第177話
長きに渡るガーディアンらとの激闘と、圧倒的な力でそれを一蹴した緑色の竜の猛威が去ってから。
戦いがあったことが嘘のような静寂に包まれた部屋の中で、呆気に取られた様子のヒカルが辺りを見渡した。
「……生きてるの?」
「どうにかな」
未だに目の前の光景が現実のものだと受け止め切れていないのか、ヒカルは勇者らしい立ち振る舞いを装うことを忘れてしまっているらしい。ただの町娘のような言葉遣いになってしまっていたが、それを指摘できるような者はここにいなかった。
エスト遺跡への滑落から始まり、古代文明の遺物たるガーディアンの襲撃を受け、それを一挙に退けた緑色の竜の登場。その全てがあまりに現実から乖離していて、フワフワと地に足が着かない心地のまま、ヤマトたちも呆然とする他なかったのだ。
全員が何も言い出せないままに沈黙が流れることしばらく。それを最初に破ったのは、周囲へ視線を巡らせて何かに気がついた様子のレレイだった。
「――ミドリはどこに行った?」
束の間の休息。
本来ならばそこに加わっているべきミドリの姿がここにいないことに気がついたらしい。先程までの弛緩した表情を引っ込めて、緊迫した面持ちでレレイは目を走らせていた。
ヒカルとリーシャも遅れてそのことに気がついたようで、気怠げな身体に鞭打ちながら辺りの様子を探り始める。
「ヤマト」
「む」
「気づいたんでしょ?」
何を言うでもなく慌てふためくレレイたちを眺めていたヤマトに向けて、横で疲れた様子を隠せずにいたノアが口を開いた。その目はどことなく細められており、密かに居心地の悪さを覚える。
ノアの言葉に釣られて顔を向けてきたレレイたちの視線を前に、軽く咳払いをする。
「確証がある訳ではないぞ」
「自信のない訳でもないのだな?」
真剣な面持ちのレレイが詰め寄ってくる。
集落ですごしていた間、レレイはヤマトたちの誰よりもミドリと長くすごしていた。暇さえあればミドリと共に動きたがるその姿は、ザザの島を出てから初めて見たものであり、それほどに彼女はミドリに心を開こうとしていたのだろう。そんなレレイの姿をよく見ていたから、ヤマトにも彼女がミドリのことを慮る気持ちは理解できた。
「……そうだな」
隠し立てするようなことでもない。それに、今のレレイの気持ちを無為にしてしまうのも忍びない。
そう心の中で判断したヤマトは、真っ直ぐにぶれない眼差しをしているレレイに向き直った。
「少々突拍子もないことだがな」
言いながら、ヤマトは部屋に残された傷跡――床を深々と割った爪痕、砕け散った瓦礫の山、壁際に吹き飛ばされたガーディアンの残骸などに目を向ける。それら全てが、ここで暴れまわって一瞬でガーディアンを壊滅させた緑色の竜が残していったものだ。
緑色の竜。かつて海洋諸国アルスや離島ザザで見た竜種と比べれば、その存在感が明らかに際立っていたことが思い出せる。成竜らもやはり尋常ではない力強さを感じさせられたものの、緑色の竜を前にして感じたような、生物としての次元が違うような感慨までは抱けなかった。思い返してみれば、緑色の竜が如何に異質な存在であったかが分かる。
「あの緑色の竜こそが、ミドリだったのだろうよ」
「……え?」
戸惑いの声を漏らしたのはヒカルだ。ヤマトの告げた言葉を聞き違えたと咄嗟に判断したのか、何度か頭を振って意識を改めようとしている。
対してレレイの方は、衝撃を隠せない面持ちでいながらも、その瞳にどこか納得の色が浮かんでいるように見える。ミドリと長い時間をすごしていた甲斐あって、どうやら只人ではない――人間離れしていると言うよりも、人間種ではないかもしれないという疑念は抱いていたのかもしれない。
「レレイとノアは見たことがあるだろう。成熟した竜種は、その力を抑えることで人化することができるらしい」
「うむ」
重苦しくレレイは頷く。
ヤマトとノアがレレイと出会った場所であるザザの島。そこでは、アオと名乗った成竜が人の形に擬態し、島で水竜の巫女を努めていたレレイの力を喰らおうと企てていた。直接対決に臨む前に数度顔を合わせる機会があったが、常人ではないという感覚こそ抱けても、アオがよもや人間ではなく竜種なのだと想像することはできなかったのだ。それほどに、竜種は細部まで人に似せて化けることができる。
一般的な個体と同程度だったアオの擬態でも、ヤマトたちは見抜くことができなかったのだ。ミドリの正体が先程の竜であったならば、彼女が竜種であると見抜けなかったことは何ら不思議ではない。
「彼女が何故人化していたか、その理由までは分からんがな。可能な限り正体を隠すつもりのところを、ここで力を解放せざるを得なくなったというところだろう」
それはひとえに、ガーディアンらの攻撃からヒカルたちを守るためのもの。彼女としても、本来であれば人化して制限されたままの力で戦い通すつもりだったのだろう。ガーディアンを一射で機能不全に追い込んだ矢も、彼女の力の一つと考えれば理解しやすい。ミドリの予定が狂ったのは、この部屋に幾体もの四脚ガーディアンが雪崩込んできたことが原因か。
「じゃあ、ミドリがここにいないのは……」
「せっかく元の力を解き放ったのだから、そのままガーディアンを鎮圧するつもりだろうな」
このエスト遺跡がどれほど広大な施設なのか、どれほどのガーディアンが解き放たれたのかなどは依然として不透明だ。それでも、先程ヤマトたち自身の目で見た緑色の竜の力から察するに、ガーディアンがどれほど群れても苦戦するような相手ではない。今こうしてヤマトたちが話をしている間にも、数十数百のガーディアンが破壊されていると思っていいだろう。
その意味で、ガーディアンの群れを相手に苦戦を強いられていたヤマトたちが心配するような相手ではないのは確かだった。今ヤマトたちがするべきなのは、竜としての力を解放して暴れ回っているミドリの心配をすることではなく、新手のガーディアンがやって来ない内にエスト遺跡から離脱することだ。
「そういう訳だ。ここで休むのもいいが、早いところ外へ出るとしよう」
ヤマトの言葉に、ヒカルたちは頷く。レレイもミドリが去っていった方を心配げな瞳で見つめていたが、やがてゆっくりと首肯する。
まだ外へと続く出口は見つかっていないが、この部屋には天井から太陽の光が差し込んできているのだ。いざとなれば、ヒカルの力でここの天井を砕いてしまえば、そのまま外へ出ることができるだろう。
(ひとまずは、一件落着ということか)
色々と釈然としないものは残っているが、身の危険が去ったのは確かか。
ホッと一息漏らしたヤマトに釣られるように、緊迫した雰囲気をまとっていたヒカルたちも相好を崩す。レレイはなおも物憂げな表情を浮かべているが、ミドリが無事に帰ってくれば、それもきっと晴れてくれることだろう。
「ねぇヤマト」
「どうした」
どことなく戦いの熱が冷めきらないでいたヤマトに、ノアが静かに近づいてきた。ヒカルたちには聞こえない程度に声を潜めている。
「まだ言ってないこと、あるでしょ」
「……まぁ、そうだな」
ノアの言葉には首肯を返す。
ヒカルたちに告げたことがヤマトの推測の大半であったが、全てではないことは確か。とは言え、それを口にしなかったことにも理由はある。
「これ以上は妄想の域に入るからな」
「ふーん?」
先程告げた言葉も、明確な根拠がある話ではないにしても、それなりの自信は持てていた。だが、ヤマトが胸の内に秘めたものの方は、ほとんど直感を繋ぎ合わせただけの与太話だ。誰かに語って聞かせるほどの価値があるものではない。
そんな意図を込めて首を横に振るヤマトに、ノアは更に詰め寄る。
「まぁいいから。言ってみなって」
「ふむ」
「笑ったりしないからさ」
そうした心配まではしていないのだが。
思わず苦笑いを漏らしたヤマトは、ヒカルたちがもうしばらく腰を休めるつもりらしいことを目で確かめてから、ゆっくり口を開く。
「至高の竜種という話があるだろう」
「あるねぇ」
それは、半ば伝説のように語られる竜種のことだ。
大陸の遥か北方に位置するという竜の里。そこに住む竜種が旅人に語って聞かせたのが、その噂の発端だという。
「この地に住む全ての生物を凌駕する、知性と力強さを兼ね備えた至高の存在。その爪は大地を砕き、その咆哮は天空を揺らす。何者にも抗い難い威容は神にも等しく、五色の竜は天地を支配する。だっけ?」
「よく覚えているな」
少し得意気なノアが語ってみせたのは、件の旅人が人々に伝えて回った、竜種によって語られた至高の竜種の記述だ。これにのみ伝えられる存在であれば、誰もが眉唾ものな話だと一蹴していただろう。だが大陸各地に眠る伝承の中には、確かにそれほどの強さを持った者が成したという逸話が数多く残されている。その間にある偶然の一致に目をつけた者によって、至高の竜種は密かに語り継がれていた。
ヤマトの称賛の言葉に照れくさげな顔をしたノアだが、すぐに表情を改める。
「その話をしたってことはさ」
「そういうことだ」
ミドリが、その至高の竜種の一角ではないかという話。
無論、そんな与太話を裏づけるような証拠はどこにもない。そんなことを思いついたのも、ミドリのあまりに圧倒的な力強さを前にして、只の竜種とも言い難いほどのものを感じ取ったからにすぎないのだ。
そんなヤマトの考えを悟ったのか、ノアも苦笑いを漏らす。
「確かに、あまり言いふらすような話でもないね」
「誰かに喋ったりするなよ」
「了解」
ヤマトとノアが話終えたところで、ちょうどヒカルたちの休息も一段落したらしい。
よろよろと重い腰を持ち上げるヒカルたちを目にしながら、ヤマトもふと、ミドリが立ち去っていった方へ視線を向けた。