるようでありながらも、どことなく憮然とした感情も感じさせる口振り。
そのことに首を傾げる間もなく、件のキメラが大穴の奥からのっそりと姿を現した。
「―――――」
「ずいぶんと歪な獣だな」
『まぁな』
キメラの姿を前にして、思わず目を丸くさせる。
声にならない唸り声を漏らすキメラの姿は、獣と呼ぶことが相応しいのかと疑問を抱いてしまうほどに歪なものであった。大元の形は獅子を模しているのだろうか。強靭な四足が胴を支え、巨躯らしからぬ軽やかな動きをしている点はその名残を感じさせる――が、それ以外が壊滅的なほどに崩れている。
「あれは、どうなっているんだ?」
『キメラってのは雑に言えば、幾つもの獣を融合させた新種の生物だ。あれはその融合パターンの一つ、陸戦特化型だな』
「融合させる? 何のために」
『人の手でより優れた獣を作るためさ』
外見の調和という点を取り出して見るのならば、あのキメラは進化ではなく退化しているように思えるのだが。そんな内心の声を押し殺しながら、改めてキメラの姿を睥睨した。
大元は獅子らしく太い四足と逞しい髭が備わっているが、それ以外にも巨大な翼、雄々しい角、やたら鋭い爪と牙などがつけられている。明らかに別種の生物から持ち込んだと思われる部位との接続部は、鈍い光を放つ装甲で覆われていた。
傍目から見れば明らかに分かる歪さ。だがより不気味なことは、当の獣自身が己に違和感を抱いた様子がないことか。まるで己の姿が自然であると言うように、驚くほど純粋な気配を放っている。
「獅子の胴と脚に……鷲の翼か? 額にある角は犀のものか」
『よく知ってるじゃねぇか。更に言えば、爪と牙、血液全ても取り替えてあるらしいぜ。鷹と蛇、血は成分を人の手で弄った特別製だ』
「あの装甲は、その不調和を保つためのものか」
『幾ら獣の身体を融合させることが可能でも、当事者の意識がそれに違和感を持ったら台無しだからな。あれはキメラの脳と接続されていて、獣自身が自然に身体を動かせるように誤認させている』
「そんなことが……」
『まぁ可能だ。モルモットに分かりやすく言えば、あれは古代文明の遺産ってやつだからな』
原因不明かつ効果絶大の代名詞たる古代文明。その名を上げられたならば、ヤマトには「そういうものか」と納得せざるを得ない。およそ自然の摂理から逸脱している異常さを、古代文明の技術によって無理矢理に一つの形にまとめ上げている。キメラという怪物はそうして生み出されたものということか。
納得し、その技術に驚愕しながらも。腹の奥底から湧き出してくる嫌悪感が抑えられない。思わず顔をしかめ、微かに漂う吐き気を深呼吸で払い除ける。
そんなヤマトの様子を知ってか知らずか、女はガラリと声音を変えて話題を転換させた。
『解説はこのくらいにして、早速実験の説明を始めるぜ? キメラも待ち切れなくなってきたみたいだからな』
「……そういう話だったな」
実験。
およそ碌なものではないと予想できるが、今のヤマトにそれを拒否するだけの力はない。これからヒカルたちの元へ戻るためにも、ここはひとまず実験につき合う他ないか。
半ば諦めに似た溜め息を漏らすヤマトを他所に、女の説明は始まった。
『つっても実験の趣旨は単純明快。これからキメラの枷を解いて暴れさせるから、モルモットにはその相手をしてもらう。ただそれだけだ』
「何?」
『今はこっちで脳を弄ってるから大人しいが、実験開始と同時に空腹感のデータを叩き込む。……後は分かるな?』
腹を空かせた獣の前に、手ぶらの人間が一人だけ。他に獣が食えそうなものがないならば、獲物がどう抵抗しようが関係はない。
「悪趣味な」
『はっ、何とでも言えばいいさ。ただモルモットがどれだけ力を持っていても、所詮は人間だからな。餞別をくれてやる』
その言葉と共に、ヤマトの足元の床に新たな切れ目が現れる。
思わずそちらへ視線を落としたヤマトの前に、床穴から勢いよく一振りの長刀が飛び出してきた。
「―――っ! こいつは……」
『お前が使ってた奴さ。もう解析は終わったから返してやるぜ』
「……そうか」
釈然としないものを覚えながらも、ひとまず再び手にした刀を腰に差す。
(―――――)
一度は深くにも手放すことになった刀。やたらと手に馴染むような気がするのは、ヤマト自身がその存在を渇望していたからか、はたまた刀の方が使い手を求めていたのか。
慣れ切った重みが腰元に加わった途端に、スッと地に足着いた心地に落ち着いた。キメラという異形の怪物を目前にして波打っていた心が凪いでいき、思考が冷たく冴え渡る。
「ふぅ――」
整息。
己の鼓動の音を自覚する中で、いつもよりも格段に早く意識が“入って”いくことを感じる。静謐な池の底へ音もなく滑り込んでいくように、思考が戦闘に向けたものへと切り替わっていく。
『へぇ? 妙な技を使うな』
部屋の隅にある拡声器から女の声が響くが、それに思考を裂くほどの余念はヤマトの中から失せている。全神経を眼前のキメラに集中させ、戦士としての目でそのスペックを推し測る。
(相変わらずの不自然さ。元が只の獣だったことすら疑わしくなるほどの歪さだが――妙なほどに均衡は取れている)
ただ歪だとしか思えなかったキメラの姿が、段々と整ったもののように見えてくる。
外見の調和や魂が感じる不自然さを全てかなぐり捨ててしまえば、キメラは確かに生物として極めて高い力を秘めていることが分かる。元が人間とは隔絶した身体能力を有する獣の数々を、言わばいいとこ取りしたキメラは、単なる戦闘能力を取り上げればヤマトを凌駕するだけのものを持っている。
(全力を出さねば、太刀打ちすらできぬか)
この実験とやらを仕組んだ女の思惑通りになることは業腹だが、今は目の前のキメラに全力を尽くす他ない。そうしなければ、脱走云々を考えるよりも早くキメラの腹に収まることになってしまう。
キメラの強さに思わず脂汗を滲ませながらも、刀の柄に手を掛ける。
『おっ、準備万端みたいだな! そんじゃ、ちゃっちゃか始めるぜ!』
「……そうか」
先の言葉通りならば、これからキメラの脳に空腹感を入力するのだろうか。――ならば。
刀に手を掛けた体勢のまま、静かに腰を落とす。無機質で何を考えているか分からないキメラの瞳を見つめてから、そっと口を開いた。
「――いざ」
『は? お前何を――』
戦いの基本は先手必勝。よーいどんの合図で始まる実戦など存在しない。
ヤマトがやろうとしていることに気がついたのか。女が制止の声を上げるよりも速く、一息にキメラとの間合いを詰めて。
「『斬鉄』!」
脳天から叩き斬るように、抜刀ざまに刃を大上段から振り落とした。




