第183話
エスト遺跡で起こった事件から一夜明け、高原に冷たい風が吹き抜ける早朝。
集落でその夜をすごしたヒカルたちは、骨を休めるのもそこそこに長老のテントへ足を運んでいた。何やら話があるとのことで、陽がまだ満足に昇り切らない内に長老から呼ばれていたのだ。
「お客人方。先日は集落の者が世話になりましたな」
「礼はよしてくれ。私たちは何もしていない」
先日も訪れた頑丈そうなテントの中、深々と長老が頭を下げる。
それに気まずそうな様子で応対するヒカルを横目に、ヤマトは何気なしにテントの中を見渡す。
(やはり、いないか)
先日ここへ訪れた際には、長老の脇にミドリが控えていた。明らかに生まれの異なる風貌のミドリであったが、彼女と集落の人々――特に長老は深い絆で結ばれ、本物の家族同然にしか見えなかったものだ。
そんなミドリの姿が、今はここにいない。
ヤマトたちの視線が意味するところに気がついたのか、長老は先日よりもいささか老け込んだ面持ちで重苦しく頷いた。
「きっとあの子も、お客人方には感謝していることでしょう」
「それは……」
エスト遺跡で起こった事故により、ミドリはこの集落から姿を消した。
実際には遺跡で人々を襲い始めたガーディアンを退けるために竜化し、帝国軍の手によって重傷を負わされて身を隠さざるを得なくなったミドリだが、そんな荒唐無稽な話を公にできる訳もない。断片的に状況を把握したカインの主導により、ミドリはガーディアンとの戦いの中で帰らぬ人となったと集落には伝えられていた。
ミドリ以外にも、ガーディアンの凶刃にかかって帰らぬ人となった者は少なくない。そんな背景もあり、帝国軍から伝えられたその一報は特に疑われることもなく、人々に自然と受け止められていた。
「すまない」
「何を謝るのですか。あなた方には、私どもも感謝しているのです」
何を言うこともできず、ヒカルはただ頭を下げる。
それに困惑したように長老は眉尻を下げた。彼からすれば、ヒカルたちは遺跡で集落の同胞を救うために尽力してくれた恩人たちなのだ。感謝こそすれども、恨むような筋合いはない。
しばらく押し問答のようにヒカルと長老は頭を下げ合っていたが、やがて長老は疲れたように溜め息を漏らした。
「お客人方。先日、我らと交わした約定を覚えていますか」
「北地へ向かう足を借りるため、あなたたちと縁を築く話のことか」
「えぇ。そのことです」
この場にいないミドリと先日の事故のことに意識を吸い寄せられていたヤマトたちの意識が、その長老の言葉で現実に引き戻された。
「馬は我らの家族同然。彼らを貸すとなれば、相応の縁を築いた者でなければ誰も納得しない」
「そういう話だったな」
「数頭、あなた方にお預けするとしましょう」
その長老の言葉は、ヒカルたちのとってはこの上ないほど都合のいい話ではあったのだが。
「いいのか?」
どこか人生に疲れ果て、先日のような覇気に欠けた面持ちの長老を怪訝に思ったのか、ヒカルが問い返す。
ヒカルの言葉に虚ろな視線を上げた長老は、どこか遠い眼差しになって口を開く。
「いいのです。もはや、その決定に異を唱えるような者はここにはいないでしょう」
「……そうか」
遺跡で起こったガーディアン騒動により、この集落でも数多くの若者がその命を散らした。今なお生き永らえている者は、その多くが女子供老人などの戦えない者たちばかりであり、もはや遊牧集落としての体裁は崩れつつある。ろくに作物も育てられない過酷なエスト高原で、馬や羊を飼い慣らして放浪する生活を送れるほどの余力も残されていないのだ。幾ら家族同然に愛してきた獣たちと言えども、もはや手放さなくては自身らが生きていけない。
どうせ手放すのであれば、そのまま死に直結する野生に放つよりも、多少は知った仲であるヒカルたちに手渡した方が納得できるということか。
そんな事情を暗に察して、ヒカルたちは表情を陰らせる。
思いがけず暗い雰囲気になった空気を払拭するために、長老は少々大げさに声を上げる。
「お客人方が気になさる必要はありません。むしろ帝国の方々とお近づきになれて、喜ぶ者もいるのですから」
「確かに、魔導具があれば生活はずいぶん楽になるからね」
今の大陸ではそのほとんどに魔導具に依存した文化が広まっている。それに頼らず生きてきたエスト高原の遊牧民らが異色なのだ。これを機に帝国文化を輸入すれば、その暮らしぶりがずいぶんと楽になることは確実だろう。
長老とノアの朗らかな言葉に、ヒカルも兜の中で小さく笑い声を漏らす。
「そうか。そういう訳ならば、ありがたく馬を借りるとしよう」
「えぇ。馬は都合のいいところで他所の集落に預けてくだされば問題ありません」
「了解した」
経緯はどうであれ、これにて当初の目的は達成できたことになる。
気休め程度ではあったが、そのことにひとまずヒカルたちは相好を崩した。
「ならば、近い内に出立した方がいいな」
「大したもてなしもできずに、申し訳ない。また立ち寄ることがあれば、そのときは――」
「気にすることはない。むしろ、今はそちらが大変な時期なのだからな」
言うなれば、これからの遊牧民のあり方が左右される決断のときであるのだ。部外者たるヒカルたちが長々と居座り、見送りはないのかと不満を漏らすことの方が道理に合わない。
恐縮するように頭を下げる長老にそう告げてから、ヒカルたちは互いに目を見合わせる。
「それでは長老。世話になった」
「我らの方こそ、お客人方にはお世話になりましたな。どうか、風の加護を」
終始老人らしい穏やかな調子を崩さず、それでいて死を目前にしたかのような虚ろさを垣間見せた長老。
彼の姿に後ろ髪を引かれながら、ヒカルたちはその場から立ち上がり、テントを後にする。幕を上げて外へ出た瞬間に身体を撫でていく寒風に、思わず身震いをする。
「流石に意気消沈してたね」
「無理もない」
ふぅっと手に息を吹きかけながら口を開いたノアに、ヤマトも小さく頷く。
アブラムが権利書を盾に遺跡の所有権を主張してきたときには、ガーディアン騒動で遊牧民の多くが傷つけられるとは夢にも思わなかった。正しく寝耳に水な急報を受けて、衝撃を受けるなと言う方が無理であろう。
何事かを思い煩うようにすぐ後ろのテントへ視線を投げたノアだが、すぐに首を振る。
「この辺りの景色も、ずいぶん様変わりしたね」
「……確かにな」
ノアとヤマトの視線の先にあるのは、集落内で忙しなく動き回る鉄道憲兵隊の姿だ。
彼らはエスト遺跡での騒動へ応援部隊として駆り出されたのみでなく、その後も集落の人々を救出する作業に従事した。その功を買われたのか、遊牧民たちからの信頼を勝ち得たらしい。今もせっせと魔導具やテントの設置作業に従事しては、通りすがる遊牧民たちに友好的に話しかけられている。声をかけられる憲兵たちも満更ではないのか、彼らに物腰柔らかく応じていた。
その様子から、長老の言葉が嘘ではなかったことがよく分かる。もはや帝国の手を借りることに嫌悪感を示す者はほとんどおらず、きっとこのまま帝国に頼って彼らは生きていくのだろう。
思わず物思いに耽りそうになったヤマトたちの意識を引き戻すように、ヒカルが軽い咳払いをした。
「さて。今はここも余裕のない状況だ。可能であれば今日中に出立したいのだが、どうだ?」
「私は賛成よ」
ヒカルの言葉にリーシャが頷く。レレイも、若干他所に意識が奪われている様子ながらも、遅れて首肯した。
「ヤマトとノアはどうだ」
「俺は構わない」
「僕も大丈夫だよ。だけど、ちょっと野暮用があるから今すぐは難しいかな」
その言葉にヒカルは若干首を傾げるが、すぐに平静に戻る。
「そうか。ならば昼すぎに出立できるよう、それぞれ準備してくれ」
「了解」
朗らかにノアが返事するのを確かめて、ヒカルはリーシャを引き連れてテントへ戻っていった。ここ数日すごす内に広げていた荷物をまとめるつもりなのだろう。
「レレイはどうする?」
「……少し一人にしてほしい」
相変わらず、心ここにあらずといった様子のレレイ。短くそう告げてから、集落の中をどこへ向かうでもなく歩き始めた。
その背を思わず見送ったノアは、その表情を僅かに顰める。
「追った方がいいかな?」
「放っておけ。あいつも子供ではないのだからな」
ザザの島という辺境出身ゆえに世間知らずなところが目立つレレイだが、その精神面までもが幼いという訳ではない。むしろ、魔獣に囲まれた過酷な環境で水竜の巫女という役職を努めてきた分、その精神はヤマトたちよりも幾らか成熟していると言ってもいいほどなのだ。
そんなヤマトの言葉に、ノアは軽く肩をすくめる。
「それで? 野暮用とは何のことだ」
「少しね。ヤマトならだいたい分かるんじゃない?」
「………」
問い返すノアの言葉に、ヤマトは無言のまま視線を逸らすことで答える。その視線の先にいるのは、鉄道憲兵隊らに指示を出している将軍カインだ。
アブラムの陰謀を暴くために駆り出されたカインは、そのままガーディアン騒動に巻き込まれるものの、駅から要請した応援部隊の力を借りて事態解決に導いた。表向きには、彼こそが今回の事故解決の立役者であろう。崩れた遺跡からアブラムを引きずり出して捕縛した後、帝国の非を認める形で謝罪をしたカインは、今やこの集落における英雄にも等しい存在となっていた。
ヤマトの視線の先にカインがいることをチラッと確かめて、ノアは小さく頷く。
「ご明答」
「厄介事は起こすなよ」
「大丈夫だよ」
いつも通りの軽い調子で応えてから、ノアはカインの方へ歩を進める。
憲兵隊たちに設置作業の指示を飛ばして現場監督をしていたカインの方も、歩み寄ってくるノアたちの姿に気がついたらしい。指示を待っていた隊員を追い払ってから、ノアに向き直った。
先日にミドリの止めを刺すか否かで一悶着があったことなどなかったかのような、爽やかな表情だ。
「おはようございます。お早いですね」
「ちょっと野暮用があってね。少し話いいかな」
「勿論ですとも。ちょうど手が空いたところでしてね。場所を移しますか?」
「いや、ここで大丈夫だよ」
昨日のガーディアン騒動のときならまだしも、今は急を要する事態という訳でもない。
そう気楽な調子で応じてみせたカインに、ノアも軽く頷く。
「分かりました。それで、話とは?」
「大したことじゃないんだけどね」
前置きをしてから、ノアはカインの目を覗き込んで、
「動くな」
「―――っ!?」
いつも通りの軽い口調でありながら、その眼差しに秘められた光はいつになく剣呑。感情の一つも浮かべない怜悧な視線に、薄っすらと殺気までもが滲み出ている。何気ない会話のように見えて、その実は静かに銃口をカインに突きつけているような錯覚――否、実際に早撃ちができるだろうと直感できるほどに、今のノアからは得体の知れない迫力が感じられた。
一瞬で正反対の雰囲気へと変貌したノアを前に、カインは息を呑む。
「何を――」
「今回の件、独断だね?」
「………」
傍から見ていれば、とても要領を得ない上に唐突すぎる会話。
それでも、カインには突き刺さるものがあったらしい。剣呑なノアの視線に怖気づくような表情が一転して、恐ろしいほどにその眼光が鋭くなる。
視線だけでノアを射殺さんというほどの鋭さながらも、ノアはそれに一切動じることなく言葉を続けた。
「上手くやったことは認めるけど、明らかな越権行為だよ。一歩間違えたときのリスクが大きすぎる」
「………」
「用意周到な下調べに、幾重にも張った予防策。成竜出現にも対応してみせたのは褒めるけど、やりすぎだね。今の帝国に、“ここ”は必要ない」
「本土に報告するつもりですか」
脂汗を滲ませながら応じたカインの言葉に、ノアはふっと小さな笑みを零す。
「いや。今の僕はただの冒険者だからね。ちょっとした釘刺しだよ」
「………あなたは……」
何事かを言おうと口を動かしながらも、やがて何も言えずにカインは口を閉ざす。
その様子を穏やかな面持ちで見つめてから、ノアはくるりと踵を返した。
「それじゃあ、そういうことで。ヤマト、僕たちも準備するよ!」
「おう」
先程までの爽やかな様子はどこへやら、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるカイン。
彼のことをちらりと一瞥してから、ヤマトは先行くノアの背を追う。
「ずいぶんとはっきり言ったな」
「まぁね。身内の不始末ってやつだからさ?」
「そうか」
帝国本土でもメキメキと頭角を現している、若き将軍カイン。
そんな彼に対してズケズケと物言うことができるノアが、いったい何者であるか。その事細かなことまでは、ヤマトも深くは知らないが。
(道理ではあるな)
救世の使命を課せられた勇者一行に従う冒険者。その片割れになれるだけの男が、ただ帝国から出てきた器用なだけの青年ということはない。ヤマトが仲間たちに未だ明かしていないことがあるのと同様に、ノアにもまた、己の内に秘めた真実がある。
それは、至極当然のことと言えるだろう。