第199話
北地に人知れず生活する魔族たち全員が、その実在を確かめることができなかった氷の塔。
如何に強靭な魔族の肉体であっても通り抜けることの叶わない猛吹雪の中に隠された塔は、建設当時からほとんど人の目に触れてこなかったことを表すように、汚れ一つ浮き出ていない純白な光を放っていた。
ヒカルが力技でこじ開けた道を抜け、やはり傷一つない扉を目前にした一行は、氷の塔の威容に息を飲む。
「すごいピカピカー!」
「誰かが管理してきた……はずはないよね」
魔族を阻むほどの雪と風を浴び続けたにも関わらず土汚れ一つない外壁を見上げて、ノアが小首を傾げる。あまりの迫力で意識に上らなかったが、考えてみれば妙なことだ。この塔がどのような経緯で築かれたものかは分からないが、時代の流れと共に風化することは至極自然なことのはず。
「魔導術が仕込まれているのではないか」
「まぁ普通に考えたらその通りなんだけど。見た限り、魔力が流れている感じはしないんだよね」
「ふむ」
ヤマトたち現代人の道理が通用しないものと言えば、古代文明の遺物が真っ先に挙げられる。僅かな遺跡以外には記録が残されていない古代文明では、現代からは想像もつかない技術がありふれていたという話だ。その技術の粋をもって作られた遺跡は、無論ヤマトたちの目からは異質な存在に映っている一方で、それでも長い年月を経て朽ちているのが常だった。
そのことを思えば、こうして新品同然の姿のまま残されている氷の塔は明らかに異質。まるで現世から切り離され、築かれた当初からほんの僅かな年月しか経験していないようにも見える。
「結界で隔離していたという考えはどうだ」
「塔の周りを塞いでいた吹雪が結界で、中の時間を止めていたっていうこと? ……確かに説明はできそうだね」
その仮説を踏まえるのであれば、誰も氷の塔へ到着できなかったという話も頷ける。如何に吹雪に適応した魔族であっても、結界をどうにか対処しないことには塔へ至ることはできないのだ。加えれば、力技で強引に吹雪を止めたように見えるヒカルの行いも、強力な聖剣の一撃によって結界を破壊したものと受け取れる。
(ならば、ヒカルの行動も理に適ったものとも言えるか)
そんなことを思い浮かべながら、ヤマトはちらりと後方のヒカルたちに目をやる。
パーティメンバーに了承を得ることなく聖剣を振るったヒカルは今、教導役として派遣されているリーシャから口酸っぱく説教を受けているのだ。結果的に結界を手っ取り早く破壊することができたとしても、その余波を大して予測せずに攻撃を放った罪は大きい。
リリとラーナという部外者二人がいる手前、兜は着けたままでいるヒカルであったが、その雰囲気がずいぶん打ち沈んだものになっていることは肌で感じられる。
(ヒカルも意図して俺たちを巻き込んだ訳ではないのだろうがな)
普段は凛々しく勇者然とした態度を貫いているから勘違いされやすいが、本来のヒカルの性根は素朴で心優しいものだ。好んで誰かを傷つけようと考える人ではないし、叶うならば争いごとから遠ざかろうとする臆病な側面を備えている。
ゆえに、先程ヤマトたちを巻き込んでしまった攻撃も意図的なものではないことは、ヒカルのことを知った者であれば理解できる。むしろ、彼女は極力余波を漏らすまいと威力を調節していたようにも思えるのだ。
(とあれば、威力を調節し切れなかった――調節してなお、俺たちが耐えられるものではなかったということ)
いつのことだったか。勇者に備わった加護の力は、その源である神への信仰度合いによって増幅するという話を聞かされたことがある。ヒカルは初代勇者の武具を集めて自身を強化することに加えて、大陸各地を巡って太陽教会への信仰を高める役割も背負っているのだ。
教会に近い場所であるほど加護は強化され、逆に人の目が届かず神の教えを伝わらない場所では弱体化される。その意味で、魔族ばかりが住み着く北地においてはヒカルの力は相当弱まっているはずであった。だが一方で、勇者としての輝かしい活動実績は、太陽教会に寄せられる人々の信仰心を強めている。実在を疑われている魔王はさておいて、事実として各地の騒乱を解決しているヒカルの名声は、今や留まるところを知らない勢いで伸び続けているのだ。
ヤマトたちが――否、ヒカル本人ですら把握し切れないほどの勢いで、勇者の加護は強化されている。以前までの感覚で手加減した攻撃が、ヒカルたち全員の推定を上回る威力を持ってしまったのも無理からぬ話には思える。
とは言え。
「情けない話だ」
ヒカルに繊細な手加減を要求しなければならないほどに、ヤマトたちの実力は及んでいない。行動一つ一つに対して味方への配慮を求める状態は、果たしてヒカルの側に立つに相応しいのだろうか。
思わず腰の刀を握り締めて、腹の熱を吐き出すように溜め息をする。
「ヤマト?」
「……何でもない」
顔色を窺うようなノアに、軽く首を横に振って応える。
思うことはあるが、今はそれに気を散らしている場合ではない。目の前にある氷の塔に意識を集中させるべきだ。
「中に雪は積もっていないようだな」
「結界で隔離されていた説が濃厚になってきたねぇ」
扉は取りつけられておらず、無防備に入り口が解き放たれている。
外観は現実離れした姿であったが、その内装は見覚えのある様式――というより、ザザの島で見たことがある遺跡と同一のものであった。材質が何であるのか定かにならない金属質な壁と、天井の照明器具から放たれる目が痛いほどの白い光。室内の空気は外の吹雪に似合わず暖かく、外套の中でホッと気の抜ける溜め息が漏れた。
「間違いなく古代文明の遺跡だな」
「そうなの……かな? 正直、これまで見たことがある遺跡とは全然似ていないけど」
ノアがこれまで見てきた遺跡とは、すなわち相応の年月を感じさせる遺跡のことだ。想像もつかないような技術が垣間見える一方で、大半が既に朽ちてしまっている影響で少し受け入れやすい部分があったのだ。それと比べると、現代とは正しく別世界であると強く主張するこの遺跡は、ずいぶんと様子が異なっているように見えるだろう。
大陸南方の海を越えた先にあったザザの島――レレイの故郷には、ここと同程度に保たれた遺跡が残されていた。そこは大人が数人入れる程度の狭さしかなかったが、レレイ一族が丁寧に扱ってきた甲斐あって、保存状態のよさはここと遜色ないレベル。その遺跡のことを知っているヤマトとレレイからすれば、この氷の塔が古代文明の遺物であることは一目瞭然であった。
ノアが釈然としない表情を浮かべているのを横目に、暖かな空気に満ちた塔内部を見渡す。
「入っても反応はなし。ここにガーディアンはいないのか?」
「いないかもしれないけど、気を抜くのは厳禁だね」
言いながら脳裏に浮かんでくるのは、エスト遺跡に現れた番人ガーディアンの姿だ。「動く石像」としか言いようのないガーディアンが、勇者ヒカルか竜種ミドリの力以外を受けつけず、ヤマトが幾度となく刀で斬ったことを物ともせずに暴れ回ってくれたことは記憶に新しい。ガーディアンが古代文明によって生み出された番人ならば、見るからに当時の機能を保つ氷の塔にもいておかしくないのだが。
軽く気配を探った限りでは、ヒカルたちが足を踏み入れたことによる変化は何も感じられない。せいぜい外から風が吹き込み、塔の中に氷の粒が積もり始めている程度だ。
「リリたちもついて来るつもりなのか?」
「勿論!」
「はい、お供させていただきます」
リーシャの長い説教を終えたのか、やや疲れを滲ませた声をヒカルが上げる。
それを受けて、リリは身体から好奇心を勢いよく溢れさせるほどの活力をもって、ラーナは何か決意を固めるような様子で首肯する。
(退いてくれた方が、色々と都合がよかったのだがな)
リリとラーナの言葉にそんなことを思い浮かべるが、ヒカルの方は何の下心もなく頷いた。
「分かった。何があるか分からないから、絶対に離れないように」
「分かったよ!」
「えぇ。ほらリリ、手を」
その身を賭してでもリリを繋ぎ止めるというつもりか。ラーナがリリの手を固く握り締めた。
本音を言えばここで待っていてほしいのだが、チョロチョロと好き勝手に動き回られてしまうよりはマシだろう。ノアと軽く目を見合わせて、そんな妥協案を下した。
「階段は……あれか」
「ずいぶんと細い階段だね」
入り口のすぐ目の前に控える受付台や長椅子数個、それらから一つ外れた位置に階段が備えてあるのが見える。歩を進めて軽く先を眺めてみれば、階段は塔の外周に沿って螺旋を描くように続いていることが分かる。
「長そうだな」
「これは骨が折れそうだね」
外から軽く眺めただけでも、高さ数キロメートルに至るかというほどの威容であったのだ。一歩一歩階段を登ることが想像を絶する苦労を伴うことは間違いない。
「頂上に着いた頃には陽が沈んでいるかもしれんな」
「笑えない冗談だね」
冗談のつもりではなかったが。
古代文明を築き上げた者は何を思ってこんな塔を作り上げたのだろうか。登り降りだけで半日を要するような建築物は、人が使うにはあまりに大きすぎる欠陥を抱えているように見える。それとも、人の足で半日かかる道をすぐに移動できるような手段があったのだろうか。
ヒカルたち一行の間に漂う暗い雰囲気を察して、ヤマトは一段だけ声の調子を上げた。
「塔の中に魔獣の気配はないことが救いだな。無警戒とまではいかないが、この中であればそれなりの休息は取れそうだ」
「食料とか寝具とか、キャンプ用品も全部持ち込んである。外よりもずっと暖かいから、むしろ昨日よりも居心地はいいかもしれないね」
無論、遺跡を侵入者の手から守護する罠やガーディアンなどの恐れはあるが、誰にも気を許せない魔族の集落と比べれば気を休めることもできるだろう。長く代わり映えしない景色が予想されるが、束の間の平穏と思えば心穏やかに受け入れることも可能だろう。
そんなヤマトとノアの呑気な会話に平常心を取り戻したのか。ヒカルは僅かに首肯すると、一行の先頭に立って階段に足をかけた。
「ここで立ち止まっていても仕方ない。登るとしようか」