第197話
『――勇者の釣りは無事進行中だ。安心してくれていいぜ』
「そうか」
世界が暗闇の中に閉ざされたかのような静寂。
血肉をも凍てつかせる寒風が吹く大地を遠望しながら、魔王は“彼女”からの通信音声に耳を傾けた。
『まぁ多少の不審感は抱かれてるかもしれねぇが、そのくらいは安いもんだろ?』
「多少態勢を整えたから破られるほど、やわな策は講じていない。心配は無用だ」
『何やるのか俺様は知らねぇが、しくじるんじゃねえぞ? せっかく珍しいモルモットが来てるんだ』
「傍若無人」に「傲岸不遜」を絵に描いたような“彼女”の言葉に、魔王は思わず眉をひそめる。
「ずいぶんと呑気なことだな」
『あぁ? ……そうか。テメェ、もしかしてビビってるのか?』
ひたすら自分勝手に振る舞い思慮の欠片もないような“彼女”であるが、その叡智は大陸随一と言っても過言ではない。“彼女”の言葉に対する魔王の反応だけで、魔王が配下の前では努めて秘めてきた不安感を悟ってみせたらしい。
これでは、どちらが王たるに相応しいのか分かったものではない。思わず顔をしかめながら、魔王は口を開く。
「余計な詮索をするな」
『クククッ! んだよそうなら早く言えよなぁ! テメェらがビビって動けねぇってんなら、俺様が代わりにやってもいいんだぜ?』
「ふざけるな」
『ふざけてねぇよ。俺様は、テメェらが確実に勇者を殺るってっから譲るだけだ。確実に殺れないとか吐かすなら、俺様が手を下してやるよ』
「口ばかりは大層なことだ」
『――なら、今すぐにでも殺ってやろうか?』
それは悪魔の囁き。
如何に“彼女”であろうとも勇者殺しは容易には達せられないと理性が判断する一方で、“彼女”であればあるいはと感情が訴え始める。どうせ“彼女”が失敗したところで魔王たちには何の被害もなく、逆に“彼女”が勇者を殺せたならば事態は容易くなる。となれば、この場において賢い選択は――
「やれやれ。そのくらいにしておいてもらえますかね」
地獄へと誘う蠱惑的な“彼女”の言葉を遮ったのは、気配を感じさせずに現れたクロの言葉だ。いつも通りの飄々とした態度ながらに、その言葉の奥には譲与を許さない厳しさが秘められている。
クロの考えを言葉で翻させることはできないと悟ったのか、“彼女”は通信機越しに舌打ちを漏らす。
『邪魔が入ったな』
「申し訳ありません魔王様。何やら勘が働いたので」
『おいおい、まるで俺様がよくない奴みたいじゃないか。勘弁してくれよ』
「いえいえ。お戯れを。あなた様を頼って勇者殺しを果たしたとあれば、軍が二つに割れる事態になりかねないですからね。ここは抑えてくださいよ」
『クククッ、モルモットが増えていいことじゃねぇか』
この国の主である魔王が置き去りにされ、“彼女”とクロの話が急速に進んでいく錯覚を覚える。
咳払いをして二人の会話を打ち切ってから、魔王は“彼女”との通信機に視線を流した。
「作戦に変更はない。貴様には引き続き、勇者の釣りをしてもらおう」
『あいよ。不安ならいつでも頼ってくれていいんだぜ?』
「利息が高くつきそうだな」
『クククッ!』と特徴的な笑い声を残して、通信用魔導具の動力が落とされた。ただ声が届かなくなっただけだというのに、辺りの空気がぐっと軽くなるような感覚を覚える。
(これでは、“彼女”こそが軍の頂点に立つと言われても否定できんな)
己の王としての不足に歯噛みしながらも、それを表には出さない。
疲労を滲ませた溜め息をすんでのところで噛み殺して、今度は玉座の間に入り込んでいたクロへと目を向けた。
「して、何用だクロ」
「先程言った通りですよ。何やらよからぬ気配がしたものですから、顔を出してみたのです」
“彼女”がひとまず立ち去ったからか、クロは「よからぬ」とまで口にした。
その率直さに思わず苦笑いが漏れ出そうになるのを堪える。
「言葉がすぎるぞ。それに、ここへは忍び込むな」
「これはこれは。申し訳ありませんでした」
とても謝意など感じられない謝罪。忍び込んだのではなく、ただお前が気づかなかっただけだろうとでも言いたげな態度に、スッと目を細める。
「食えない奴だ」
「お褒めいただき光栄です」
暖簾に腕押し、糠に釘。嫌味を投げてもサラリと受け流してしまうクロの態度に、そっと溜め息が漏れた。
「用がないのであれば、早々に立ち去るがいい」
「あら恐ろしい。とは言え、完全に用がない訳でもないのですよ」
「早く言え」と睥睨すれば、クロは形だけは恭しく礼をして言葉を続ける。
「歴代魔王と勇者の戦いは、尽くが勇者の勝利に終わりました。理由は既にご存知ですね?」
「勇者に授けられた神の加護。その本質は、戦いにおける絶対勝利」
「えぇ、その通りです」
今なお安穏とした日々をすごしている人間は知らない真実。
勇者当人に与えられる不可思議な能力はその仮初めの姿であり、本質は絶対勝利とでも言うべきものだ。敵対者がどれほど勇者を凌駕する力を有していようとも、一度戦いになってしまったのならば、勇者に勝てる道理は失せる。世の道理尽くを捻じ曲げて、勇者が戦いに勝利したという結末を確実にもたらす最強の加護。
魔王が勇者に勝てなかったのも無理はない。勇者に並び立つ存在として魔王が担ぎ上げられようとも、所詮魔王は只の魔族にすぎない。世の道理をも支配する加護を得た勇者に、勝利できるはずがなかった。
「数多の敗戦と“彼女”の研究を重ねることで得た事実。信じ難いほどの不条理ではありますが、これを乗り越えなくては私たちに勝ち目はない」
「何度も言われたことだ」
「えぇ。そしてその策を、私たちは三つ編み出した」
クロが三本の指を立てる。
「一つ目は、戦いになる前に決着させるというもの。勇者が戦いを認識するよりも早くに、勇者の息の根を止める」
知性ある生き物である以上、いつ如何なるときも隙を作らないというのは無理がある。食事中、歓談中、睡眠中。そうした隙を狙って一瞬で致命傷を与えれば、加護を発動させる間もなく仕留めることが可能ではある。
「二つ目は、勇者に死という代償を払わせて勝利させるというもの。勇者は戦いに勝利するものの、その激闘ゆえに命を落とす」
これは過去何度かの戦いで実際に起こった現象だ。あまりに勇者を凌駕する力を備えた魔王の場合、勇者の加護も多少の無理をしなければ勝利を得られないと判断するのだろう。激闘の末に魔王は敗北し死滅するものの、その後を追うようにして勇者も息絶える。
この二つの策は比較的分かりやすい策ではあるが、確実性の面で問題がある。不意討ちは決まった際のリターンが大きいものの、仕損じた際のリスクも大きい。勇者一行に気づかれることなく暗殺できる人材が欠けているのも問題だ。真っ向勝負で勇者を圧倒するには、勇者に与えられた加護の強さが未知数。初代勇者の武具を収集したという当代勇者を確実に圧倒できる戦士は、今の魔王軍には欠けていた。
ゆえに、魔王たちが選択できるのは第三の策のみ。
「そして三つ目。私たちの手で勇者を殺せないのであれば、その役目を――」
「喋りすぎだ」
作戦の核を口にしようとしたクロを制止する。
ここが魔王軍の本部であるとは言っても、どこに誰の目があるかは分からない。ふとした油断から生まれた隙が、魔王軍全体の首を絞める致命傷となることは充分に考えられるのだ。
「これは失礼しました」
「策は入念に練った。準備は必要以上に整えてある。案ずる余地などどこにもない」
己に言い聞かせるように口にした魔王の言葉に、クロはフードの奥からニンマリとした笑みを覗かせた。
「実は、私が申し上げたい本題というのはその先のことなのですよ」
「何?」
続きを促すように視線をやれば、クロは我が意を得たりとばかりに喋り始める。
「もしも、万が一、誰もが想定しない運命の悪戯によって策が不発に終わったときのことです」
「……吐かせ」
言ってから、想定していた以上に己の語気が弱まっていることに気づかされた。
準備に準備を重ねるようにして整えた必殺の舞台。その完成を目前にしてもなお、魔王の胸中に一抹の不安が残されていることは疑いようのない事実。
それを知ってか知らずか、クロは得体の知れない雰囲気をまといながら言葉を続けた。
「勇者が我々の手で仕留め切れなかったときのため、私が少々仕込みを加えています」
「何だと」
「“彼女”の手を少しばかりお借りして、特別なものを用意できましてね」
先程、魔王は“彼女“の言葉を悪魔の誘いと形容したが。
素顔を一切覗かせず、それでいて魔王に少しの損もない話を持ち掛けるクロの姿こそが、魔王の目には悪魔そのものに映った。
「――私の手で、勇者を殺してみせますよ」




