第191話
ヘルガを始めとする魔王軍騎士団長の面々が退室した後。
玉座の間に一人残された魔王は、疲れを滲ませた溜め息を漏らしながら玉座に腰掛けた。
(勇者を殺すか)
凝り固まった肩を軽く解しながら、先程の宣言を思い返す。
勇者殺し。初代から始まって当代に至るまで、全ての魔王が夢見ながらも遂に果たすことができなかった偉業だ。歴代魔王の中には今代魔王を上回る力を有した者や、戦闘力を見れば当時の勇者を凌駕できるほどの者もいたと聞くが、それでもなお勇者を討滅することに失敗したという。
勇者と魔王の戦いの歴史は、既に何千年にも及ぶ。その間ずっと敗北を刻まれ続けてきたという重圧は、どれほど強靭な精神をもってしても耐え難いほどに苦しい。配下たちの前では毅然とした態度を貫いたが、果たして本当に勇者を殺すことなどできるのか。
答えの出ない疑問に悶々とした心地を抱いた魔王の頬が、どこからともなく吹き込んだ風を感じ取る。
「おやおや魔王様、お疲れでしたか」
「……クロか」
シャングリラから降り注ぐ仄かな光から隠れるように。玉座の間の片隅に、いつの間にやらクロが佇んでいた。
闇をそのまま映したかのような黒ローブで全身を覆い隠した長身痩躯の青年。掴みどころのない飄々とした態度を貫き、お世辞にも他人から好印象を抱かれる人物とは言い難い。魔王自身もクロに対しては懐疑心を抱かずにはいられないものの、その実力の高さゆえに、ある程度は大目に見ることにしていた。
「何用だ」
脱力させていた身体に力を込め直し、クロを睥睨する。
彼も魔王の配下の一人であるが、決して気を抜いて対峙していい相手ではない。隙あらば取って食われるのではないかという不気味な恐怖が、魔王の胸中にはこびりついていた。
そんな魔王の心境を知ってか知らずか。クロは芝居がかった礼をしてから声を上げた。
「勇者一行の北地侵入を確認しました。現在、ゆっくりと北上中とのことですよ」
「そうか」
「遂に来たか」と声には出さずに胸の中で零す。
ここが正念場だ。魔王が勇者を倒せればそれでよし。魔王軍の快進撃を阻める者はなくなり、瞬く間にこの大陸を手中に収めることが可能となるだろう。反対に、魔王が勇者に敗れたときは――
(考えるべきではないな)
首を軽く横に振り、浮かびかけた不吉な未来予想を払い落とす。
勇者との決戦を目前にして気が弱くなっているのか。いつもよりも後ろ向きな考えばかりが浮かんでくるが、それに引きずられているようでは将に相応しくない。ましては、その将をも統べる王になど。
ふと気を抜けば泣き言を漏らしそうになる心に鞭打ち、唇を噛み締める。
「ご苦労。作戦予定地までは後どれほどかかりそうだ」
「はてさて。早ければ明日にも到着しますが、この吹雪ですからね。もしかしたら一月程度はかかるかもしれません」
「ふむ」
餌を用意し、処刑場の準備も整えている。問題は、そこへ至る道中にあるということか。
作戦会議の段階でもたびたび指摘されていた問題点であったが、遂にその解決策を得るには至らなかった。下手に誘おうとして処刑場を荒らすようでは逆効果。ここは辛抱強く、勇者が餌に気づくことを待ち続けるしかない。
そう考えて口を開いた魔王の言葉を遮るように、クロは手を前に上げる。
「そこで。僭越ながら、私から最後の詰めを提案させていただきたく」
「詰めだと?」
「えぇ。勇者を誘い込むため、“彼女”にご助力願うのは如何でしょう」
「むぅ」
“彼女”。
クロはその名をぼかしたが、魔王はその正体を誤らずに把握した。そして、クロの言葉に頷ける部分があることを認める。
「勇者が餌に気づかず帰ってしまうのは、色々と手間ですからね。万全を期すという意味でも、“彼女”の力は必要ではないかと」
「……それは認めよう。だが、“奴”の力を借りるのは楽ではないぞ」
“彼女”は形式上でこそ魔王軍の傘下にいるものの、その実態は支配からは程遠い。配下という立場をいいことに魔王軍の資金を喰い潰し、魔王の指示にも従わず好き勝手に動き回る。およそ害虫に等しい存在であるが、それでもなお魔王軍の一員として認められているのは、“彼女”がもたらす恩恵があまりにも大きいことに起因している。
魔王軍の頂点に君臨するのは、魔王ではなく“彼女”である。そんな戯言を一笑に付すことが難しいほどに、“彼女”は異質な存在だった。
内心で密かに抱いていた苦手意識が漏れ出たのか、魔王の言葉が苦々しいものになる。それに同情するように笑い声を立てながら、クロは頷く。
「ご心配には及びません。魔王様が手を下さずとも、私から“彼女”へ話を通すとしましょう」
「何?」
「無論、勝手な契約も結びません。どうやら“彼女”も、勇者には興味を惹かれている様子でしてね」
クロの言葉に耳を疑う。
特に何の対価も支払わずに“彼女”の力を借りる。それはあまりにも甘すぎる言葉であり、無条件に聞き入れるには理性が邪魔となるものであった。
思わず疑いの視線をクロに向けた魔王の耳に、どこからか響いた機械音声が入り込む。
『――そいつの言っていることは嘘じゃないぜ?』
「ぬ……」
男女や老若の判別もできない声が紡ぐ言葉に、魔王は眉をひそめる。
「何が目的だ」
『おいおい。配下が王様を助けることに理由が必要なのかよ?』
半笑いの声が、問い返した魔王を揶揄するように響く。
反射的に額に青筋を立てそうになったところを、必死に深呼吸して心を鎮める。
「……何が目的だ」
『そう怒んなって。そいつが言っただろ? 勇者とかいう奴らに興味が湧いたんだよ』
「興味だと?」
『おうよ。色々と規格外な野郎らしいから、せっかくだし解剖してやろうと思ってな』
解剖。
せっかくだから会いに行こう程度の軽い調子で吐かれたその言葉に、魔王は顔を顰める。“彼女”には当たり前の倫理観や常識は通用せず、ただ己の好奇心が赴くままに動く。既に何度も痛感したその事実に、頭の片隅がズキッと痛みを訴えた。
『勇者殺しはそっちでやるんだろ? それは譲ってやる。加えて、そこまでの釣りも俺がやってやるさ』
「代わりに、死体を寄越せと」
『そういうことだ』
魔王の道徳観念がその言葉に嫌悪感を示したが、必死に飲み込む。この胸中から湧き起こる不快感さえ無視できるならば、“彼女”の提案は確かに魅力的なものであった。魔王軍として重要なのは、今代勇者を殺すことだけ。その死体がどのように扱われようと、魔王たちの知ったことではない。
感情を切り離した打算的な考えでそう結論づけて、魔王は小さく頷く。
「分かった。勇者の骸は譲ってやる」
『いぇい! 話の分かる王様は好きだぜ?』
「戯言を」
『んじゃあそういうことで。楽しみに待ってろよ?』
ひとまず、勇者殺しにおける最大の不安点だった部分を解消できたことになる。
そのことを喜べと告げる理性の言葉をどこか遠くに聞きながら、魔王は玉座に深く身を沈め込ませた。
「いやはや。相変わらず破天荒な方ですねぇ」
「……そうだな」
疲れた様子を見せる魔王に同情するように、クロは肩をすくめる。
彼の言葉に小さく頷いてみせてから、魔王は再び身体に力を込め直した。“彼女”には、配下を越えて独立した盟主を相手にするような心持ちで相対しなければならなかったが、クロも隙を見せていい相手ではない。
思わずヘクトルたち忠臣らの顔を思い浮かべた魔王に向けて、クロは口を開いた。
「それにしても、“彼女”は勇者の死骸を手に入れて何がしたいのでしょうね」
「さてな」
勇者に与えられるという神々の加護を研究したいのか、異界の者の身体構造を解き明かしたいのか。いずれにしても、詮索しても心地よいものではない。
一時しのぎのように“彼女”の存在を意識の遥か外へ追いやろうとした魔王の耳に、クロの言葉が滑り込む。
「まさか、死者蘇生なんてことはしないですよね」
「……まさか」
「まさか」とは言いつつ。
心の奥のどこかで、“彼女”ならばそれをやりかねないと怪しんでいることを自覚して、魔王は再び眉間にシワを寄せた。