第206話
氷の塔最上階を舞台にして幕を開けた、勇者一行と魔王軍の対決。
ビリビリと空気を震わせる闘志の奔流に肌を泡立たせながら、ヤマトは前方にて佇む黒騎士――魔王にヘルガと呼ばれていた騎士を睨めつけた。
(こいつは俺が喰い止めねばな)
彼我の隔絶した力量差が、相対して改めて理解できる。ただ刀を正眼に構えるだけでも精神力が摩耗し、ジットリと脂汗が背中に滲み出る。丹田に力を込めて震える膝を叱咤するが、己の及ばぬ敵手を前にした身体は本能の叫びを無視できない。
「――くそっ」
思わず、悪態の声が漏れる。
幸いにも各々の敵手を前に集中するヒカルたちには悟られなかったようだが、兜の中から重苦しい気配を放つヘルガにとっては一目瞭然であったらしい。
「大したものだ。彼我の差を痛感してなお、我が前に立ち続けるとは」
「ずいぶんと余裕そうだな」
「貴様も分かっているのだろう? どれほどの奇跡が起きても――例え天変地異が貴様を味方したとして、我が剣を退けることは叶わぬと」
相当に傲岸不遜に聞こえるヘルガの言葉だが、それが単なる虚飾ではないことはヤマトの本能が理解していた。
ただの剣士としての力量が違うというだけの話ではない。無論、それを比べても黒騎士の腕はヤマトを凌駕しているだろう。だが、それ以上に黒騎士からは得体の知れない力――そもそもの存在の格が違うと悟らざるを得ない“何か”が感じられるのだ。ヤマトが尋常の人である限りはヘルガを討滅すること叶わず、刀の切っ先を触れさせることもできまい。それが、半ば必然の真理として頭に刻み込まれる。
勝つことは不可能。時間稼ぎでさえも厳しい。今のヤマトに考えられる手は、即座に刀を下ろして降伏するか、ただ初撃を避けることに全霊を賭すことのみ。
(前者は論外。ならば――!)
打てる手は一つだけということ。
一挙手一投足をも見逃すまいと目を凝らす前で、ヘルガは悠々と腰の剣に手をかける。
「我が前に立ちはだかる。その意気やよし」
ズルリと音を立てたと錯覚するほどの重みと共に、腰の鞘から剣が引き抜かれる。
その刃を目の当たりにした瞬間に脳裏をよぎったのは、先に魔王が手にした魔剣の姿。それと同様――否、魔王の剣よりも更に濃い闇を映すが如く、美しさすら感じさせる漆黒が刃に宿っていた。
「主より授かりし剣の重み。その身でとくと味わうがいい」
(来る――!?)
背筋を駆け巡る悪寒。
直前に幾つも描いた行動全てをかなぐり捨てて、なりふり構わずに後ろへ飛び退った。
直後に、質量を伴った闇が目の前に喰らいつく。
「くっ!?」
「ほぅ、避けたか」
数多の修羅場を潜り抜けたはずの胆力が、ヘルガの一撃を前にしてまるで機能しない。死がそのまま形になったかのような斬撃に、背筋は凍りつき、呼吸が浅くなる。掠り傷一つ負っていないというのに身体から力が抜け、目の前が暗くなる。
「これは……!?」
「動きが鈍いぞ」
脳裏に電流が走り、一つの答えを導こうとする。
それを遮るように振られたヘルガの剣を避けた刹那、再び脱力感がヤマトの身体を襲った。
「妙な技を使う!」
「貴様に敬意を表すがゆえのもの。悪く思うな」
一度も斬撃を身に受けていないにも関わらず、身体が骨の髄から重くくたびれていく。この刹那で死病を宿らされ、身を蝕まれているかのような状況。必然的に動きは精彩を欠き、ヘルガの攻撃を紙一重で避け反撃に転じるような真似はできない。
焦れる心を宥めるように唇を噛んでから、刀を握る手に全霊の力を込めた。
「む?」
「『疾風』!」
納刀。腰を捻り、即座に抜刀。
振り抜いた刃から鎌鼬が奔り、更なる追撃を繰り出そうとしていたヘルガに襲い掛かった。一つ一つの傷は浅くとも、その全てを身に受ければ無事では済むまい。
「小癪な技だが、無意味だ」
刃の嵐を前にしてヘルガが零したのは一言のみ。ゆらりと黒剣を掲げ、軽く扇ぐように刃を振る。ただそれだけで、鎌鼬の弾幕全てが威力を失い、ただのそよ風としてヘルガの背後に流れていく。
「ちっ!」
「その程度で我を止められると思ったか?」
止めるつもりで放った訳ではないが、それでも時間稼ぎにはなると踏んでいた。
それが、こうもあっさり防がれるとは。この刹那でヤマトができたことといえば、『疾風』を撃った体勢を立て直した程度だ。
歯噛みするヤマトに休む時間を与えずに、ヘルガは再び黒剣を携えて疾駆する。
「どうした人間。この程度ではないだろう?」
「舐めてくれる!」
剣が近くに迫るたびに強烈な脱力感が身体を襲うが、舌を噛んで無理矢理丹田に力を込める。魂が凍りつくような恐怖を押し殺し、下段からすくい上げるように襲い来る黒い刃を直視した。
(――ここだ!)
動きにまるで反応できずとも、剣の間合いと斬撃の軌道は見切った。ならば、紙一重で避けることも不可能ではない。
半ば祈る心地のまま半歩横にずれ、その勢いをも乗せて刀を腰だめに構える――直後に、黒剣の刃がヤマトの頬を舐めるように斬り裂いた。
「ぬ」
兜の中から漏れ出る驚きの声。
それに会心の笑みを浮かべそうになりながらも、決して慢心は許さない。手にした刀に全霊を込め、必殺の一撃を放つ。
「『斬鉄』!」
空から鉛を乗せられたような重みを自覚しながら、刀を振り切る。馴染んだ動きを身体がなぞってくれたことに安堵する。
幾ら身体能力に優れた者であろうと避けることは叶わず、どれほど強固な鎧であっても斬り捨てる斬撃。文字通りの必殺を目前にしてなお、ヘルガの佇まいに焦りはなかった。
「いい一撃だ――だが」
称賛の言葉。同時に、上段へ振り抜いていた黒剣を切り返した。鋭くも見切りやすい『斬鉄』を叩き落とすように、黒い剣が振り下ろされる。
「ぬんっ!!」
「ぐぅ――!?」
手に返るは硬く重い感触。
驚きに目を見開けば、必殺を巌の如く頑然と受け止める黒い刃が視界に入った。
「この身に受けたならば危うかっただろう。だが、その刀がどれほど鋭く研がれようと、決してこの剣を断つことはできん」
誇りを滲ませたヘルガの言葉。
それを耳にするのと同時に、ヤマトの胸を凄まじい衝撃が貫いた。反射的に飛び退った勢いが暴れ、身体が宙を舞う。
「がぁっ!?」
「咄嗟に衝撃を逃したか。反応も悪くない」
感心するようなヘルガの言葉を、どこか遠い世界のもののように聞きながら。遠のく意識を必死に繋ぎ留めていたヤマトは、その背に再び衝撃を受けた。肺から空気が吐き出され、グラっと視界が暗転する。
「く、そ……!!」
口の奥から血の味が滲み出る。
鋭い痛みを頼りに感覚を保ち、口の中に溜まった血を噴き出す。グラグラと揺れる頭を片手で支えながら、ゆっくりと身体を起こす。
「見事なものだ人間。技は冴え勘も鋭い。貴様が脆弱なる人の身でさえなければ、危うかったのは我の方かもしれんな」
「言ってくれる」
「勇者と志を共にするのでなければ、我が技を継ぐに相応しい逸材だ。――ゆえに、惜しいな」
悠々と語りながらも、ヘルガはヤマトに対して気を抜くような素振りは見せない。
意識こそ段々と定まってくるも、次いで襲い掛かってきたのは気が遠くなるほどの脱力感だ。身体の骨全てが鉛に変えられたかのように重く、目蓋が一秒ごとに閉ざされていく。頭は霞をかけられたかのように茫洋とし、戦いに逸る意識が無理矢理に閉ざされていくような錯覚を覚える。
(笑えるほど絶望的な状況――だが)
唯一救いの目があるとすれば、ヘルガが直ちに止めを刺そうとしていないことだろう。ゆっくりと歩み寄り黒剣を扇ぐばかりで、その刃でヤマトの首を落とそうとはしてこない。
それに何の意味があるのかは分からないが、ひとまず都合がいいことに違いはない。
「ふぅ――」
深呼吸。
元より絶望的なのだからと、全身から思い切り脱力する。途端に崩れ落ちそうになるところを堪えながら、胸の奥でトクトクと小さな音を奏でる心臓の鼓動を自覚する。
「……貴様は危うい奴だ。奴の言葉には反するが、ここで殺すが吉か」
ヘルガの声が遠くから聞こえた気がする。
全身を包む倦怠感も相まって、深海に沈み込んでいくような静謐の中――ズンッと音を立てて、“何か”が水底に根を差したことに気がついた。肩を凄まじい力で押さえつけていた重みが、ぐっと身体の髄に染み入るような感覚。
(――入った)
戦闘時に入りやすい、極度の集中状態。
命の危機を目前にしたからか、かつてない強敵との戦いに応えてか、度重なる鍛錬の賜物か。いずれにせよ、今回はかつてないほど“深く”入ったことを魂が理解する。
「死ね」
微かな風切り音を耳が捉える。
身体の重みが促すがままに後退れば、髪先寸前のところを鋭い刃が通り抜けたことが理解できた。それに驚く暇もないまま、右手に収まっていた刀で斬り上げる。
「ちっ」
舌打ちと共に、ヘルガが飛び退る。ヤマトの様子に何かを感じ取ったのか、先程までの余裕を消して油断なく視線を巡らせていることが分かる。
その姿を何気なく見つめる。相変わらずの怖気を感じさせる佇まいと、そこに秘められる確かな力の全貌を感じ取って――そっと溜め息を吐く。
「――参ったな、勝てそうにない」
「ほう?」
これまで経験したことがないほど鮮明に世界が映し出され、身体の末端に至るまで神経が鋭敏になっている。先程まで感じていた脱力感は失せ、身体の状態は最高に近い――否、最高をも越えていると言えよう。例え竜種が相手であっても遅れは取らないと、今であれば力強く断言することができる。
それでも。
目の前に相対する黒騎士を眺めて、首を横に振った。
「口惜しいことだが。今の俺ではお前に届かないようだ」
「……我の見立てでは、そうでもないがな」
「ずいぶんと買われているらしい」
極限に近い集中状態。己の力を余すところなく把握できているのみならず、目の前に相対するヘルガの力も隅々まで理解できる。ゆえに、今のヤマトの実力では勝ちを望めないと理解できてしまった。
奇策を重ねて抗うことは可能であろう。ヘルガの鎧を断ち、その血肉を斬ることも可能に見える。先程まで感じていた隔絶した差は失せ、確かに勝負にできそうだと頷ける程度の差には収まった。――だが、それまでだ。
どれほどの技を繰り出してみせたとしても、己の刀ではヘルガの命を断つに至らない。血塗れの死闘にもつれ込めたとしても、その先にある敗北は揺るがない。
(ゆえに、この場における勝利は捨てるべきか)
すなわち、逃亡。
思考を切り替え、そちらの策の要となる人物に意識を向けた瞬間。
「――降伏せよ、勇者」
冷酷な魔王の言葉が、するりと耳に滑り込んできた。




