第214話
「ぐ、ぅ……?」
意識が急浮上するのと同時に、全身を鋭い痛みが駆け抜けた。その衝撃に耐えきれず呻き声が漏れ出たところで、ここが現実の世界であることに思いが至る。
夢の中で得た幼少期の肉体などではなく、鍛錬を積み重ね、幾つもの修羅場を潜り抜けるに相応しい力を宿した肉体を取り戻している。何気なく己の手を握り締めたところで、ホッと安堵の息を漏らす。
(ずいぶんと懐かしい夢だったな)
ほんの一瞬前まで脳内に広がっていた情景を今一度思い出す。
雲一つ浮かんでいない爽やかな青空とは裏腹に、思わず顔をしかめたくなるほどの湿気に満ちた猛暑の夏模様。ただ回想するだけならば懐かしさも込み上げてくる極東の夏風だが、現実と区別のつかないほどに再現された夢の中で散々に浴びた今は、まだしばらくは触れなくていいという気分にもなっている。
そのまま取り留めのない懐古の念に囚われかけたところで、我を取り戻す。
(ここはどこだ? 俺はいったい何を――)
視線を周囲に巡らせて最初に見えてくるものは、距離感や平衡感覚が狂いそうになるような白一色の部屋。床や壁の縫い目のようなものもないそこでは、ただ部屋の中央に立っているだけでは、ここがどれほどの広さなのかも把握できない。無論人影のようなものもなく、白いだけの空間に佇む者はヤマトただ一人のみ。
妙な場所だ。むしろ普通なところ、常識通りな部分を見つけることが困難なほどに不可思議な空間。およそ理解の範疇にないから、ひとまず思考から除外してしまうのが吉か。
ざわめく心地のままに腰元に手を伸ばして、そこに刀が下がっていないことに気がついた。所在なさ気に顎へ手をやってから、己の記憶に思いを馳せて、ふと気がつく。夢の中でその答えを遮った分厚いモヤは、今は跡形もなく消え失せていた。今ならば容易く答えを得られそうだ。その直感に従うがままに記憶の海を潜り始めて――ヤマトの耳に、どこか聞き覚えのある声が届いた。
『――おっ、どうやら目覚めたようだな』
「む」
『そう警戒すんなよ。別にお前を取って喰おうって訳じゃないんだからよ』
馴れ馴れしい口調でありながら、隔絶しているほどに互いの距離の遠さを感じさせる女の声。反射的に四方八方に視線を投げるものの、その声の主と思われる人物の姿は見られない。代わりに、シミ一つない純白の部屋の天井に、小さな拡声器が取りつけられていることに気がつく。
その声をどこで聞いたのかを思い出すよりも早く、女は言葉を続けた。
『そんじゃ諸々を始める前の打ち合わせだ。無理矢理に進めてもいいんだが、俺様は人道的な科学者だからな。感謝しろよ?』
「何の話だ」
警戒心を顕わに毒づくヤマトに対して、その音声の主は一切反応する素振りを見せない。
『よっしゃ第一問。自分の名前、生年月日を申告しろ。身体データは既に採取済みだからクリアだぜ』
「………」
『オーケー、名前はモルモット。誕生は今この瞬間だ』
己の正体を明かさない者に呑気に名乗るつもりはない。
そんな意思表示の沈黙であったが、女の声はヤマトの反応に構わずにペラペラと喋り続ける。
『そして第二問。ってかこれは確認事項だな。本実験は相応の危険を伴うものであり、被験者モルモットは何らかの形で損害を払う可能性があるが、これに同意したものとする。対する研究者たる俺様には、モルモットの実験成功に対して報酬を払う義務がある。報酬の内容は、可能な限りモルモットの希望に沿わせるぜ』
「………」
『オーケー異議なしだな! そんじゃ最後、本実験の内容と結果は俺様自身が責任もって管理してやる。例え天変地異が起こって神が殴り込みに来ようと流出させるつもりはねぇから、そこんとこヨロシク! ってところで以上だ! 質問はあるか? ねぇな? よし早速実験を始め――』
「聞きたいことがある!」
このまま女に喋らせ続けてはいけない。そんな直感に衝き動かされるがままに、ヤマトは思わず拡声器を睨めつけながら声を上げていた。
その言葉に、女は束の間だけ沈黙。やがて拡声器越しに笑い声を響かせながら問い返す。
『いいぜ。俺様は寛容だから答えてやる――が! あまりダラダラする時間もねぇからな、手短に頼むぜ?』
「あぁ、承った」
答えながら、内心で必死に記憶の糸を紐解いていく。
一番に出てきた記憶は、ヒカルたちと共に氷の塔へ踏み入ったこと。神話に謳われる初代勇者が使ったとされる武具の一つ、天翔ける靴を求めて遥々北地にまで足を運んできたのだ。その道中でも様々な障害に直面したが、やはり一番衝撃的であったことは、塔へ魔王一行が奇襲を仕掛けてきたことで――
(そうか、奇襲か)
順番を追って思い出すごとに、灰色の記憶が瞬く間に色を取り戻していく。どこか他人事のように感じられたそれらが、一瞬で己のものとして昇華され始める。
塔を守護するガーディアンとの戦闘、勝利。魔王らの奇襲、死闘、苦戦。ヒカルの転移、クロの妨害、転移の発動――。
(俺はあのとき、確かに塔に一人取り残された。魔王らに囲まれた中、死を覚悟して刀を振るったはずだ)
敵手は魔王を筆頭に、彼に率いられた騎士団長四名。更にその影へ潜むクロ。対するこちら側はヤマト一人だけ。多勢に無勢であり、即座に勝ちと生還の目を捨てたことも納得できる状況だった。ヤマトは確かにあのとき、刺し違えてでも魔王の首を討つ――とまでは行かずとも、深手を負わせるつもりでいた。
だが、結果としてその目論見は失敗に終わった。魔王まで後一歩のところにまで歩を進めながらも、最後の関門として立ちはだかった―――を抜くことができなかった。
「俺は敗れたのか」
不思議なほど、その結論はすんなりと胸に落ち着いた。ヤマトは魔王たちを前に為す術なく敗北し、生け捕りにされたということ。なぜ殺されていないのかは疑問が残るが、大して重要なことではない。
何の因果か生き永らえることに成功した今。ヤマトが為すべきことは一つしかない。
「――ここはどこだ」
ヤマトの問いを待ち構えていた拡声器の向こう側へ、その問いを投げかける。
今から為すべき目的のために、まずは現在状況の把握に努めなくてはならない。これはそのための第一問だ。
そうした内心の決意を知ってか知らずか、拡声器の女はケタケタと愉快そうながらも不吉な笑い声を漏らしてから、喋り始める。
『いいぜ教えてやる。ここはお前らが北地と呼ぶ地域の更に奥深く。長年かけて魔族共が作り上げた地下都市の外れにある、俺様の研究所だ。魔王軍もこの周囲には近寄らねぇから、うっかり外に出られるかもしれねぇなぁ?』
「ふんっ」
「お前の狙いは見通している」。そう言いたげな女の言葉を一蹴する。
そんな反骨的な態度が更に気に入ったのか、女は上機嫌そうな調子を崩さない。
『そんじゃおまけだ。お前の首に枷が嵌められているだろう? そいつは探知機の役割も果たしているから、ただ外へ出ただけじゃ意味はないぜ』
「なに」
『思い切り刀で喉を突けば壊せるかもしれねぇが、うっかりそのまま喉を裂かねぇように気をつけろよ?』
言われて手をやれば、確かに首に枷が嵌められていることに気がつく。装着していることを自覚できなかったほどに軽量かつ自然な首枷だが、改めて認識した今となっては、不思議なほどに息苦しさが感じられる。衝動的に指先を首枷に滑り込ませるが、並大抵の力で壊せるような頑強性ではなく、幾ら引っ張ろうともびくともしない。
「くそっ」
『くくくっ! まぁ俺様の私室にその鍵はあるから、気が向いたら外してやってもいいぜ? それまでは、せいぜいモルモットとして健気に頑張ってくれよ!』
「いちいち癪に障る物言いだ」
元来の口の悪さもあるだろうが、恐らくはヤマトを挑発させる意図も含まれている。彼女の言葉から察するに、感情を顕わにさせて生の感情――ヤマトの本質と言うべき部分を観察する意図でもあるのだろう。
女の意図が読めない以上は、無闇に反応しない方がいい。そう判断を下し、憮然とした面持ちのまま腰を下ろす。
『おいおいノリの悪い奴だな! まぁいいや、早速だが実験を始めるとしようか!』
「――実験だと?」
『おうともよ! 俺様の知的好奇心を満たすため、お前にはそこで踊り狂ってもらいたいのさ!』
とても穏やかではない言葉だ。それを裏づけるかのように、数多の戦場で鍛え抜いた直感も不吉な気配を察知する。
にわかに身体に緊張を走らせるヤマトを嘲笑いながら、女は実験の開始を宣告した。
『それじゃあ行ってみようか! 一日目の実験相手はキメラだ!』
その言葉と共に、純白の実験室に一筋の切れ目が浮かび上がった。




