第203話
北地を安住の地と定めた魔族たちの間で、「氷の塔」という俗称で親しまれる遺跡があった。寒地に適応した魔族であっても容易に越えることができない吹雪に閉ざされ、未だかつて誰も入ったことがない遺跡。噂好きの若者たちは“何か”があると騒いでいるが、真実はとても喜ばしいものではない。封じられているのは魔族の仇敵――勇者が後世に残した武具であり、言わば魔族を効率よく殺すための兵器と言える。
そんなおぞましいものを封じた氷の塔を目前にして、魔王はそっと溜め息を漏らした。
「勇者の力とは凄まじいものだな。噂には聞いていたが、まさかこれほどまでとは」
「ちょっと規格外がすぎるわねぇ。まさか私の結界を無理矢理壊すだなんて、思いもしなかったわ」
数多の同胞を屠ってきた武具の一つ――天翔ける靴。幾つもの犠牲の末に先代魔王が奪うことに成功した兵器は、第三騎士団長ミレディが施した吹雪の結界に守られ、氷の塔の最上階に封じられている。何かの間違いで外へ漏れ出ることのないよう、ミレディの結界は例え魔王であろうとも容赦なく外へ弾き出す代物だったのだ。
それを、今代勇者は聖剣の一振りで破壊してみせた。神に愛された勇者は世界無双に等しい力を宿すとは謳われ、また魔王もそのことを重々承知しているつもりでいたが、実際に目の当たりにした猛威は想像の遥か先を行っていた。
(これほどの化け物を、我らは本当に――)
つい弱気が頭をもたげるところを、首を振って振り払う。
これから行う作戦に失敗は許されない。記録も残らないほど古代から連綿と受け継がれた戦いに終止符を打つため、北地という厳しい環境で細々と生きる魔族の未来を勝ち得るために、どのような手を使ってでも勇者を殺さなければならないのだ。
今更勇者の力に怖気づくような暇など、魔王たちには残されていない。
密かに思いを新たにした魔王は、微かに顔をしかめているミレディに向けて口を開く。
「だが、計画通りだ。勇者をあの塔に導き入れるという目的は、多少の手違いこそあれども、順当に果たせている。案ずるようなことはない」
「それはそう、なんだけどねぇ」
妙に艶がある憂いの溜め息をミレディは漏らすが、彼女自身も幾ら不安を口にしたところで意味はないと悟っているのだろう。何かを言いたげにしながらも、ついにそれを言葉にすることなく黙り込んだ。
ミレディに代わって口を開いたのは、第二騎士団長ヘクトルだ。
「王よ。御身が思い煩うことなど何一つありません。王の前に立ちはだかる敵手は、例え伝説に謳われる勇者であろうとも、このヘクトルが粉砕してみせましょうぞ」
「うむ。頼もしいことだ」
所詮は気休め程度の言葉だが、この堅物ヘクトルが大真面目に口にしているというだけで、どこか信じたくなる重みがそこからは感じられた。
無闇に配下の不安を煽るような魔王よりも、ヘクトルの方がよほど王としての器が備わっているようだ。
そう自嘲しかけたところで、魔王は即座に己の考えを打ち消した。例え虚勢であろうとも己が王たるに相応しいと吠えることができずして、何が王か。真実として王として不足しているのであれば、それを判断して魔王を失墜させるのはヘクトルたちの役目だ。彼らが己を王として頂いていることを信じ、可能な限りの虚勢を張ることこそ魔王の務め。
キリキリと鋭い痛みを訴える胃を無視して、魔王は胸を張る。
「ここが正念場だ。気張れよヘクトル」
「ハハッ!!」
改めてこの目で見た今代勇者の力は、魔王たちの想定を上回っていた。あれでまだ未完成な上に、絶対勝利の加護さえも勇者は授かっているというのだから、これまでの魔王がどれほどに絶望的な戦いに臨んできたのかが察せられるというものだ。
だが、これから行われる戦いまでもが絶望的であるとは思わない。元より勇者の力が規格外で、まともに戦えば勝ち目などないと見込んだ上で策を練っていたのだ。それと比べれば、まだ理解できる範疇に留まっている今代勇者は与しやすい相手と言えよう。
再び王としての覇気を取り戻した魔王を横目で伺い、これまで無言を通していた第四騎士団長ナハトがそっと溜め息を漏らした。その姿を密かに認めたミレディは、艶っぽい微笑みから一転して、悪戯少年の如き無邪気な笑みを浮かべる。
「あらナハト。あなたも不安なのかしら?」
「い、い、いえ、そんなことないです……」
「ふふっ、あなたはそう気張る必要ないわよ。確かに今回の作戦にあなたの力は必要だけど、実際に勇者と戦う訳じゃないのだから」
「は、はい」
相変わらずオドオドとした態度でいるナハトに向かって、第一騎士団長ヘルガがミレディに代わって声を上げる。
「そなたは我らの後ろに控えていればいい。例え勇者の力が我々が及びもしないほどであったとしても、そなたが逃げる時間くらいは稼いでくれよう」
「ヘルガ? あなた、そんなことも言えたのね?」
「……そなたは我を何だと思っている」
意外そうな声を上げたミレディに、ヘルガは憮然とした様子で言葉を返す。だが、ミレディの言葉は脇で聞いている魔王とヘクトルも同意するところであった。
ヘルガは先代魔王の頃から魔王軍第一騎士団を指揮する実力者であり、ただ戦闘力を比べるのであれば魔王以上は確実に備えているだろう騎士だ。その言動は我が道を行くものであり、己に比肩しない他者への思いやりをどこかへ忘れてしまった男だとばかり捉えていたのだ。
だが、そんな思いを今改めて口にする必要もあるまい。額に脂汗を滲ませて弁解するミレディから視線を外し、魔王は再び氷の塔を見上げる。
「……中には古代文明の遺物が眠っているだったな」
「あのガラクタに勇者殺しを期待するのは、無理がすぎるというものでしょう。勇者の加護とやらが通用しないという可能性は否めませんが」
「そうだな」
ヘクトルの言葉に頷く。ただ機械仕掛けの玩具にしては手強い存在だが、所詮はガラクタ。戦士としての力に長けた魔王たちにとっては障害になり得ず、ゆえに勇者も難なく退けてみせるだろう。
結局、魔王と勇者の対決は避けられない定めにある。
(偉大なる祖先よ。我らに加護を与え給え――)
ヘルガ、ヘクトル、ミレディ、ナハト。いずれも一癖も二癖もある扱いづらい連中だが、その実力は折り紙つき。勇者という不倶戴天の敵を相手取るにあたって、彼らほどに頼もしい存在はいないだろう。
クロと“彼女”。仲間と呼ぶにはあまりに得体の知れない連中だが、彼らの力もまた本物だ。今はこの場に姿を見せていないが、彼らも必ずこの戦いに手助けをしてくれることは分かっている。万が一に魔王の戦術が外れた場合には、彼らの力を借りることになるだろう。
そして、遥か古代から魔王の称号を受け継いできた王たち。その全員が勇者を前に敗北を喫してきたが、決して無意味であった訳ではない。今回の作戦の要でもある天駆ける靴は、先代魔王が激闘の末に簒奪することができた代物だ。
今これより行われるは、魔族の趨勢を占う戦い。見事勇者殺しに成功した暁には、長らく日陰者として追いやられてきた魔族は表舞台に舞い戻ることができる。逆に勇者殺しに失敗したならば、いよいよ魔族の命運が尽きるときが近い。
ぐっと肩にのしかかる重圧。その重みは魔王の心臓をじわじわと締めつけるのと同時に、前へ進めと鼓舞の声を上げているようでもあった。
「ふぅ――」
整息。
慣れ親しんだ冷たい風を肺に取り込み、寒さで冴えた頭でこれからの戦いを夢想する。
胸中にひしめくのは恐怖、不安感、使命感――そして、高揚感。
ドクンッと心臓が強く脈打つのを自覚した瞬間に、不思議と背中にあった魔王としての重責が軽くなった。自然と脚が前へ進み、口が動き出す。
「行くぞ皆の者。我らが臨むは決戦。勇者の首級を上げ、魔族の未来を掴もうぞ」
腰にある魔剣がドクドクと鼓動する。すぐ目の前に迫った戦いに高揚しているのか。直感に衝き動かされるに任せて鞘から引き抜けば、黒い肉厚の刃がギラリと輝いた。
「これより、勇者殺しを決行する! 大義は我らにあり!!」
「「「「ハハッ!!」」」」
頼もしい配下の声を背に受け、氷の塔に向けて歩を進める。
勇者と魔王が出会い、世に魔王ありと開戦の狼煙を上げる。その運命的な瞬間は、もうすぐそこにまで迫っていた。