第170話
身体が空に浮き、重力に縛られるがままに落下すること数秒。
「――ぐっ!?」
足先から着地。衝撃を逃すように膝を折り曲げるものの、それでも耐え難いほどの力がヤマトの背筋を打ち抜いた。思わず漏れそうになった苦悶の声を、咄嗟に噛み殺す。
全身が二倍以上に膨れ上がるような痺れの中、徐々に静止させていた身体を動かす。ビリビリと駆け巡る痛みに、じわっと目尻に涙が滲みそうになった。
「ヤマト、大丈夫?」
「……問題ない」
こわごわと身体を動かして横を見れば、落下したダメージがほとんどなかったらしく、傷一つない姿のノアが立っていた。地面が崩落する際に庇ったおかげと自惚れたいところだったが、ノアならば一人でもケロッとしていそうな予感もある。
一旦掴んでいたノアの身体を離しながら、そっと深呼吸をした。身体の緊張が解けるたび、顔を顰めたくなるほどの痛みが神経を襲うが、それらを無視して口を開く。
「それで、ここはどこだ?」
「さて。地面が崩れた先ってことは、遺跡の中かもね」
そこは、小さな部屋のようだった。壁や床に使われている建材は、ザザの島で見たものと同様に鉄とも石とも言い難い素材ばかり。人が四人ほども入れば狭く感じられるような場所に、横長の台座がポツンと置かれているだけの空間が広がっている。一目しただけでは、何に使う部屋なのかを悟ることもできない。辺りに散乱している土砂がなければ、とても現実の光景とは思えなかっただろう。
天井を見上げれば、存外に高い場所に空いた穴から、仄かに陽射しが差し込んでいるのが分かる。明かりが一つもない地下空間でも視界が保たれているのは、あれのおかげか。
(今のところ、ここは安全なようだな)
柔らかな陽光に照らされた部屋を見渡しながら、ヤマトは先日訪れた際のエスト遺跡の様子を思い返す。
地上からでもそれなり以上に立派に見えた遺跡だったが、その実態は地下で大きく広がっている。外へ露出している部分などは氷山の一角にすぎないとでも言うように、地下には街一つが丸ごと収まってしまいそうなほどの空間が存在しているのだ。
何が原因かは分からないが、エスト高原が――エスト遺跡の天井が崩落し、その上に立っていたヤマトたちは地下へ滑り落ちてしまったということか。
「ここは地下か」
「みたいだね。奇しくも、遺跡探索のチャンスに恵まれた感じかな」
「呑気なものだ」
のほほんとした口調で言ってのけたノアに、ふっと笑みを零す。
ともすれば不謹慎なようにも聞こえる発言だが、その程度に考えておくのが確かに得策かもしれない。あまりに強すぎる警戒は容易く人の心を摩耗させ、いざ肝心なときに動けないようにさせてしまう。
腰元の刀の感触を確かめながら、ヤマトは辺りの気配を探る。
「他の者は?」
「ひとまず、ここにはいないみたいだけど。近くにはいるんじゃないかな」
「ふむ」
その言葉に、地面が崩落する間際の光景を思い返す。
大地が崩れる中、咄嗟の判断でノアの身体を引き寄せたヤマトだったが、ヒカルたちの元へ身を寄せることまでは叶わなかった。それでも、他の者たちよりはずっと近くに立ち位置を移すことはできていたはずだ。
何が原因で地割れが起こったのかも分からない以上、安易に断じることはできなかったが。それでも、きっとヒカルたちも近くにいると思っておくのは、気休め程度にはなりそうだった。
「ならば、まずは合流か」
「何があるかも分からないし、一応注意して行こうか」
ノアの言葉に首肯し、部屋の扉へ視線を移す。
やはり材質はヤマトの目には不明であったが、形状は見知った扉と同様のものだ。そっと触れて押し込んでみれば、特に何の抵抗もなく扉は動いてくれる。僅かに開いた隙間から、思わず足を踏み入れることを躊躇ってしまうほどの冷気が流れ出てきた。
「……行くぞ」
己を鼓舞するように呟いてから、一気に扉を押し開く。
途端に全身に吹きつける冷風に、思わず身震いをする。咄嗟に腰元の刀に手を這わせながら、睨めつけるように扉の先へ視線を巡らせる。
「暗いな」
「広間かな? ちょっと待ってねー……」
ヤマトの背中から覗き込むように顔を出したノアは、そのまま懐に手を忍ばせる。すっと取り出してみせたのは、手の平で楽に包める程度の大きさの小石だ。
それに視線を落としたヤマトは、感心するように溜め息を吐く。
「用意がいいな」
「それが僕の役割だからね」
やたら綺麗な球状の石にしか見えないそれは、帝国に本拠を置く商会の製品だ。端的に言えば、辺りを明るく照らす照明用魔導具の一つ。
投擲用に特化した作りの魔導具を、ノアは広間の方へ軽く転がした。暗闇の中に、パッと光が広がる。
「ここは……」
「ただの広間かな。それか、やたら広い廊下」
その二つで言うならば、廊下と形容する方が相応しいようにヤマトには思えた。
どこまでも続く長い廊下には、今しがたヤマトたちが出てきたのと同じ扉が幾つも並んでいる。そのいずれもがピタリと閉ざされている光景は、ふと監獄という言葉が思い浮かんでしまうほどには、不気味なように映った。
そして、酷く殺風景な中に一つだけ存在する異質なもの。
「あれは石像か?」
「うーん? まぁ、そうなのかな?」
石像とは言ってみたものの、やはりその素材は、ヤマトの目からは分析できない類のものだ。硬質な輝きは金属類のようだが、その割には柔らかさを内在した造形をしているように見える。
その像が模しているのは、一昔前の大陸には当たり前にいた鎧騎士のようだ。ヤマトの身の丈を越えて二メートルに迫るほどの大柄な体躯の持ち主で、手には長い両刃の剣が握られている。剣を胸元に掲げるような体勢のまま佇む姿からは、廊下全体を睥睨するような圧力さえ感じられる。
「ずいぶん迫力あるね」
「流石は古代文明の遺物と言うべきか」
ノアと共に感心するようなことを口にしながらも、ヤマトはジッと石像を睨めつける。やたら造形が凝っていて、今にも動き出しそうな様子だ。兜を着けた姿で彫られているから存在しないはずだが、物言わぬ石像の目がヤマトを捉えて離さないような錯覚に襲われる。
知らず知らずの内に右手が刀の柄に伸び、いつでも抜刀できるように身構えていた。
「ノア。あまりそいつに近寄らない方がいい」
「あぁやっぱり? 何か変な感じがするんだよね」
納得するようにノアが頷いた、その瞬間。
静止していた石像の指先が、ピクッと微かに動いたのを視界に捉えた。
「――下がれッ!!」
叫びながら、ヤマト自身も一気にバックステップをする。
ノアがそれに続くのを確かめた直後。極めて自然な動きのままに、石像が手にしていた剣を横振りに薙ぎ払う姿を目の当たりにする。
「やっぱ動いちゃう感じ!?」
「応戦するぞ!」
すぐ目の前を通りすぎた刃からの剣圧に身を凍らせながら、ヤマトは刀を抜き払う。
もはや動けることを隠そうともしない石像は、体勢を整えたヤマトとノアに向き直り、剣を正眼に構える。熟練の達人のような、隙のない立ち姿だ。
(厄介な)
普通に考えるならば、石像はこのエスト遺跡に備えられた罠の一つだろう。すなわち、古代文明にて作られた遺物の生き残り。その多くが元来の能力を大半失った状態だと伝えられるが、それでもなお、生身の人間が容易に片づけられるような存在ではない。
苦戦は必至。目の前の石像がどれだけの力を持っているか次第ではあるが、場合によっては撤退も考える必要もあるだろう。
ふっと視線を彷徨わせたヤマトの背中を押すように、魔導銃を構えたノアが口を開いた。
「僕が援護する! ヤマトは適当に暴れちゃって!!」
「――任せた!」
ヤマトよりもノアの方が、圧倒的に戦術眼は長けている。彼の判断を疑うような選択肢は、ヤマトの中にはあり得ない。
大声で力強く応えながら、足を前に踏み出す。
(恐らくは鉄以上――否、鋼以上の硬度。全力で斬らねばなるまい)
刀を頭上を越えた先の大上段へ構える。出し惜しみをする余裕などあるはずもない。初撃に渾身の力を込め、全てを両断するくらいの気構えで臨まなくては。
一息で間合いを詰めれば、石像はそれに一瞬も遅れることなく剣を振りかぶる。横薙ぎ。ヤマトの胸元を薙ぎ払う軌道か。
本能的に込み上げる恐怖を噛み殺す中、背後から飛来した銃弾が石像の肩を撃ち抜くのを視界に収めた。人ならば一撃で致命させるほどの威力を受けながら、石像は掠り傷すら負わないが、それでも着弾の衝撃に上体を泳がせた。
(好機か)
相変わらずなノアの腕前に感嘆しながら、ヤマトは更に高く刀を掲げる。刃に気を這わせ、その斬れ味を更に高めるイメージを脳裏に描いて。
「『斬鉄』」
刀を振り下ろす。
神速の斬撃を前にして、石像は剣を振るうことを諦め、咄嗟に左腕を盾のように掲げた。
鋼の刃と石の腕が激突した瞬間。ヤマトの手に、ズルッと言いようのない奇妙な感覚が返ってくる。
(何だこれは?)
これまで斬ったことのない感覚。あえて近しいものを挙げるならば、いつぞやの黒竜の身体が思い浮かぶだろうか。
そんな雑念を浮かべながらも、刀の刃は石像の身体へ滑り込んでいく。難なく左腕を斬り、そのまま胸元を裂いて脇腹へ抜けていく。
「やった!?」
(いや、こいつ……!)
背後でノアが歓声を上げる。
それに同意したくなる心地を堪えながら、ヤマトは斬撃を振り終わった後の残心もそこそこに、その場から飛び退る。
壊れたように静止する石像をしばらく見やってから、そっと溜め息を零す。同時に、首を横に振る。
「駄目だな。仕留められなかったようだ」
「うげ……」
嫌そうな呻き声を漏らすノアに苦笑いを零したくなるが、そうなる彼の気持ちも分からないではない。
ヤマトの振るった刀は確実に石像の身体を捉え、斬撃はその鎧を両断した。それでもなお、この戦いにおける決定打にはなり得ない。
(自己修復というやつか)
ヤマトとノアが見つめる先で、石像に深々と刻まれた斬撃の痕が、瞬く間に直っていく。胸部を斬り裂いた痕が縫合されるように一つになるのは無論、斬り落としたはずの左手までもが、左腕の断面と合わさり、元の姿を取り戻していく。
見ていたのは、およそ五秒程度だろうか。それだけの短時間で、石像の傷は跡形もなく修復され切った。
「これは骨が折れそうだね」
「全くだ」
疲れたように声を漏らしたノアに、ヤマトも同意の首肯をする。
本音を言えば、もう逃げ出してもいい気分にはなっていた。とは言え、相手方の戦意は未だ高揚している。この場から離脱するにしても、石像の足を止められる程度の傷は負わせなくてはなるまい。
(だが、どうしたものかな)
方策は浮かばない。せいぜい、修復が間に合わないほどの速度で斬り続ける程度だろうか。
首を傾げたヤマトだったが、他方のノアはヤマトを尻目に、懐から新たな銃弾を取り出して魔導銃に装填する。
「まあ、手こずりそうなのは間違いないけど、手がない訳でもないし。色々やっていこうよ」
「それしかないか」
あまり時間をかけたくないところではあるが、かと言っておざなりにすることもできない。
諦めの嘆息をしてから、ヤマトは再び刀を正眼に構えた。