第210話
(懐かしい感覚だ)
重苦しい闇に全身を押さえつけられ、魔王たちの闘気を浴びて呼吸が浅くなる。世界から瞬く間に色彩が失われ、灰色の味気ない虚無へと塗り替えられていく。そんな中、絶望に抗えと訴えるかのように、手元の刀がドクドクと激しい鼓動を伝えている。
地に立つ感覚さえもが不確かになる中、刀の切っ先から滴る血の感覚がヤマトの意識を覚醒させる。
(斬ったのか)
僅か数秒前の出来事を回想する。
最上級の魔獣ですら及ぶまいと直感するほどの威圧を伴って突貫するヘクトルの姿。直撃すれば即死、掠めただけでも骨折以上の重傷を免れない攻撃を目前にして、半ば無意識のままに刀を振るっていた。
かつてないほど――否、久しく忘れていた会心の手応えだった。鋭い刃が肉を裂き骨をも断つ感覚。雨のように舞い上がる鮮血の匂いが、日頃封じ込めていた記憶の扉をこじ開ける。
「感慨に浸る間もないか……」
見れば、ヘクトルの腕を深々と斬り裂かれたことによる混乱も収まったらしい。魔王たちは先程までの慢心を抑え込み、真剣な眼差しでヤマトを睨めつけていた。
地に足の着かない浮ついた心地のまま、刀を正眼に構える。不思議なほどに手の中に馴染む刀に違和感を覚えるが、すぐに意識を眼前の敵に向け直した。
(流石に勝ちの目はなさそうだ。となれば――)
理想を言えばこの場から脱走したいのだが、それは難しいだろう。雑兵に囲われた程度であればまだしも、一人一人がヤマトと同等以上の実力を備えている魔王軍騎士団長の包囲を抜け出せると考えるのは、あまりに楽観的にすぎる。
認めたくはないが、ここで朽ち果てる覚悟も定めなければなるまい。
(……死の匂い)
ヒカルと――ノアと出会ってからのヤマトであれば、それに顔をしかめていたことだろう。だが、今のヤマトにとって“それ”は嗅ぎ慣れた匂いでしかない。胸がざわめく不吉な匂いを肺に入れるたびに、細胞一つ一つが作り変えられていく感覚に襲われる。
冴え渡る意識の中で、優先すべきことを見据える。己の命すらも退けて、ここで成すべきことは何か。
その結論は即座に出た。
「――狙うはただ一つ」
刀を持ち上げ、血に濡れた刃で標的――騎士団長らに囲われる魔王の首を狙う。
それで、魔王たちにヤマトの狙いは伝わったらしい。にわかに緊張を帯びた顔つきで騎士団長らは魔王の前に立ち、魔王もその眼差しを険しくさせる。
大将首を狙う。如何に精強な兵が集おうとも大将を討たれた瞬間は脆くなり、隙が生じる。
(そこを狙う他ないな)
万に一つもない奇跡のような可能性だが、そこに賭ける以外の手立ては浮かばない。
そっと息を吐くと同時に覚悟を固める。仄かな熱を放つ刀に目を落としてから、静かに腰を落とした。
「――いざ」
間合いは数メートル。どれほど速く駆けようとも一息を要する距離ゆえに、戦い慣れた手練れであれば迎撃は容易い。
まずは初撃。こちらの踏み込みと同時に放たれる技を掻い潜らなければ、勝機は見出だせない。
(参る!!)
上体を動かさぬまま摺り足、一メートルにも満たない距離を密かに稼いでから、一気に飛び出した。
「ミレディ、ナハト!」
「はぁい」
「い、行きます!」
魔王の号令にミレディとナハトがそれぞれ応える。
ミレディが腕を一閃すれば、指先から幾つもの『矢』が放たれ。ナハトが杖で床を小突けば、そこを始点に青白い衝撃波が放たれた。どちらも魔導術に近しい技に見えるが、魔力を感知することができないヤマトには定かなことは分からない。
(迂闊に触れるのは危険)
一見して只の飛び道具に見える魔導術に様々なタネを仕込めることは、旅の中でノアから学んできた。刀で斬り落とそうとした瞬間に形を変化させるような芸当は、彼女たちほどの使い手であれば可能であろう。
ならば。
「『水月』」
身体に気を巡らせる。駆ける勢いを鈍らせぬままに、身体の重心を揺らす。
『水月』――すなわち、水面に映る月。本物さながらの輝きを放ちながらも触れることは叶わず、ただの幻と見る他ない。幾重にも気配と動きを散らす特殊な足運びの疾駆は、目の前に相対する敵手を幻惑する効果を持つ。
動きの先読みを許さぬ『水月』を前に、ミレディとナハトが僅かに顔をしかめたところが目に入った。魔力の扱いに優れた魔族でも、その視覚に頼った戦いをしているらしい。
「あらまあ、面白い技を使うのね」
「見辛い……」
殺到する『矢』の弾幕と青白い衝撃波が、紙一重のところでヤマトの脇を逸れていく。その余波がビリビリと皮膚を痺れさせるが、その程度で足を止めるほど柔ではない。
「御免ッ!」
刀の刃を煌めかせ、殺気を思い切り叩きつける。『水月』の助けを借り、そのままの勢いで刀を振り抜く幻覚を作り出した。
実体を伴わない幻の斬撃と分かっていても、戦士としての本能は回避を叫ぶ。熟練した戦士であればあるほど抗い難い本能の声に従い、ミレディとナハトはその場から大きく飛び退った。
「ちっ、猪口才な技を使う!!」
道を開ける形になったミレディとナハトに代わって前へ出た者は、先程腕を斬ったはずのヘクトルだ。魔族の高速回復をもってしてもその傷は癒えきらなかったようだが、目には爛々と闘志の炎を輝かせている。
(脇を抜けることは――困難か)
一瞬にも満たぬ時間で判断を下す。
『水月』で翻弄することは可能であろうが、単純にヘクトルの図体と膂力が問題だ。小細工程度に認識をずらし外したところで、絶大な威力の一撃は変わらず脅威的。万が一にも巻き込まれる訳にはいかない。
(退く暇もない。ここは突っ込む!)
退いて機を窺えば、ヘクトルの守りを通り抜けることは可能だろう。だが、それでは後ろへ置き去りにしたミレディとナハトの加勢を許すことになる。
魔王の首を取るため。ここは前進する以外の手はない。
「ォォオオオオッッッ!」
雄叫びと共に放たれる、大盾を備えたヘクトルの拳。
それを眼前にしながら、ヤマトは腰元の鞘を外して盾のように構える。
「『柳枝』」
鋭さの代償に脆さを備えた刀を扱うがゆえの、鞘を守りに用いる技。
迫る拳へそっと鞘を触れさせる。その破壊力に鞘が悲鳴を上げる音を耳にしながら、焦らずそっと軌道を逸らす。胸元を抉り込むように放たれる拳を、自然なまま身体の外へ。何もない虚空へと押し出す。
「ぬ――貴様ァ!!」
「無茶苦茶な威力だ」
拳がヤマトの脇を通り抜けた直後、その威力を支えていた鞘が木っ端微塵に砕け散った。可能な限り鞘に負担をかけないよう腐心していたのだが、それでも耐え難いほどヘクトルの膂力はずば抜けていたらしい。
ほとほと呆れる心地ながら、砕けた鞘を手放す。拳を振り抜いた直後で隙だらけのヘクトルの脇を抜け、再び魔王に向けて駆け出す。
「下がれ魔王。俺が相手をする」
代わって前に立ちはだかるのはヘルガ――魔王軍随一の腕前の持ち主。
他の騎士団長と比べても隔絶し、逆立ちしてみせても勝利することの叶わない圧倒的な実力。もはや絶望を通り越して笑いしか出てこないほどの難敵だが、彼を抜かなければ魔王の元へは至れない。
(覚悟を決める他ないか)
背筋がゾッと凍りつくほどの恐怖を飲み込み、前進する。
意識的にヘルガの姿を視界の外へ追い出し、驚愕に目を見開く魔王を正面に捉えた。
「奥義」
「………っ!? 貴様もしや――」
己が眼中にない。そのことに間一髪で気づいたヘルガは、その胴を薙ぐために魔剣を振りかぶる。
ヘルガを無視して魔王へ斬りかかろうとしても、その衝撃でヤマトの身体を払えるだけの斬撃。それゆえに大振りになった構えをヘルガが取ったことを確かめて、ヤマトは視線をヘルガへ――ヘルガの握る魔剣の刃へと落とす。
「おおッッッ!!」
「『斬鉄』!」
斬れるかどうかは五分。だが、斬れると思えねば斬ることは叶わない。
即座に思考全てをかなぐり捨てて、ヘルガの魔剣を斬ることだけに意識を集中させる。脳裏に描くのは、己が生み出せる中で最も鋭い太刀筋。血に塗れて黒く染まったようにも見える刀が、「信頼しろ」とでも言うようにドクッと脈打った。
「ぬんっ!!」
交錯。
世界が遅くなる錯覚の中、振り切った刀が魔剣の中心を捉え――ズンッと重い感覚と共に、刀の刃が魔剣に沈み込んだ。
「ぬ――」
力の拮抗は一瞬。
呻き声を上げたヘルガが手の力を緩めたことで、刃の滑りが途端によくなる。一瞬で刀が魔剣を半ばまで斬り、そのまま両断する――寸前で。
「ちぃっ!!」
ヘルガが魔剣を思い切り引き寄せたことで、刀が魔剣から抜かれた。
返す刃での追撃を危惧するも、ヘルガはその場でバックステップ。魔剣を庇うようにヤマトから間合いを離した。
(道理は分からぬが、好都合!)
ヘルガの行動に思考が停止しかけるが、すぐに気を取り直す。
ひとまず魔王に至るまでの障害は全て切り抜けたことになる。魔王までの間合いはあと二メートルほど。一歩踏み込めば刀の刃が届く距離に至り、その首をはねることも容易になる。
対する魔王はその美麗な顔に驚愕を浮かべながらも、どこか余裕が感じられる。――何か秘策でもあるのか。
(だが、案じるだけ無駄――いざ!!)
如何に魔王と恐れられていても、その身は魔族のそれ。首を斬れば死に至るはずだ。
踏み込み、刀を振り上げる。
反応するように魔王も魔剣を掲げようとするが、遅すぎる。
「シ――ッ!!」
「――魔王様ッ!」
刀の刃が魔王の額に触れ、浅く切り傷を刻みつける――直後。
魔王の身体が横から、怯えた顔のラーナの手によって突き飛ばされる。魔王の代わりに斬撃の軌道へラーナが入り込む。
「くっ!?」
戦士としての気構えのある騎士団長の面々であれば、例え幼子の姿を取っていても斬ることに躊躇いはなかっただろう。だが、今飛び出してきた者はラーナ――戦いのいろはを知らぬ民間人だ。
殺伐とした思考が停止し、灰色の世界に色が溢れていく。咄嗟に斬撃を止めようとするも――既に遅い。
「な――」
目の前に上がるのは真っ赤な血飛沫。
怯えを含み、それでも強い意思を秘めていることを伺わせるラーナの瞳が揺れた。現実を疑うように胸元の深い傷に手をやり、口から血を吐く。痛みに堪えるように身体が小刻みに震え、グラっと体勢が崩れる。
「ま、魔王様、お逃げ――」
「貴様、何者だ」
哀れを誘うように崩れ落ちるラーナ。
その姿を正面に捉えて、ヤマトは目を見開いた。己を疑うように腕に視線を落とし、そして確信するように首肯する。
「生き物ではない? 人形なのか……?」
『――ぁんだよ、気づくのが速いじゃねぇか人間』
現実と思えないほど大量な血の塊と共に、聞き覚えのない女の声がラーナの口から吐き出される。
驚愕のあまりで硬直したヤマトの腕を、血の気を失ったラーナの手が思い切り握り締めた。
『だがまぁ、ちょっとばかし遅かったみてぇだな?』
「く、貴様っ!!」
咄嗟に飛び退ろうとするものの、見た目に反する人間離れした膂力でラーナ――否、ラーナの姿を模した人形に身体を縫い止められる。何とかして拘束から逃れようとしても、あまりに強い膂力を前に身動ぎすら取れない。
『まぁまぁ暴れんなよ。あのクソ野郎が勇者を逃したみてぇだから、最低でもお前は持ち帰らねぇと。なぁ魔王?』
「貴様は……っ!?」
『せっかく俺がお膳立てしてやったってのに、何だよこの様は? 嘆きを通り越して笑えてくる』
驚愕に目を見開いたのはヤマトだけではない。人形に庇われた魔王と、その配下たちも含めたことだった。
彼らの顔を嘲笑うように一瞥した人形は、ペラペラと言葉を続ける。
『テメェらが勇者殺しを成功させたなら、俺も出しゃばるつもりはなかったんだぜ? それに失敗した挙げ句、今度は魔王の首も取られる寸前ときた。まったく、情けない話だよなぁ?』
「ぐっ」
『だがまぁ俺は寛容だからな。こいつをモルモットにすることで許してやろうって訳だ』
モルモット。
それが意味するところを直感し、ヤマトは顔をしかめる。何とか抜け出そうとするものの、身体は鋼の枷を嵌められたかのように重く動かない。
「く、っそ……!!」
『安心しろよモルモット。俺もお前に興味が出たところだからな。ひとまず殺さずにおいてやるぜ』
その言葉と共に、人形の拘束の力が強まる。ギシギシと骨が軋むような幻聴が聞こえる中、段々と視界が白く染まっていく。呼吸が瞬く間に浅くなり、思考も空回りを始める。
『そのまま眠りな。次目覚めたときは、きっと愉快なことになってるからよ?』
「―――――」
情けない、と己を悔いる間もない。
やがて呼吸もできなくなり意識が落ちる中、思い浮かべたのは遠い地へ飛んでいった仲間たちの顔だった。




