第187話
人の生活水準を大幅に引き上げた、帝国製の魔導技術。それらは数多の不可能を可能とし、人の立ち入ることすら困難であった秘境の開発をも進めた。大陸各地に人の手が入れられ、もはや人の預かり知らぬ大地などは数えるほどしか残されていない。
その内の一つが大陸北部だ。人が越えるにはあまりに過酷すぎるエスト高原を、更に北へ抜けた先。極僅かな冒険者が到達したという逸話が残るものの、未だその正確な記録が伝えられてはいない大地は、半ば架空の地であるがゆえに「北地」とだけ呼称されていた。
「―――」
エスト高原と北地とを隔てる山脈の峠。
そこに腰を落ち着けたヒカルたち一行は、これまで見てきた大陸の姿とはあまりに乖離した北地の有り様を前に、声も出せないで呆気に取られていた。
(ここが死の大地か)
一面に広がる銀世界を眼下に収めながら、ヤマトは遊牧民から伝え聞いた言葉を思い出す。
エスト高原に住む遊牧民らにとって、北地とはすぐ隣に位置する大地だ。遥か彼方にあるらしい過酷な場所程度にしか思えない大陸人の大半とは異なって、実際に見聞することのできる大地となっている。ゆえに、彼らの間には北地が如何なる場所なのか、噂にも似た話が残されている。
「誰もいないように見えるけど、小さな集落はあるんだっけ」
「獣狩りの集落だったな」
獣狩り。遊牧民の話では、北地に住む人々はそう呼ばれていた。
およそ同じ人とは思えないほど大柄で強靭な体躯を駆使して、彼らは北地の獣を狩って暮らしているという。帝国文化に侵されていなかったエスト高原が文明的に見えるほど、彼らの暮らしぶりは野性的であり、蛮族そのものであるらしい。
(蛮族か)
正直、ヤマトの目からはエスト高原の民もそう大差ない連中に見えるのだが。
何はともあれ、用心するに越したことはないだろう。まともな会話が成り立つのかというところから疑い、慎重に行動する必要がある。
「――さて」
眼下に広がる銀世界を一望していたヤマトたちの空気を断ち切るように、ヒカルが咳払いをした。
そちらの方へ各々が視線を向けたことを確かめてから、ヒカルは兜の中からくぐもった声を上げる。
「改めてになるけど、もう一度今回の目的を確認しよう」
「ふむ。それがいいか」
いささか唐突ではあるが、ヤマトもヒカルの言葉に首肯する。
遠目で一望した限りではあるが、北地は秘境という名に恥じないほどには険しい大地に見える。一歩足を踏み入れたならば、目的を果たして北地を出るそのときまでは、腰を落ち着けられる時間もないかもしれない。その意味で、北地を目前に控えたこの場所で話を交わすことは、決して無意味ではないだろう。
ヤマト以外にもノアやレレイたちが頷く。それを受けて、ヒカルは言葉を続けた。
「今回、私たちが北地に訪れた目的は一つ。この地に眠ると伝えられた初代勇者の遺物――聖なる靴を手に入れること」
話している内に、彼女の意識も勇者用のそれへと切り替わったらしい。言葉遣いから甘さが抜けて、見慣れた凛々しい姿へと変貌する。
「聖なる靴か」
「うん。履けば身体が羽のように軽くなり、空をも駆けることができる……らしい」
「それは凄まじいな」
「事実ならば」という頭文字はつくが、実際のところヤマトはそう疑っている訳でもない。
これまでヒカルたちが回収してきた勇者の遺物は、そのどれもが常識外れの力を有しているのだ。魔力を喰らって浄化の光を放つ聖剣、何物をも通さない絶対防御の聖鎧、使い手に無双の怪力を付与する篭手。それらを踏まえて聞いてみれば、確かに聖靴の並外れた力も受け止めることはできる。
北地に眠る聖靴を回収できれば、ヒカルは四つの武具を手に入れたことになる。今ですら既に勇者として過剰なほどの力を有しているヒカルが、更なる力を得るのだ。
(個人にして、大軍に匹敵する力を得るか)
初代勇者の武勇伝によれば、彼一人の登場によって劣勢に陥っていた人類全体が魔族を追い返したらしい。
伝説らしい脚色された話だと大多数の人間が受け止めているが、今のヒカルの力量から察するに、それもあながち誇張ではないのかもしれない。
「目的が分かったところで、次は方法の話かな。手がかりはあるんだよね?」
ヒカルの話をひとしきり聞いたところで、ノアが口を開く。
それに色よい返事が返ってくることを期待していたヤマトとノアだったが、それとは対照的にリーシャの表情が陰った。
「………えっと……?」
「言った通り、北地はまだ立ち入った人がほとんどいない場所だから。聖靴があるっていうのも噂話程度のものらしくて、勿論可能性は高めなんだけど――」
「端的に言えば、手がかりはない」
その言葉に、ヤマトとノアは思わず目を見合わせる。
「大丈夫なのそれ」
「さて。大丈夫だと信じたいところではあるな」
にわかに雲行きが怪しくなってきた。
何事もなく勇者の遺物を回収できるならば、それに越したことはないのだが。
「本当にあるのだろうな」
「……恐らく」
ここまでの道中は前哨戦にすぎないとは言っても、それなり以上に苦難の伴う道のりであったのだ。それが無駄足になるのは、何としても避けたいところだ。
幸い、ここは人がろくに足を踏み入れたことのない秘境だ。その情報を大陸中央部に持ち帰ることができれば、多大な報酬を得ることができるだろう。その意味で、完全に無駄になるということは既にないのだが。
祈るような心地にさせられながら、ヤマトは口を開いた。
「ならば、まずはどうする」
「情報収集しかないだろう」
ヒカルの言葉を聞いて、ちらりと眼下の北地に視線を投げる。
果てしなく続く銀世界。大地は氷に閉ざされて、人が生活を営めそうな場所は見当たらない。そも、ここは本当に人が住めるような場所なのかという疑いが、ヤマトの頭に再び浮かびそうになる。
辟易とする心地を深呼吸と共に腹の底へ沈めて、ヒカルに向き直る。
「獣狩りの民を探すのだな。だが、闇雲に歩き回ったところで見つかるとは限らんぞ」
「それは、そうだろうな」
せめて、ここから集落を視認できたならば話は変わるのだろうが。
そんなことを頭に思い浮かべたヤマトとヒカルの耳に、これまで無言を通していたレレイの声が滑り込んだ。
「見えたぞ」
「む?」
「獣狩りの民かは分からぬが。人影は見えたぞ」
思わずレレイの顔を見つめると、レレイは何事もないような表情のまま、銀世界の一点を指差す。
「……どこだ?」
「あそこだ。獣と争っているようだな」
ヤマトもレレイが指差す方へ目を向けてみるものの、何かを捉えることはできない。せいぜい、舞い上がる雪粉が幕のように辺りの大地を覆っている景色が見える程度だ。
頻りに首を傾げるヤマトとヒカル、そしてリーシャを尻目にして、双眼鏡を手にしたノアは声を上げた。
「あぁ、確かに。よく見えたね」
「そうか? 普通に目を凝らしただけだが」
称賛するようなノアの言葉に、レレイは小首を傾げている。
ザザの島という秘境の一つで生まれ育っただけあって、レレイの身体能力は並外れて優れている。経験の不足は認められても、そこに秘めた素質を見るながらこの中でも随一であろう。そんなレレイではあるが、ノアが双眼鏡でやっと視認できるだけのものを、何も通さない肉眼で認められたというのは少々考えづらい。少なくとも、ヤマトたちが知るレレイではできないことだったはずだ。
成長という一言で片づけてしまうには、少々異様すぎる変化。まるで、新たな加護を得たかのような変わりよう――
(加護、か)
その言葉は、妙にすんなりとヤマトの腹に落ち着いた。
エスト高原で起こったガーディアン騒動。緑の竜が人化した姿たるミドリと交友を深めていた彼女ならば、加護の一つを授かっていても不思議ではない。
それはともかく。
「方向は確かなのだな」
「うん。これでも確かめられたから、間違いないよ」
ノアが双眼鏡を指で弾きながら応える。帝国製のそれであれば、遠く離れた砂粒であろうともはっきりと視認することができる。
ひとまず、これにて手がかりらしいものを得ることができたと言えよう。
「なら、そちらの方へ行くとしようか。案内は頼む」
「任せて――とは言っても、方向くらいしか言えないけど」
苦笑いするノアに釣られて、ヤマトたちもそれぞれ相好を崩した。