第178話
『――警告。施設の破損度が三十パーセント到達を確認。第二ガーディアン隊が出動します』
その機会音声と共に、エスト遺跡内をけたたましいアラームが響く。加えて、遠くから新しく動き始めるガーディアンたちの気配を多数感知する。
それら全てを一瞬で把握した緑色の竜――ミドリは、次いでアラーム音を鳴らし続けている天井際のスピーカーに目を向けた。
『煩い!』
瞬間的に脳を駆け巡った怒りの衝動のままに、尾を天井へ叩きつける。スピーカーが壊れるのみならず遺跡を支えていた天井にも深い亀裂が走るが、ひとまず煩わしい警告音が遠ざかったことに一抹の満足感が得られた。
(……満足感?)
何気なく鼻を鳴らしてから、愕然としたように尾を叩きつけた先へ視線を向ける。
本来なら押し込められていた竜の力を解放した影響か、それともミドリの身体を包む万能感が理性を緩やかにさせているのか。衝動的な感情が腹の中に渦巻き、ふとした瞬間に漏れ出そうになっていることに気づかされた。
(これでは、まるで獣ね)
自嘲するように心の中で苦笑いを浮かべながら、強く自戒する。仮初めとはいえ人の身体を真似て生活していたからか、獣じみた己の衝動に嫌悪感が湧き起こった。
どうにか鳴りを潜めてくれた感情のざわめきにホッと息を漏らす。明瞭になった意識のままに、ある程度の静けさを取り戻した周囲を見渡して、ミドリはグルルッと喉を低く鳴らした。
(人の気配はない。皆ここから逃げ去ったの?)
エスト遺跡は深層へ立ち入るに連れて光源も少なくなり、人の目では満足に先を見通せないほどの暗闇が展開している。ミドリ自身も人化していたときであれば、この部屋で一歩足を進めるだけでも相応の注意を払っていたことだろう。だがそれも、超常的な竜の知覚をもってすれば障害にはならない。
遠く離れた階層の光だけを頼りに竜の眼が部屋を見渡す。ほとんど人の手が入ったことがないのか、驚くほど荒らされていない遺跡の姿がそこにある。耳を澄ませてみても、遠く離れた場所で駆動を始めたガーディアンの動作音が僅かに聞こえるばかりで、この部屋には他に動くものはなさそうだ。だが。
『この匂いは……』
半ば無意識に鼻を鳴らした瞬間、僅かばかりだが生物の匂いをミドリは感知した。その生物が立ち寄ってからまだ長い時間は経っていないのか、比較的匂いは強く残されている。スッと目を細めて辺りに気をやれば、部屋の空気も若干動いているらしい。
間違いない。ほんの数分前にこの場所を誰かが駆け抜けた形跡が残されている。そしてそれから察するに、まだ遠くへは行っていないはずだ。
(生き残りか、もしくは――)
匂いの主が立ち去った方を探るように慎重に匂いを嗅ぎ取りながら、ミドリの脳裏に数分前に見た死体の映像が浮かび上がる。
返り血で赤く塗り上げられたガーディアンがたむろしていた部屋だった。ものの数秒でガーディアンを一掃したミドリの目に飛び込んできたのは、不気味なほど滑らかな断面でバラバラに切り分けられた遊牧民の肉塊だ。それをガーディアンがどうするつもりだったのかは分からないが、とても死者に対する扱いではなかったことは確か。
(叶うならば、全員助け出したいところだけど)
現実的に、それは難しいだろう。
人化していたミドリやヒカルたち一行が奮闘してガーディアンらの注意を一点に惹きつけたとは言え、彼らだけでガーディアン全ての気を逸らせるほど、この遺跡は広くはない。自然と遺跡各地に散らばった民の中には、抗うこともできずガーディアンに蹂躙される他なかった者もいたことだろう。
(もっと早く、この力を解放していたならば。もしかしたら)
それら全ての命を救うことができたのだろうか。
悶々と答えのない問いを始めそうになったところで、ミドリは僅かに竜頭を横に振る。
『詮なきこと。それよりも今は、此奴らを追うべきか』
自らに言い聞かせるように呟き、意識を現実に引き戻す。
この部屋を一目散に駆け抜けていった者。
ここはエスト遺跡の中でも相当の深部であり、聖地として奉ってきた頃にも立ち入ったことのない区画だ。そこへ逃げ込むということは、目の前が分からないほどに錯乱していたのか、逃げ込まざるを得なかったのか。それとも――
『行くぞ』
その一言で、胸中に渦巻く全ての疑念を払い落とす。
今のミドリにできることは一刻も早く生存者を見つけ出すことであり、その圧倒的な力でガーディアンをことごとく破壊することだ。いらないことに頭を悩ませている暇などない。
胴から伸びる四脚で床を踏み締め、僅かに前傾姿勢を取る。辺りの音が聞こえないほど遠ざかるような錯覚の中、勢いよく足を踏み出した。
(急ぐとしましょう)
人の目では到底追い切れないほどの疾走。横からその姿を見たとしても、せいぜい緑色の“何か”程度にしか把握できないであろう速度のまま、ミドリは遺跡内を一気に駆け抜けた。竜の身には少々手狭な通路であっても、その壁を竜鱗で抉り取って突き進む。
もしも道中に生き物がいて、その疾駆に巻き込まれてしまったならば、とても無事ではいられなかっただろう。大型魔獣を更に上回る巨躯に跳ね飛ばされるのみならず、その硬く鋭い竜鱗に斬り裂かれるダメージは計り知れない。念の為にとミドリも前方への警戒は絶やさずにいたが、それは杞憂に終わってくれたらしい。
人にとっては長く続く回廊も、今のミドリにとっては一瞬で駆け抜けられる程度のものでしかない。移動だけで遺跡に大穴を開ける勢いで駆けたミドリは、ものの数秒でその部屋に到着した。
『ここは……』
エスト遺跡の最深部、だろうか。
幾つもの壁や階段をぶち抜いた先に、四方十メートルほどの手狭な部屋が広がっていた。照明一つ起動していなかった回廊とは異なり、その部屋は今も白い光が放たれている。それでも、見知らぬ文明ながらに人の営みを感じさせた上層部とは打って変わって、そこはミドリの目にはひどく殺風景な部屋に映った。余計な置き物は一つもなく、ただ部屋の中央に奇妙な台座が鎮座しているだけだ。
竜の力を解放したミドリが身体を収めるには、あまりにも狭すぎる部屋だ。上体の一部だけを突っ込ませるような、ともすれば間抜けにも見える姿のまま、ミドリは部屋の四隅に視線を巡らせようとして――気がつく。
(血の匂い?)
竜としての鋭い嗅覚が捉えたのは、部屋にむせ返るほど充満した血肉の匂いだ。とても一人二人が転んで怪我をした程度のものではない。明らかに数人以上が、この部屋で無残に死に絶えている。そうでなければ、こうも濃厚な死臭は立ち昇らない。
どこか無機質な白い光が照らす室内に目を巡らせれば、すぐにその匂いの元に行き着く。
(嘘……。皆、死んでいる?)
惨殺、という言葉がこれほどに似合う死体があるだろうか。
一見すれば、ただ血肉の海がそこにぶち撒けられているような状態。部屋には足の踏み場がないほど血の池が広がり、そこにゴロゴロと歪な肉塊が浮かんでいた。元の顔や身体つきが分からないどころか、それが人であったことすら判断できない。血でどす黒く染まった服――集落の若者たちが好んで着た伝統装束の切れ端が浮かんでいなければ、それが元々何であったのか、竜の知覚をもってしても知ることはできなかっただろう。
そして、部屋の中央で泣き笑いのような表情を浮かべている、唯一の生存者。
『貴様は……ッ!!』
「ひ、ひぃっ!? くそっ、何だよ何で竜がこんなところにいるんだよ!?」
現実逃避するように喚き散らすのは、ミドリの記憶にも新しい男だ。
竜の目からしても趣味の悪い、金銀がゴテゴテと貼りつけられた服。それでもかつては綺羅びやかな光を放っていたものだが、今は血肉に塗れて、本来の輝きの一部すらも映してはいない。脂ぎって肥え太った身体も、今はひどく憔悴しているようにすら見える。それでも、今こうしている間にも理性を保てている辺りからは、彼がそれなり以上の精神力を持っていたことの証左になるのかもしれない。
アブラム。帝国商人と自称し、カインの手によって偽物だと断じられた権利書を手に、このエスト遺跡が自分のものであると強弁していた男だ。
『答えろ! ここで何をしたッッッ!!』
「来るな来るな来るなぁっ!? 何で俺が! 俺がこんな目に遭わなきゃならねぇんだ!!」
カッと血が頭に昇るに任せて、醜く怯えるアブラムに竜の怒りを叩きつける。
常人であればそれだけで心臓を止めかねないそれを受けてなお、アブラムはグルグルと目を回しながら支離滅裂なことを口走り続ける。あまりの混乱ゆえに、目の前のミドリすら正しく捉えられていないのか。
もう一度殺気を叩きつけようかとミドリが目を細めたところで、喚き散らしていたアブラムは、唐突にギュルッと眼球を回転させ、濁った目でミドリを正視する。
「は、ハハ、ハハハハハッ!! どいつもこいつもふざけやがって! こんなふざけた奴ら――全部ぶっ壊せ!!」
錯乱したのか。
泡を吹きながら叫んだアブラムは、その足で部屋に鎮座する台座へ駆け寄る。咄嗟にミドリが制止するよりも早く、その拳を台座に叩きつけた。
『貴様、いったい何を――』
バチバチッと火花を散らし黒煙を立ち昇らせる台座。不気味な笑みを貼りつけたまま硬直するアブラム。
咄嗟に理解が追いつかずに硬直したミドリの視界の中で、“それ”が動き始めた。
『システムアラート。管制機へのダメージを確認。ガーディアン統御に失敗。――緊急時のマニュアルに従い、各ガーディアンのリミッターを解除します』
けたたましく警告音が鳴り響き、機械音声がスピーカーから遺跡各地にそれを伝える。
直後に、周囲の空気が一変したことをミドリの第六感が感じ取った。
『何が起きている!?』
「ハハハハハッ!! 最後に、テメェも起きろガーディアン!!」
もはや体裁を取り繕うこともできないのか、口汚くアブラムが叫び、もう一度台座を拳で打ちつける。その叫びに応えるように、アブラムの背中の向こう側で“それ”はゆっくりと立ち上がった。
部屋を一瞥したときには気がつけなかったほどの体躯。アブラムの背中にちょうどすっぽりと収まる程度の小柄な人型ガーディアンだ。明らかに人工物と判別できる鈍色の表皮をしているが、その動きだけは人間と全く同様な滑らかさを宿している。
人間が、ガーディアンの皮を被っている。そう説明された方が余程すんなりと飲み込めるほど奇怪な人型ガーディアンだった。
『こいつは……』
「さぁガーディアン! さっさとそいつを壊せぇっ!!」
理性の最後の一欠片をも放り投げるようなアブラムの叫びに、人型ガーディアンはゆっくりと応える。
腰の重心を落とし、両方の拳を胸元に構えたファイティングポーズ。どことなく気が抜けるような脱力した構えだが、ミドリは更に目を細める。
(恐らくは、このガーディアンが皆を……)
この部屋の血溜まりを生み出した元凶ということ。ならば、気を抜く要素はどこにもありはしない。
竜として――世界最高峰の一角としての力を全て解放するように、ミドリは人型ガーディアンに怒号を叩きつけた。