第196話
北地の夜はよく冷え込む。分厚い毛皮に覆われた獰猛な獣であろうとも、陽が沈み冷たい月影が照らす凍土を闊歩することは許されない。皆本能で死の気配を悟り、夜は寝床に大人しく籠もっているものだ。
そしてそれは、理性なき獣に限った話ではない。
「……流石に冷えるな」
村中を照らした火も落とされ、青白い月明かりに照らされた村の広場。
人の気配一つ感じられないその場所を、毛深い外套を幾つも重ね着したヤマトが歩いていた。相当に防寒着を重ねたにも関わらず寒さは耐え難いようで、頻りに腕や手を擦り合わせて体温を上げようとしている。
(ずいぶんと静かだ)
ここが大陸南部の街であれば、夜でも人の笑い声や獣の遠吠えを耳にすることができただろう。だが北地においては、動きを見せるようなものは何一つない。骨の髄にまで染み渡る寒風に雪が舞い上がり、ヤマトが漏らす呼吸音すらも吸い込まれていくような錯覚を覚える。生命体が何一つ存在しない、死の大地とでも言うべきか。
「馬鹿馬鹿しい」
即座に、自分の胸中に浮かんだ言葉を一蹴する。
常識外れの寒さと静けさを前に、いつしか感傷的な気分になっていたのかもしれない。雪に音が吸収されているだけで、そこらの家の戸を開ければ中には住民がいるはずだ。
深夜に出歩くヤマトを窘めるように、冷たい夜風が吹き抜けていく。粉雪混じりの冷たさに身を凍らせながら、ヤマトは辺りに視線を巡らせる。
「ノア。どこにいる?」
「――ここだよここ。いやぁ寒いねぇ」
ヤマトの問い掛けに応えるように、月明かりの下にノアが姿を現した。
ノアもヤマトと同様に幾つもの防寒着を重ねているが、彼の圧倒的な美貌は陰ることはない。むしろ、人気のまったくない静謐な雰囲気の中にあっては、より幻想的であるようにも見える。さしづめ凍てついた大地に現れる、氷と月の精霊か。
「ヤマト? どうかした」
「……いや、何でもない」
寒さのあまりに頭の調子が外れているのかもしれない。
不思議そうに小首を傾げたノアに応じながら、ヤマトは軽く首を振る。己を落ち着かせようと深呼吸をしかけて、そっとそれを取り止める。
(肺が凍てつくから呼吸は抑えろ、だったか)
それは夜眠る前にリリたちから教えられたことだ。
北地で生活した経験の浅いヤマトたちでは今一つ実感できないことだったが、リリたちにとってそれは常識であるらしい。何気なく深呼吸をしかけて、驚いた顔で制止されたものだ。彼女らの言葉が真実であるかの判断はできないが、好んで危険を冒す必要もないだろう。
代わりに白くならない溜め息を漏らしてから、ヤマトはノアに視線を投げた。
「それで? 何の用だ」
「ちょっと話がしたいと思ってさ。ここのこととか、これからのこととか」
魔族の集落に、これから目指す氷の塔。
何が待ち受けているかは分からないが、この地はただでさえ油断ならない北地だ。奇跡的に今は心穏やかな夜をすごすことができているが、それも今夜が最後かもしれない。そう思えば、今は心を落ち着けて話をする最後の機会とも言えよう。
(何やら浮かない表情をしていることだからな)
ヤマトがちらりと視線を送ったのは、ノアの横顔だ。彼は表向き普段通りの朗らかさを表しているものの、その奥には決して拭えない陰りが根ざしているように見える。
そんなヤマトの視線に気がついたのか、ノアは観念したように溜め息を吐く。最初は渋々と、それでも突っかえることなく言葉を紡ぎ始めた。
「ヤマトはさ。ここの人――というより魔族たちを見て、どう思った?」
「ふむ」
この集落に訪れて出会った魔族は、リリとラーナ、そして村長の三人のみ。それ以外の村人は見かけることこそあれども、ろくな会話もしなかった。
今日一日の出会いを改めて思い返してから、口を開く。
「俺たちと然程変わらない者ばかりだ。皆が子を愛おしく思い、子は天真爛漫に振る舞う。長は民を守るために苦悩し、民もそんな長に応えようと努めている。この過酷な大地に己のみで暮らすことはできないから、互いの力を貸し合って日々懸命に生き延びている」
「そうだね。身体の色とか角が生えていることとか、勿論僕たちと違うところはあるけれど。それでも、その生き方は僕たちと大差ないように見えた」
考えてみれば当たり前のことだ。知能としてどちらかが明確に劣っている訳でもないのだから、環境が似てしまえば、その暮らし振りも同じになる。誰しも生き延びることに必死で、それゆえに最善の手を尽くしてきた。
「太陽教会の教えじゃ、魔族は悪魔の眷属で人を殺すことに快感を覚えるって話だったけど。今日僕の目で見た魔族は、本当に僕たちと変わらなかった。見たことのない僕たちを怖がって、それでも誰かを守るために気負って」
「………」
「ねぇヤマト。僕たちがやろうとしていることって、いったい何なんだろうね」
「………」
「僕たちと同じように生きている魔族を根絶やしにするために、その王様を殺す力をヒカルに蓄えさせている。いざ戦いが始まったら、教会の教えで目を塞いで、ひたすら魔族を殺していくんだ」
それは極端な話ではない。近い将来に魔王が姿を現したならば、その戦いは絶対に避けられないだろう。避けないことを受け入れたがために、ヒカルたちは初代勇者の武具を集めてきた。
「本当によかったのかな。顔も性格も知らない誰かを殺すことに疑いを持たないで。馬鹿みたいに脳天気にはしゃいで、ただ物語のハッピーエンドを目指すみたいに魔王征伐を目指す。そんなことをして、僕たちは本当に胸を張れるのかな」
難しい話だ。
これが空想上の物語であれば、魔王は絶対の悪で倒すべき相手だったことだろう。さっさと殺してしまうことこそが正義であり、その眷属である魔族にも同情の余地はない。何とも幼稚で、それゆえに思い惑う必要のない単純な世界観。ヒカルたちは立ちはだかる困難を乗り越えながらも、脳天気に魔王征伐の道を歩んでいればよかった。
だが、ここは現実だ。ヒカルたちにとって都合のいい物語にはなり得ない。絶対の悪と言うべきものは存在せず、魔王征伐とはすなわち魔王と魔族の未来を断つことに等しい。全員が手放しで喝采できるハッピーエンドなど存在せず、誰かが笑う陰で誰かが涙を流すのが必然の理。生きるとは誰かを殺すことに等しく、何も犠牲にしないなどという絵空事は現実に通用しない。
なんと残酷な世の中なのか。こんな世の条理を覆したいのであれば、それこそ神にも等しい力がなくてはならない。神になれたとして、それは果たして叶うことなのか。
(とは言え、だ)
ノアの語る話は分からないでもない。ヤマトが刀を握り、そして人を斬る術を学び始めた頃からずっと向き合い続けている難問だ。それゆえに、容易に答えを導き出すことなどできない。
――それでも。
「よくできた演技だが、そろそろ止めたらどうだ?」
ヤマトの言葉に、ノアが表情を崩す。真剣に難題に思い悩むような表情が崩れ、代わりに表出してくるのはニヤッとした悪戯っぽい笑み。
「分かる?」
「無論。何年共に旅をしたと思っている」
「それもそっか」
先程までのしんみりとした空気はどこへやら、ノアは肩をぐるぐると回しながら口を開く。その雰囲気がいつも通りの腕白小僧のようなものに戻っていることに、密かに安堵の息を漏らした。
「いやぁ肩が凝った。慣れない真面目演技はするものじゃないね」
「何故そんなことを?」
「近い内に、そういうことに悩みそうな人がいたから」
ノアが言っているのはヒカルのことだろう。
彼女はこの北地への旅を通じて、魔族が言葉を交わせる理性ある生き物であることを知ってしまった。今はまだ明確に意識はしていないはずだが、間違いなく魔王に向けられるべき刃は鈍っただろう。それでも問題ないほどの力を得られたとしても、魔王征伐の後にヒカルに刻まれる傷は深く重い。これまで描いていたような、諸悪の根源たる魔王を殺して終わりという結末はもう望めない。血反吐を吐くほどの苦難を乗り越えて、その答えを自身の手で導くしかないのだ。
とは言え、ヤマト自身はそう案じている訳でもない。
「惑うのであれば支える、それが友の役目というものだろう。あいつがどれほど思い悩もうとも、俺は愛想を尽かしたりはしない」
「だろうね。でも、それを聞けて安心したよ」
話が終わりだと言いたげな笑みをノアは漏らすが、本題と言うべきはむしろこれからだろう。
先を促すように無言で視線を投げれば、ノアはヘニャッと緩めていた目つきを鋭くさせる。
「ヤマトも分かっていると思うけど。ここは明らかに普通の場所じゃないよね」
「そうだな」
「人の目から逃れるように共同生活を送る魔族たち。当然この村だけじゃなくて、他にも似た村はあるはず。だったら、それを支配する奴もいるはず」
すなわち、魔王。
どこからともなく現れるとのみ語られるのも無理ない話だろう。人が立ち入ることができない北地の王者ともなれば。情報が伝わってこないのも当然の話だ。
「ヒカルは遠足気分かもしれないけど、明日からはますます気を引き締めなくちゃいけない。いつどこで魔王軍に出くわして、そのまま総力戦に持ち込まれても不思議じゃないからね」
「誰かが犠牲になる可能性すらある、と言いたい訳か」
ヤマトの言葉にノアは頷く。
「それは僕かもしれないし、ヤマトかもしれない。リーシャかレレイかもしれない。できれば被害は避けたいところだけど、もう絶対無事とはとても言えないからね」
「それでも、勇者たるヒカルだけは確実に無事であらなければならない」
要は単純な話だ。
勇者ヒカルの身の安全こそが何よりも重いことを念頭に置いて、そのために他の何物をも犠牲にする覚悟を固めなくてはならない。全員が無事でいるという物語を描いていいのは勇者ヒカルのみに許され、その伴にすぎないヤマトたちは現実を見なければならない。
「だからヤマト。いざというときは躊躇わないでよ。僕も躊躇うつもりはないから」
「承知した」
誰かを斬り捨てる覚悟ということだ。
昨日まで親しくすごしてきた仲間たち。その誰もがヤマトにとって掛け替えのない大事な存在だが、それでも勇者ヒカルの命を前に霞まないではいられない。本当にどうしようもないのであれば、無慈悲に斬り捨てる決断も必要だ。
(吐き気がするな)
だが、これが勇者の従者になるということだ。
ヤマトが斬り捨てる決断をしなければならないのは、何も他人に限った話ではない。己すらも、その対象であるべきだ。