第168話
駅を出立して馬を駆り、二時間ほどが経過した頃。
まだ陽も空高く昇ったままの刻限に、ヤマトたち一行はエスト遺跡へと到着していた。
「ここが、件の遺跡ですか」
「私たちが聖地として祀ってきた場所よ」
現地の人々すら顔を顰めるような寒風を身に受けて、カインは眉一つ動かさないまま、目の前にそびえ立つエスト遺跡を見上げる。
相変わらずの、長い年月を経たことが伺える風化した外観。それでも、遺跡を前にするのが二度目となるヤマトの目には、初対面のときとは少し違ったもののように見えた。
(ザザの島の遺跡と同じ様式か)
ザザの島にあった遺跡は、地下で長らく眠っていたということもあり、その内装は当時の様子をほとんど残した状態で現存していた。大陸最先端の帝国技術でも説明不可能――否、以後百年に渡っても再現は無理ではないかと思えるほどに、一目では見当もつかない技術の山々が転がる空間。とても現実のものとは思えない場所だったことを覚えている。
それと比べれば、目の前にあるエスト遺跡は、一見しただけでは岩で組まれた建築物のようであり、ヤマトたちの常識からもそう外れたものには思えない。その意味で、ヤマトはザザの島のときほどの衝撃を覚えなかったと言えるだろう。
だが、今から思い直してみれば、それはただ大陸人としての常識に引きずられていただけだったのだろう。
(朽ちている――訳ではないのだな。汚れているだけか)
長い年月を経て、外壁の随所が崩れ落ちている。その認識がまず、ヤマトたちの幻覚だった。
よくよく見てみれば、ザザの島でも見た謎素材による壁面には、一切の傷も残されていないことが伺える。崩れ落ちているように見えたのは、その壁面に付着した土砂がそうさせているだけ。つまり、風化したように見えているのも、外壁の土砂がそう見せているにすぎず、遺跡そのものは一切風化していないのだ。
想像するだけで気が遠くなるほどの年月。それを越えてなお、当時の姿のままに現存し続けている遺跡。正しく、これが古代文明の遺物であることが伺える。
「今なお生き続けているということか」
「どうしたのヤマト」
思わず口から言葉を漏らしたヤマトに、ノアは訝しげな視線を向けてくる。
「何でもない」とそれに軽く返してから、ヤマトは背後を振り返る。
「ずいぶんな大所帯になったな」
「皆、ここでの顛末が気になるようでな」
集落に立ち寄った際、そのままついて来ることになったヒカルが苦笑いと共に応えた。
ヤマトの視線の先にいるのは、各々が立派な駿馬に跨っていた、大勢の遊牧民たちだ。ミドリからどのように語られたのかは分からないが、それぞれが血に滾った面持ちでいる。
「荒事にならなければいいが」
「それはない――ことを、願うとしよう」
人々の怒りを隠せない面持ちを見て、ヒカルは不安気な言葉を漏らす。今のところは平静を装っているようだが、何かを契機として、いつそれが爆発してしまうかは分からない。あくまで帝国刑事法に則ったやり方での解決を目指しているのだから、不安材料になるものは極力遠ざけておきたいというのが、ヤマトの本音であった。
(できれば、連れてきたくはなかったのだが)
彼らがやって来たのは、彼ら自身が強く主張してきたことと、そんな彼らの心情を慮ったミドリとカインの言葉があったからだ。
ミドリのみならずカインまでそう口にしたことは意外だったが、二人からそう言われても固辞するものではないと、ヒカルは判断したのだろう。最後に渋々折れるという形で、彼らの同行を認めたことになる。
「いざというときは、分かるな?」
「勿論。あまり気は進まないがな」
念押しするヤマトの一言に、ヒカルは些か固い様子で首肯する。
それを見やって、ヤマトはひとまず懸念を意識の外へ追いやることにした。まだ起こりもしていないことを気にしすぎるのも、あまりよくはないだろう。
諦めの溜め息を噛み殺しながら前へ向き直ったところへ、カインと何事かを話し合っていたノアが戻ってきた。
「そろそろ来るって」
「ふむ。いよいよだな」
エスト遺跡に到着してすぐに、カインは駅から連れてきた憲兵の一人を遺跡の中へ走らせていた。権利書偽装の容疑がかけられているとして、アブラムをここへ呼び出すためだ。ヤマトたちだけならばそのまま遺跡へ入ったところなのだが、この場には集落に住む者全員が集まっている。それら全員で中に入るには、この遺跡は少々手狭になるだろうと判断したのだろう。
いい加減に寒風を受けてかじかんできた指先を擦り合わせながら、その場に介する一同をざっと見渡す。
「性質の悪い殴り込みのようだな」
「似たようなものじゃない?」
「……そうだな」
ノアの言葉に、ヤマトもややあってから小さく頷く。
表立って口にはしないが、ここに集結した遊牧民全員が、アブラムに対して一歩も譲らないという構えを取っていた。つまりは、実力行使すら厭わないという気構えだ。流石に抜刀している者こそいないが、いつでも射掛けられるように万全の状態で弓を手にしている者すらいる。
アブラムの持つ権利書が偽物であると認められたならば、まだ話は穏便に済むだろう。帝国が公認した下で、詐欺を働いたアブラムへ罰を下せばいいのだ。そこに何の不条理も生じないという意味で、アブラム自身の未来がどうなるかはさておき、一番理想的な終わり方と言える。
だが、もしも権利書が本物であった場合が問題だ。それはつまり、帝国の名の下でエスト遺跡がアブラムの所有地だと認められたことになる。今更遺跡は聖地として扱われていたと訴えることは非合理的であり、多少の譲歩はあれども、認められることはない。そんな結末を、ここにいる遊牧民たちは誰一人として認めないだろう。――そうなったときに、何が起こるか。
「ただの暴動で済めば、万々歳かなぁ」
「うむ」
アブラムの殺人で終われば、上々と言える。最悪の結末は、帝国とエスト高原の民草との戦いの幕開けだろうか。そうなれば、勇者たるヒカルの力でもどうすることもできず、ただ激動する世界の動きを眺める他に道はなくなる。当然、エスト高原を渡って勇者の武具を集めようという目的達成も遠のくことになり、更に悪ければ、対魔王の戦いを目前に致命的な穴を作ることになる。
それだけは、何としてでも避けたいところではあった。
「最後の手段に、馬なり魔導車なりを奪って北地に行くって手もあるけど」
「ふふっ、それはそれで楽しそうではある」
「流石に、ヒカルにそんな真似はさせられないよ」
魔導車を奪って帝国の罪人になるのは、流石に困難な道のりとなるだろう。だが案外、馬を奪って雲隠れしてしまうのは、それなりの成功率を持ちそうではあった。
とは言え、いずれにしても勇者らしからぬ行為であることに間違いはない。ヤマトとノアの二人旅であった頃ならまだしも、今のヤマトたちが取っていい方法ではなかった。
「ま、今からあれこれ心配しても仕方ないね。案外、あっさり穏便に話が進むかもしれないし」
「そう願うとしよう」
ノアの言葉に頷きながらも、ヤマトは横目でカインの顔を盗み見る。
(だが、奴は曲者のようだからな)
帝国で目覚ましい立身出世を遂げた実力者、という話だったが。
落ち着き払ったカインの様子を見ると、言いようのない不安感が膨れ上がっていくのはどういう訳なのか。
「――な、何だ貴様らっ!? 儂に用なのか!!」
形容し難い心地に包まれていたヤマトの耳に、一日振りにアブラムの声が届く。
それに安堵感を覚えるのはどうなのだと自問自答しながら、ヤマトは声が聞こえてきた方へ視線を投げた。
先日見たままの、趣味の悪い色とりどりな服を着たアブラムだ。大勢詰め寄せている遊牧民たちの気迫に圧されてか、その顔色は悪く、頬や額にはビッシリと脂汗が滲み出ている。彼の両脇を固めていた護衛すらも、顔面蒼白で身体を震わせている始末。
(やはり、小者だな)
そのことを確信するヤマトの視界の中で、カインが一歩前へ出る。
「失礼。今回の顛末を見届けたいという者が多かったため、このような大所帯になりました」
「ぬぅっ!? 何だ貴様は!?」
「私は帝国軍所属、カインと申します。貴方の持つ権利書について、直接監査の申請を受けてこの場まで参りました」
「ぬ、帝国軍の……」
殺気立った面々への不安感からか、声が大きくなっていたアブラムだが、冷静沈着に受け答えをするカインの態度を前にして、徐々に落ち着きを取り戻していく。
それに穏やかな笑みを浮かべながら、カインは再び口を開く。
「ご協力いただけますね?」
「権利書の直接監査か。どうやら、よほど先日の件が癪に障ったらしいな」
横柄な口調に戻ったアブラムは、懐から権利書を取り出す。よほど丁重に扱っていたらしく、先日見た通りにシワ一つ残されていない真新しい紙面だ。
「これが本物だと分かったならば、そいつらを立ち退かせろよ?」
「えぇ勿論」
カインの身に着けた軍服の勲章を見てか、アブラムの態度はカインに対してのみ柔らかくなっていた。仮にも帝国商人を名乗る者らしく、帝国軍人へは信頼を置いているのか。
特に何かを騒ぎ立てることもなく、素直にカインの手へ権利書を渡す。
「ありがとうございます。これが本物だと認められた場合、正式にこの遺跡が貴方の所有地であることを認め、彼らの主張は誤ちとなります。反対に、これが偽物であった場合には、貴方は権利書偽装を行った罪が科せられます」
「ふんっ、奴らが何を口にしたのかは知らんが、それは本物だ」
微妙に脅すようなカインの言葉に、アブラムはやけに自信満々に応える。彼のような小者であれば、多少は態度を変動させるように思えるのだが。
ふと隣にいたノアに視線を向けてみれば、ノアは何かを考え込んでいるようで、鋭い眼差しで権利書を見つめていた。
(何かあるのか?)
小首を傾げるヤマトを尻目に、事態は進んでいく。
「それでは、拝見します」
貴重品を扱うように恭しい手つきで、カインはアブラムの権利書を検分する。
遠目に覗き込んでみても、確かに先日見たのと同様の紙面だ。帝国の行政機関が発行するサインが記され、正式な文面が記述されている。
「ふむ。確かに、これは行政局が発行するものと同様の文面ですね。サインも、確かに同じものだ」
「当然であろう?」
カインの漏らした言葉に、アブラムは勢いづいたように声を上げ、対照的に遊牧民らは殺気を強める。
「文面に不都合な点はありません。記述に使われたインクも、行政局が使うものと同様ですね」
「インクだと?」
「えぇ。この特殊な光を当てると、字が見えなくなるのですよ」
そう言ってカインが懐から取り出してみせたのは、小型の照明用魔導具だ。どうやら光の出し方に特殊な術式を組んでいるようで、放たれる光は紫色に染まっていた。
権利書のインクにそうした機能が備わっていることは知らなかったのか、アブラムは素直に感心するような表情を覗かせている。
(彼が偽装した訳ではない、ということか?)
自分が作ったものならば、こうも純粋に感心してみせたりはしないだろう。
思わず首を傾げるヤマトの前で、カインは何度も権利書を検めた後、深く溜め息を吐く。
「ありがとうございました。確かに、この書面に記述されているものは行政局が発行したものであり、何ら不備はありません」
「なぁっ!?」
「ふん! 初めからそう言っているではないか!!」
驚愕の声を漏らすミドリに、得意気にふんぞり返るアブラム。
その二者のそれぞれ見やってから、カインはおもむろに懐からライターを取り出した。
「――ですが、これは偽物ですね」
「「は?」」
誰が止める間もなくライターの火を灯したカインは、そのままアブラムの権利書に火を近づける。
その場にいる全員が呆然とカインの行動を見つめる中、ライターの火は権利書へと燃え移り、そのまま紙面を焼き上げた。