第185話
天井から下げられたシャングリラから、仄かな光が漏れ出ていた。
質実剛健を体現するかの如く、飾り気の一つもない大広間。その最奥に設けられた玉座に腰掛けた男が、ゆっくりとその瞳を開いた。
「いよいよか」
年頃は人に当てはめれば二十代前半程度か。この世の闇全てを飲み込んだかのような黒髪に、それと対照的に白亜のように透き通った純白の肌。そして、側頭部から雄々しく突き出る二本の角。長身痩躯の体躯ながらも弱々しさは微塵も感じられず、鋭い眼光は竜さえも畏怖させようかというほどの威圧感を秘めていた。
誰もいない玉座の間でただ一人、男は自分の手の平に視線を落とす。
「このときをどれほど待ち侘びたことか。……だが、思えば刹那のようでもあるな」
その言葉と共に、疲れ果てたような溜め息を僅かに漏らし。
次の瞬間には、その身体に偉大なる覇気をまとって立ち上がる。
「時間だ」
「――第二騎士団団長ヘクトル、只今馳せ参じました。魔王様」
男――魔王以外には誰もいなかったはずの部屋に小さく響く、人の声。
魔王がそれに視線を落とせば、下座にて跪く重騎士の姿があった。
小さく見えるように跪いていながらも分かる巨躯。立てば身の丈二メートルは優に越えようかという身体には、鋼のような筋肉が備わっている。その肌は魔王と同じように純白であり、額から一本の長大な角が伸びていた。見るからに戦士然としたその身体つきとは裏腹に、眼には理性的な光が宿っており、魔王への本気の敬意を感じさせた。
鉄塊が人の形を取ったかのような重戦士――ヘクトルを見下ろして、魔王はふっと小さな笑みを零した。
「やはり、そなたが一番であったか」
「御身をお待たせする訳には参りませんので」
どことなく親しげな響きを覗かせる魔王の言葉に対して、頑固一徹を体現するかの如く硬い言葉を崩さないヘクトル。
その後頭部を見下ろしながら、魔王はなおも面白げな笑みを浮かべる。
「相変わらずの堅物だな」
「それが、某の性分ゆえに」
「くくっ、面白い男だ」
魔王の笑い声を前にして、ヘクトルは更に頭を深々と下げる。
束の間だけ穏健な空気が流れた玉座の間に、新しい風が吹き込んだ。
「あら? ずいぶんと楽しそうですわね」
「………?」
魔王が視線を投げた先にいたのは、二人の女性。
片や絶世の美女という褒め言葉すら生温く思えるほどの美貌の持ち主であり、片やこの場にいることが不釣り合いなほど幼い少女。美女はどこか挑発的な笑みを浮かべているのに対して、少女は陰気な雰囲気を辺りに振り撒きながらオドオドと落ち着きなく辺りを見渡していた。
共に対照的な雰囲気をまといながらも、その肌が魔王たちと同様に白く、また頭に小さく滑らかな角が生えている点は共通していた。
「そなたら、遅いぞ」
「あらあら。レディの支度は長くかかるものよ? むしろ、こんな早く来たことを褒めてほしいくらいね」
「ご、ご、ごめんなさい……」
咎めるようなヘクトルの言葉と視線に対して、妖艶な女性は飄々と受け流し、陰鬱な少女は身体を震わせながら頭を下げる。
三者の姿を面白そうに眺めてから、魔王はゆっくりと口を開く。
「よいヘクトル。ミレディ、ナハト、よく来てくれた」
「こんばんは魔王様。いつも通り凛々しいお姿に、私も胸がときめきますわ」
「……こんばんは」
美女ミレディと少女ナハトの言葉に、魔王は鷹揚に頷く。
第二騎士団団長たるヘクトル。第三騎士団団長のミレディに、第四騎士団団長のナハト。この場に集まったのは今代魔王軍の中核を担うと言って過言ではない面々であり、文字通りの意味で大陸を揺るがせるほどの力の持ち主だ。
それぞれの挨拶を終えたところで、辺りをグルリと見渡したヘクトルが不満気な声を漏らす。
「ヘルガめは、今宵も来ていないようですな」
「言うなヘクトル」
「ですが、今宵の会合は――」
「我は既にいるぞ」
口角に泡を飛ばしながら言葉を続けようとしていたヘクトルを遮って、低い男の声が玉座の間に響いた。
魔王とヘクトルが思わずギョッとして視線を投げた先にいるのは、漆黒の鎧兜で全身を覆い隠した騎士だ。体格は魔王に近しい長身痩躯であるが、肌の色や角の形は鎧兜に隠されて分からない。腰元には只ならぬ妖気を溢れさせる剣が下げられており、彼が現れただけで、数段部屋の空気が重くなったような錯覚すら覚える。
咄嗟に言葉を続けられなかったヘクトルに代わって、魔王が口を開く。
「よく来たなヘルガ。だが、次からはもう少し目立つように入ったらどうだ」
「……考慮はしよう」
第一騎士団団長のヘルガ。その大層な肩書きに相応しく――否、それを超過するほどの実力を有したヘルガのみは、魔王に対する不遜な態度が許されていた。今の魔王の諫言に対しても、「気づかない方が悪い」とでも言いたげな雰囲気だ。
ヘクトルは物言いたげな様子であったが、魔王は無言のまま手で制止する。
「まぁよい。再編中の第五騎士団を除いて、これにて魔王軍の幹部全員が揃ったな」
「ふふっ、壮観ですわね」
はしゃぐようなミレディの言葉に、魔王も静かに頷く。
第一騎士団団長ヘルガ。その実力は魔王軍最強――魔王をも凌ぐほどの力の持ち主であり、大陸最強に最も近しい存在と言える。何の事情ゆえかは知らないが騎士団長に留まっている彼は、ともすれば第二の魔王と言うに相応しいだけのカリスマを有していた。
第二騎士団団長ヘクトル。魔王の右腕と呼ぶに相応しい男であり、その力はやはり絶大。個人としての武勇のみならず、指揮官としての戦略眼にも長けており、今回の魔王軍が行う作戦における要となる存在だ。
第三騎士団団長ミレディ。只ならぬ美貌とは裏腹にその力はひどく血生臭いものであり、ともすればヘクトルをも凌ぐだけの実力を有している。奸計に長けた彼女の力も、魔王軍を支える大きな要因となっている。
第四騎士団団長ナハト。騎士団長らしからぬ幼さが目立つ少女だが、その力は万を越す大軍に匹敵する。行く行くは魔王自らをも凌駕する素質を秘めた少女は、その未熟さがあってもなお騎士団長に相応しいと認められていた。
以上の四名が、今の魔王軍の中核を成す者たち。魔王にとってもときに胸を騒がせることがあれども、頼れる仲間たちであった。
「それでは魔王様。そろそろ、今回の本題をお願いしますわ」
「……そうだな」
本題。
そう告げたミレディの言葉に、緩みかけていた魔王の意識が再び緊張を帯びた。
深呼吸一つ。閉ざした目蓋を再び開けた瞬間に、魔王の身体から弾き飛ばされるほどの覇気が溢れ出す。為政者らしい鋭い眼光に、騎士団長それぞれが自然と背筋を正す。
「――皆、今宵はよく集まってくれた」
その言葉は、薄暗闇の中に染み込むように響き渡った。
ヘルガは相も変わらぬ静かな佇まいを保ち、ヘクトルは感極まったように鼻を鳴らす。ミレディはその美貌に似合わない激情の炎を瞳に宿し、ナハトも幼いなりに眩い決意の光を瞳に映す。
それぞれの反応を見やり、魔王は言葉を続ける。
「先代魔王が倒れてからしばらく。我々は長らく苦難の中にいた。昨日の失態を悔い、今日の困難に苦しみ、明日の絶望から目を閉ざす。何日経とうと光が見えず、終わることのない地獄の中に捕らわれたような毎日。――だが、それも間もなく終わる」
いつしか、魔王から立ち昇る覇気は烈火の如く燃え上がり、部屋中をギラギラと照らし出す。
四人の騎士団長からの視線を自覚しながら、魔王は叫ぶ。
「決戦の幕開けは近い! まずは我らの総力をもって、この地にやって来た勇者を血祭りに上げる! その屍をもって、我らの宣戦布告とするぞ!!」
魔王の言葉に、騎士団長たちの身体からも闘志が溢れ出す。いずれも猛者という言葉すら生温いほどの強者。彼らを相手にする敵手――人類にこそ、同情の念を禁じ得ない。
「全ては我らの未来のために! そなたらの力を、我に貸してくれ!!」
「「「「ハッ!!」」」」
ここに、魔王軍は一丸となった。
苦汁を舐めること数十年。未だ安寧のときをすごす人類に向けて、密かに牙を剥く。その刃は辛酸の中で鋭く研ぎ澄まされ、抜き放たれるときを今か今かと待ち受けている。
開戦のときは、もうすぐそこに迫っていた。