第213話
(――これは?)
深い池の底に沈み込むような、あるいは重い土の下へ埋められるような感覚。
かつて経験したことがないほどに全身が重く、指先や目蓋を動かすことすら気怠い。まるで身体が己の物でなくなったと錯覚するほどの倦怠感の中、意識ばかりは冴えを増していく。思考は瞬く間に速まり、微動だにしない肉体を他所に世界を色鮮やかに染め上げる。
(俺はどうなった?)
記憶を遡ろうとするも、凄まじい勢いで思考が空回りするばかりで何も成果が得られない。分厚いモヤが肝心なところを覆い隠してしまっているようで、解消できない焦燥感ばかりが無駄に積み重なっていく。「何か大事なことを忘れている」という直感は確かに胸の内にあるのだが、正体が掴めない。
募る焦りに任せて手足を動かそうとした瞬間。
暗闇に閉ざされていた世界に、突如光が差し込んだ。
「な……っ!?」
己の声が喉から出たこと。その音色が聞き馴染みのないものであったことに首を傾げる間もなく。
絵画のように次々に色を乗せられていく世界が、やがてヤマトにとって見覚えのある景色を描き始めた。目にするだけで仰け反りそうになる濃い緑色の葉と、真っ青な空。けたたましい蝉の鳴き声が響き、ムワッと湿度の高い熱風が肌を撫でる。
「ここは――」
誰かに問うように声を上げながらも、その答えは半ば確信していた。
瞬く間に彩られていく光景は、ヤマトにとっては馴染み深いもの。これまでの人生で最も長い時間をすごした故郷――極東の奥深い山に隠された里だ。
(これは夢か)
そのことを理解した瞬間。
ギラギラと降り注ぐ夏陽の下にいた自分が、幼い子供の姿になっていることに気がついた。背丈が伸び切らず筋肉もついておらず、満足に刀に振ることも困難だろう身体。先程までの息苦しい倦怠感が嘘のように消え、夢があたかも現実であるかのように生々しい感覚が芽生える。
「森の中――里のすぐ近くか」
辺りを見渡しながら漏らした独り言も、久しく聞いていなかった甲高い声になっている。
本当に子供の頃に戻ったかのような感覚の中、腰元でブラブラと揺れる木刀の感触に気がついた。
「……懐かしいな」
まだ使い始めて日が浅いことが察せられる、真新しい子供用の木刀だ。未成熟な小さい身体でも扱いやすいように短く軽量な木刀は、確か父が作ってくれたものだったか。
(父か)
父。ヤマトの記憶にある彼は、どんなときであろうと無愛想な表情を崩さず、血を分けた実子の前でも厳格な態度を貫き通していた。今にして思えば、それが当人の気質であったのだろうと理解できるものの、幼心には笑わない父が無性に恐ろしく感じられたものだ。口を開いたら怒声を浴びせられるのではないかと無駄に怯え、頻りに母の背に隠れていたことを思い出す。
(思えば、親不孝な子だったのだろうな)
一家の当主として、そして里を率いる長として。絶えず毅然とした態度でいた父とすごした平和な記憶は、正直に言えばあまりヤマトの中には残っていない。一番鮮烈に刻まれた出来事は何かと問われたならば、この木刀を渡されたときと答えるだろうか。
特に理由もなく怯えていた父から木刀を手渡され、鍛錬に励めとだけ伝えられた。幼いヤマトにとってはそれだけでも恐ろしく、木刀など見ることすら嫌になるほどであった。それでも腰にこうしてぶら下げているのは、木刀を放って置く姿を母が悲しげに見つめていたからだったか。
何となく感じる居心地の悪さのままに木刀を片手に、フラフラと森の中を歩き回る日々。幼いヤマトの記憶は、ほとんどがそれで完結していた。父が作ってくれた木刀を手に鍛錬に励むという発想がなかったし、今のように「強さ」を求めようという気概も持てなかった。
(――きっかけは、何だったか)
目的もなく遊び回る日々から一転して、遮二無二に刀と向き合うようになった契機。
その答えを探るために記憶の海を辿りかけたところで、はたと気がつく。
(ちょうど、このくらいの陽気の日だったか)
雲一つ見られない夏真っ盛り。里の者も自然と活力を失う中、夏の陽射しから逃れるために森へ立ち入り、フラフラと彷徨い歩いていたときのことだった。
木の葉に遮られて心なしかマシになった暑さに一息吐いたところに、ヤマトは“その人”と出会った。
「――む? 子供か」
「誰?」
夢の中。どことなく茫洋としていたヤマトの背に、聞き覚えのある声が届く。
反射的に振り向こうとしたところで、身体から自由が奪われていることに気がついた。内心で首を傾げている間に、勝手に動いた身体は反射的に幼い声を上げ、ゆっくりと背後を見やる。
(あぁ、あなたは……)
視界に“その人”が入り込んだ途端に、目端からジワリと涙が零れそうになった。
緑色の葉と茶色の木に囲われたその場にあって、“その人”は見ずにはいられないほど色鮮やかであった。
外見の話ではない。むしろ、外見だけを取り出すのならば“その人”は地味な色合いであった。男たちの目を惹く美貌は大きな笠で隠され、滑らかな黒髪も一本にまとめ上げられている。着物は長い旅路を思わせるほどくたびれており、身体の急所を守る薄手の具足も煤けている。パッと一目見ただけで、どこにでもいる傭兵だと断ぜるような外見だ。
それでも、幼いヤマトの目にはかつて見たことがないほど色鮮やかに映った。色褪せた衣服でも隠し切れないほどに、“その人”は魂が眩く輝いているように見えたのだ。
「ぁ………」
「どうした。私の顔に何かついているか?」
呆然と見上げるしかないヤマトを前に、“その人”は不思議そうに己の顔を擦る。
このときにはまるで自覚できなかった。ただ不思議な感覚と共に“その人”から目が離せなかった幼いヤマトだったが。今ならば、傍目から見てみればよく分かる。
(一目惚れか)
きっとそれは初恋だったのだろう。
“その人“に当時のヤマトは無性に惹きつけられ、どうしようもないほど目が釘づけになり、それでいながら“その人”の視線がひどく小恥ずかしく思えた。“その人”に何とかして触れたいような、それは恐ろしいほど罰当たりのような感覚に囚われ、どうすることもできないまま佇むしかない。
一瞬で茹だった頭で呆然としていた幼いヤマトに、“その人”は困惑したような笑みを浮かべる。困ったように視線を彷徨わせて、ヤマトの腰元に下げられていた小さな木刀に目を留めた。
「ふむ。刀を学んでいるのか?」
「え、いや、そういう訳じゃ……」
「もし気が進めばだが。軽く手ほどきでもしようか?」
「え――」
“その人”にとっては、見かけた子供と軽く遊んでやろう程度の気持ちだったのだろう。
それでも、幼いヤマトにとってその提案はひどく魅力的なものであった。今すぐに手を伸ばさなければ、大切なものを取り逃してしまうという直感が胸の中で叫び声を上げる。
それに衝き動かされるがままに、幼いヤマトは頷き、勢いよく頭を下げた。
「――よろしくお願いします!!」
「おぉ、ずいぶん元気のいいな。いいだろう、ならば私も気合いを入れなくてはな! よし、ならまずは刀を握ってみろ」
期待以上のヤマトの反応に戸惑いながらも、どこか嬉しそうに“その人”は笑みを零す。続く指導の声が響くことを耳にしながら、段々と世界が白ばんでいく。――夢の終わりか。
(唐突なことだな)
そう思いはするが、悪い気はしない。“その人”との出会いの記憶が、それだけ己にとって思い出深いものだったということか。
夢の世界から意識が切り離され、元の身体に血が通っていく。その感覚に少し名残惜しいものを覚えながらも、ヤマトの意識は一気に浮上した。




