第17話
その朝は、天気こそ晴れていたものの風はどんよりと湿り気を帯びており、嵐の到来を予感させるものだった。
日課の素振りを終えて、冒険者ギルドの食堂に戻る。
「降るかなぁ、雨」
「嵐が来る、か」
隣席で同じく朝食をつまんでいたノアに頷きながら、ヤマトは昨日出会った黒フードの男を思い返す。
終始怪しい雰囲気を漂わせていたその男は、去り際に「嵐が来る」と言い残していった。昨日の時点では半信半疑――若干疑いの方が大きい程度であったのだが、ヤマトの胸中で渦巻く予感は、加速度的に強さを増していた。
「……本当に来るかもな」
「顔がにやけてるよ」
ノアに言われて、咄嗟に頬の辺りを撫でてしまう。
「誤魔化そうとしなくていいよ。もし本当に嵐が来るなら、ヤマトには頑張ってもらわないといけなさそうだし」
「別に誤魔化そうとはしてない」
「そう? まあいいけど」
何かが起こるんじゃないかと想像させる物々しい雰囲気を、ひしひしと感じる。平和な日々を享受する市民ならば、怯えて家の内にこもるような日ではあるのだろう。
だが、ヤマトたちは冒険者だ。自分の危険を顧みずに夢を追う彼らにとって、波乱の予感は怯えるに値しない。
ヤマトだけがそうなのではない。現に、ヤマトの隣で朝食を口に運んでいるノアですら、何かを期待するように目を輝かせているのが実情だ。
「今日はどうしようか」
「もう決めているのだろう?」
言い返すと、ノアが小さく笑みを浮かべた。
「どこから始まるかはまだ分からないからね。ひとまずは展望台に行こうと思ってる」
「ふむ」
グランダークの展望台は、中心部の行政区に設置されている。警備の都合上で宮殿近くまでは行けない観光客のため、それを望める場所に築かれたものだ。
展望台と言うだけあってそこそこの高さであり、宮殿の他に、グランダークの大まかな全景を望むことができる。守護兵の見張り場所としても利用されているほどであり、街中で何か事件があればすぐに気づくことができるだろう。
「いいだろう」
「よし! それじゃあ早速行くとしようか。ヒカルもいるかもしれないしね」
魔王軍との戦いを前にして、勇者のすぐ近くほどに好条件な席はないだろう。
ヤマトも頷いて、残っていた朝食のサンドイッチを片付ける。
「――あぁ、こちらにいましたか」
聞き覚えのある男の声が、ヤマトの耳朶を打った。
即座に声が聞こえた方へ目を向ければ、ギルドの入り口から黒フードを身にまとった男が覗き込んでいた。
「昨日会った人だよね。どうしたんだろう?」
「………」
ノアに一瞬だけ目配せをしてから、ヤマトは席を立つ。
「何の用だ?」
「昨日お伝えしたことに、少し話を付け足そうと思いまして。それと、あなたにもお話がありましてね」
言いながらギルドの中に入ってきた男は、フードを外さないままで首を傾げる。
「お連れの方はどちらへ?」
「急用があってな。既にそちらへ向かってもらった」
言われて振り返って、ノアが席から姿を消していることにヤマトも気がつく。
どうやら、ヤマトの意図は確かに汲み取ってくれたらしい。それにしても、ヤマトにすら気づかせないほどに気配を消していくとは。本当に頼りになる相棒だと溜め息をつく。
「そうですか……。困りましたねぇ、彼女にも用はあったんですけど」
ノアのことを女性と勘違いしたらしいが、放っておく。訂正したところで有益とは思えない。
「何かあれば俺から伝える。それで、用事とは?」
「嫌ですねぇ。あなたも――いえ、あなた方も気づいていらっしゃったんでしょう?」
相変わらずフードに隠れて男の表情は見えないが、ニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべているに違いないと確信できた。
「何のことだ」
「私の正体。『剛剣』の正体。そして今の私の目的も」
「………」
「いやはや参りましたよ。まさか片方を通してしまうとは。痛恨の極みというやつですね」
クツクツと笑い声を上げる男を見ながら、腰の刀に手をかける。
「少し場所を変えようか」
「えぇ、そうしましょうか。あまり人に聞かせていい話でもありませんし」
黒フードの男が後ろからついてきていることを確認して、ヤマトは冒険者ギルドの裏口から出る。そこには、ヤマトが朝の素振りをしている庭が広がっている。
「ここならば、人目も少ないだろう」
「そうですねぇ。一応、もう一手間足しておきましょうか」
言いながら、黒フードの男は指を鳴らす。途端に、庭全体が透明な膜で囲われる。
「結界か」
「急ごしらえですから、強度も機密性も足りませんけどね。ないよりはマシでしょう」
見たところ、それは確かなのだろう。ヤマトが全力で刀を振れば斬れる程度の硬さに、内外を遮音する程度の機密性。視界はふさがない上に、専門の魔導技師ならばすぐに解除できそうな結界。だが、それでも結界を一瞬で張るような行為は常軌を逸している。
「かなりの腕だな」
「お褒めいただき光栄です」
仰々しい礼をする男を見下ろしながら、静かに刀の鯉口を切る。
「それでは話をしましょうか。まずは……そうですね、『剛剣』の正体と目的から始めましょう」
油断なく男を注視しつつも、ヤマトは脳裏に『剛剣』の姿を描き出す。
初めて出会ったのは、ヒカルに依頼されて赴いた森の中。荷物を持った様子もなく森の中に数日いたらしいことを言っていたが、真偽は疑わしい。明らかに偽名である『剛剣』を名乗っていたところも、それに拍車をかけていた。
「彼は魔王軍第五騎士団の団長、バルサその人です。『剛剣』というのも魔王軍での通称になるので、あながち偽名でもないのですよねぇ」
「騎士団長か」
「あまりらしくはありませんけどね。ここでの目的は、先日部下から伝えられた勇者の情報を頼りに、その存在を討伐することです」
予想はしていた。驚くには値しない。
「――というのは建前。魔王軍は何も、それが果たせるとは考えていません」
「………」
「歴代魔王が戦っては破れてきた勇者に、あの程度の男では勝てない。それは魔王軍の全員――いえ、バルサ以外は認めていることです」
「そうか」
ヤマトの見立てでは、強力な加護を満足に使いこなせていないヒカルでは、『剛剣』――バルサに勝つことは困難であるのだが。
そんなヤマトの思考を読んだのか、黒フードの男は再び笑い声を上げる。
「えぇえぇ、ご懸念の通りですとも。今の実力ではバルサに勝つことはできない。彼も一応は魔王軍屈指の武人ですからね。ですが、それはあまりに勇者の加護を甘く見ていると言わざるを得ない」
「なに?」
「勇者の加護は、単に身体能力や魔導適性の強化では終わらないということです。簡単に言えば、彼らの持つそれは『ご都合主義』なのですよ」
ご都合主義。
誰にとっての――決まっている。加護を勇者に授けているのは誰か。考えればすぐに分かる。
「神の意に沿わせるため」
「ご明答! この世界に住む神は、人が乗り越えるべきものとして魔王を生み出した。けれど、勇者には絶対に勝ってもらわないといけない。だから、明らかに過剰な加護を授けた」
初めて聞く事実がポロポロと零れ出ているが、ひとまずは黙っておく。
「簡単に言えば、勝利の加護です。敗北を目前にして、勇者の力は幾度も覚醒する。神の加護が機能している限りは勇者に敗北などありえない」
「それが、お前たちには納得できないというわけか」
「私というより、魔王様ですね。劇的な逆転勝利には、いい加減飽き飽きしたらしいですよ」
魔王からすれば、敗北を運命づけられているということ。それに抗いたくなる気持ちは、分からないではない。
「理想を言えば神殺し。ですが、それは神がどこにいるのかも分からない現状では難しいでしょう。なので私たちは、まずは勇者の加護を削ぐことに決めた」
「加護を削ぐ……」
ヤマトの脳裏に、昨日のヒカルとの会話が蘇る。
確か、ヒカルの加護は信仰の大きさによって強化されるのだったか。
「信仰をなくすつもりか」
「その通り! とは言え、人心はひどく移ろいやすいもの。なので、ひとまずは教会を消してしまうところから始めてみようということになりまして」
そろそろでしょうか、と男が呟くのと同時に。
遮音結界で閉ざされた中に、爆音が轟く。同時に凄まじい衝撃波で結界がビリビリと震え、ヤマトの肌も一斉に粟立つ。
「これは……!」
「あらま、結界を抜けますか。派手にやりましたねぇ」
言いながら男が足踏みをすると、結界は元通りの姿を取り戻す。
それでも、爆発を感じた名残で結界内部がざわざわと揺れているような気がしてくる。
「第一目的は既に果たされました。ここで退散してもいいのですが、せっかくですからやれるところまでやろうという話にもなっていまして」
ポツポツと、結界を何かが叩くような音が頭上から聞こえてくる。チラリと目を向ければ、天上から大粒の雨が降り出していることに気がつく。
「ほら、嵐が始まりますよ? 気を抜けば、この街が崩壊するくらいはあるかもしれませんねぇ」
「ちっ」
予感はしていた。だから、ノアをヒカルの下へ走らせることには成功している。
それでも、この場でずっと足踏みしている現状はよくない。
「私の目的は、ここであなたを足止めすることです。本当ならばもう一人も巻き込みたかったのですが」
「それは残念だったな」
「えぇ本当に。ですが、ひとまずあなたは止められていることを喜ばないといけませんね」
黒フードの男から殺気が漏れ出ている。やる気は満々らしい。
「あなたは少々強すぎる。勇者と二人がかりで寄られては、バルサも呆気なく負けかねないですからね」
「買いかぶりだな」
「いえいえ、事実ですよ」
ゆっくりと刀を抜き放つ。
この男を無視して結界を破壊するのは、少々無理がすぎるようだ。背を向ければ、即座に死が迫ってくるだろう。
「お前は何者だ」
「あぁ、そういえば自己紹介はまだでしたね」
フードはかぶったまま、男は紳士のように礼をする。
「私は魔王軍隠密部隊『影』の一人です。名はありませんが、クロとでも呼んでください」
「隠密か」
暗殺の間違いだろう。
そう言いたい気持ちを堪えて、刀を正眼に構える。
「ヤマト。ただの冒険者だ」
「――クククッ、これはまた異なことを」
笑い声を上げて、フードの男はローブの中からぬらりと黒いナイフを取り出す。
「知名度こそ低いですが、一部では有名人ですよ? 数年前に極東から大陸に渡って以来、刀一つで様々な強者を斬る凄腕がいると。めったに依頼を受けないのでギルドも把握していないようですが、見ている人は見るものですね」
「………」
「確かこの街にもいましたよね。十年に渡って武術大会を連覇したものの、借金で身を崩して闇に消えた男。相手知らずの凄腕用心棒として雇われていたところを、一人の剣士に破れたのだとか」
「……よく調べたな」
「隠密ですからね」
元々、大陸へ渡ってきたのは武者修行のため。ノアと出会うまではがむしゃらに強者との戦いを求めて大陸を巡り、ノアと出会ってからも、時間を作っては強者との戦いを求めてきた。隠そうとはしてこなかったが、あまり公にもしていなかったことだ。
感心する気持ちを、溜め息にして吐き出す。腹に力を込めて、刀の握りを改める。
「興味深い話だったが、そろそろ終わりだ。さっさと始めるとしようか」
「やれやれ、時間稼ぎもここまでですか」
手の中で遊ばせていたナイフをだらりと下げて、男はヤマトに相対する。
「戦闘は専門外なんですけどねぇ」
「戯言を」
ここまでで、既に目の前の男が只者ではないことは分かり切っている。
これから始まるのは、強者との死合だ。言葉に惑わず、確かな芯を身体の内に作れ。目を閉じ、息を整える。
「ふぅ――」
感情は凍らせる。身体の力は抜く。呼吸や脈拍すらも意識の外へ追い出し、身体と思考を切り分ける。考えずとも、長年の鍛錬を経た身体は勝手に動いてくれる。思考は別のことに割け。
コンディションは万全。敗北は考えず、勝利の形を脳裏に思い描く。目を開けば、先程とは異なる景色が広がっている。
「……これは、予定を変えた方がよさそうですねぇ」
男が何かを口に出しているが、ヤマトの中で意味を持たない。ただの音の並びとして、耳が捉えるだけだ。
蛇の鎌首のようにゆらめくナイフの切っ先を全身で感じ取ったまま、刀を正眼から上段へ構え直す。
「――いざ、参る!!」