第184話
「大人しくしてろよ!」
「………」
乱暴に背中を突かれ、ジークは薄暗い湿った牢獄へ叩き込まれた。思わず顔を顰めて、溜め息を漏らす。
そんな些細な暴力がお気に召したのか。看守は満足気に小さく鼻を鳴らした後、足音荒くその場から立ち去っていく。
(惨めなものだ)
看守の背中を見送りながら、そんなことをふと思い浮かべる。その矛先は、小者らしい看守に向けられているのか、抵抗もできずに牢獄へ入れられた自分に向けられているのか。それはジーク自身にも判断のつかないところであったが、とかく陰鬱な溜め息を漏らしたい気分であった。
陽の光が差し込まない地下牢には、冷たさと湿り気を帯びた空気が淀んで溜まっていた。他の囚人が死んでもなお風を入れ替えないからか、辺りにひどい死臭が立ち込めているようにすら感じられる。活力を失った囚人の僅かな息遣いと、どこからか染み出した水の滴る音。そればかりが規則的に聞こえてくるその空間には、一日二日程度であればまだしも、数ヶ月数年も捕らえられていたならば、誰もが正気を失ってしまうような狂気が滲み出しているようだった。
(ただ、今の僕にはちょうどいいかも知れないね)
手足に嵌められた枷は魔力の動きを阻害し、拷問で散々に痛めつけられた身体は満足に動かすこともできない。できるとすれば、鬱々とするほど暗い雰囲気の中で静かに思考を巡らすこと程度。
だが、それこそがジークが最も欲していた時間だ。
濡れた床を這うようにして身体を壁に預け、そっと息を吐く。ジンジンと焼けるような痛みを訴える身体から意識を逸らしたジークの思考は、先日の戦いの情景を思い起こす。
(ずいぶん立派になったね。リーシャ)
ここから遠く東の海を越えた先にある極東。その首都カグラ付近で数年ぶりに相対した妹リーシャの姿。
実際に顔を合わせていなかった時間はそう長くなかったはずだが、思えば、ああして正面切って向かい合ったことはほとんど記憶にない。敵として目の前に立ちはだかった妹の姿は、ジークの記憶に刻まれた幼い頃の姿の面影を残しながらも、それよりも遥かに立派に成長を遂げていた。
(いい仲間にも恵まれた。もう、僕が心配することもないか)
むしろ、今となってはジークの方こそが心配される立場であるのだが。
そのまま笑みを零そうとして、肺を突き刺すような鋭い痛みに顔を顰める。
(いつも僕の後を追ってばかりだと思っていたけど。いつの間にか、すっかり追い越されていたみたいだね)
孤児院で物心ついたときには、兄としての使命感に駆られて妹のことを必死に守ろうとしていた。その頃のことを引きずっていたのか、リーシャはいつしかジークの後を追うことばかりを考えるようになり、ジークもリーシャを己の劣化としてしか見ていなかったような気がする。
そんなリーシャが、ジークを前にして己の決意を示してみせた。一人の成熟した大人として、己の道を定めたことを誇示してみせたのだ。
そのことはジークにとっては喜ばしく、誇らしく、そして少々妬ましくあった。
(僕も、いい加減腹をくくらないとね)
名残惜しくはあるが、決めねばなるまい。
ジークの目の前に立ちはだかったリーシャは立派に育ちながらも、まだ完成されたとは言い難い。本音を言えば、これからは彼女の行く先をこの手で守ってやりたいところだが。
「僕も、僕の道を進むとしよう」
「あら。もう考え事はいいのですか?」
誰もいないはずの地下牢に響く、飄々とした男の声。壁際に立てかけられた松明の明かりが僅かに照らす場所に、いつの間にか黒衣の男――クロが現れていた。
ここは太陽教会の聖騎士団が支配する牢獄。当然鼠一匹も逃げ出せないほど堅牢に築かれた場所のはずだが、この男はどのように入り込んだのだろう。ジークにも見当はつかないが、このクロという男ならば、そのくらいは造作もないだろうと容易に想像できてしまうところが恐ろしい。
クロの登場に驚きの声を漏らすこともなく、ジークは小さく頷く。
「休憩は終わりだ。これ以上さぼっていたら、もう戻れなくなりそうだしね」
「そうですか。まぁ、あなたがそう言うのならいいですが」
ゆらゆらと力ない足取りで、ジークが捕らえられた牢にクロは近づく。
「ずいぶん派手に痛めつけられましたね?」
「恨みがあったのだろうね」
白磁器のような美しいジークの身体に、無数に刻まれた傷跡。それら全てが拷問官によってつけられたものだ。筆頭聖騎士の座をいただき、若手一番の出世頭であったジークに恨み辛みを抱いていた者は少なくない。そんな私情が、ほんの僅かに漏れてしまったというところか。
そんなことを思い浮かべて肩をすくめたジークに、クロは苦笑いを漏らす。
「それはそれは。ご愁傷様でした」
言いながら、クロは牢の錠前に手をかける。
「……本当にいいんですね?」
「何が」
「ここを開けちゃって」
牢の戸を開けるとはすなわち、今度こそ太陽教会や大陸と――妹のリーシャとも、決定的に決別するということ。
今ならば、まだ引き返せる。牢の中で大人しく罪を償えば、かつて浴びていたような陽の光の下を自由に出歩けるようになるだろう。どれほど後のことになるかは分からないが、また家族と笑い会える日々に戻れるかもしれない。
「言うなれば、ここまでは前哨戦。ようやく魔王も覚醒し、私たちの戦いも幕を開けます。ここから先は――」
「くどいぞ」
クロの言葉を遮って、ジークはゆっくりと立ち上がる。
痛みに悲鳴を上げる身体に鞭打って、素顔の覗けないクロを正面から睨めつける。
「今更退きはしない。言ったはずだぞ、僕は僕の道を進むと」
「……そうですか」
やれやれと言うように肩をすくめてから、クロは錠前を手の平で包む。
時間にして一秒も経っていないほどの早業。手の中に展開させた魔導術を発動させ、錠前が音もなく砕け散る。留め具を失った扉はギィッと耳障りな音を響かせながら、ゆっくりと開いていく。
「さて。ならさっさと出るとしましょうか。こんなジメジメしたところにいると、気が滅入ってくるもので」
「違いない」
軽口を叩きながら、クロはジークの手足に嵌まっていた枷を魔導術で破壊する。いったいどこでこれほどの技を修めたのかは分からないが、間違いなく大陸随一に迫るほどの魔導術の使い手だ。
呆れるように目を細めながらも、ジークは牢獄の外へ足を踏み出す。ただ一歩外へ出ただけだというのに、ずいぶんと空気が澄んでいるような心地さえしてくる。
「脱獄おめでとうございます。改めて、これからよろしくお願いしますよ。同士ジーク」
「あぁ」
「脱出路も確保済みです。さぁ、行きましょうか」
クロについて外へ出ようとして、ジークはふと後ろを振り返る。
「………」
先程クロも言っていたことだ。ここまでの大陸動乱は言わば前哨戦――宴の前の賑やかしに等しい、児戯のようなものだ。本番と言うべきはこれから。この牢を出たら最後、その過酷な戦いの渦中に身を投じ、そして目的を果たすために命を散らす覚悟も定めなければならない。
今更、そのことに躊躇いを覚えることはない。騎士団から脱退し、クロを同士と定めたその瞬間から、このときのために覚悟は固めてきた。
ゆえに、最後に思い残すことがあるとすれば。
(達者でな、リーシャ。――生き延びろよ)
これより先は、修羅であろうとも容易く死に至る戦場。
大いなる運命の流れが数多の英傑を生み、そして殺していく。昨日の友が今日の敵となり、明日には物言わぬ屍となっている。この大陸のどこにも無事な場所などなく、いつ如何なるときであろうとも死を身近に感じなければならない。文字通りの地獄絵図が広がることだろう。
誰にも生き延びる保証などない。リーシャもジークも、ヤマトもクロも、勇者も魔王も。――そして、神であっても。
勇者と魔王の戦いの幕開けは、もうすぐそこにまで迫っていた。