第165話
「長老、こちらはお願いするわね」
「うむ。任せておきなさい。だから、そちらも気をつけるのだぞ」
陽が地平から空に昇り、寒風吹き抜けるエスト高原を暖かく照らし出す。
先程よりも寒さの和らいだ風が吹く中、朝の一仕事を終えた人々に見守られて、ミドリと長老が言葉を交わしていた。
「皆真剣な顔だね」
「ここの者にとっては一大事だからな」
使命感に燃えるミドリと、そんな彼女の身を案じる長老。ミドリへ希望を託す面持ちな遊牧民の面々。
彼らの表情を一つ一つ見渡しながら、ヤマトは隣にいるノアの言葉に首肯する。
エスト高原に住む遊牧民が聖地として扱ってきた、古代文明の遺跡。そこを不当に占拠しようとしているアブラムの企みを妨げるため、ヤマトたちはこれから、近くにある駅に駐在する帝国の鉄道憲兵隊の詰め所へ向かうことになっていた。帝国出身ゆえに彼らの流儀に聡いノア、エスト高原の遊牧民を代表するミドリに加えて、彼らの護衛としてヤマトとレレイが同行する予定だ。
「でも、ただお願いしに行くだけなんだけどね」
「そう言うな」
「大げさじゃないかな?」と言いたげなノアの表情には、苦笑いを浮かべるしかない。
この高原に足を踏み入れる前に立ち寄った駅だが、帝国につきまとう物々しいイメージとは裏腹に、その雰囲気は非常に和やかなものであった。北地へ向かうヒカルたちに道案内をする際の口振りから察するに、彼ら鉄道憲兵隊の面々も、ここの遊牧民らとは相応に親しいのだろう。彼らを助けるためだと念押しすれば、きっと協力を得られるはずだとヤマトとノアは考えていた。
もう一度ミドリの方へ視線をやれば、今度は集落の若者衆に捕まっているらしい。彼らはアブラムへ即刻報復すべしという過激な主張をした者たちだが、その分、この高原への愛着心が強いとも取れる。アブラムの手を退けるため、ミドリの働きに期待を寄せていることだろう。
「まだしばらくかかりそうだね」
「あぁ」
とは言え、ヤマトとノアとしては、そろそろ出発したいというのが本音ではある。
どことなく遠い目になって空を見上げたヤマトの耳に、聞き覚えのあるくぐもった声が届いた。
「これから出立か」
「やぁヒカル」
ノアの声に視線を落とせば、遊牧民の集団から抜け出してきたヒカルとリーシャの姿が目に入った。彼女たちは昨日と同様、この集落の護衛として留まる予定だ。
エスト高原には鳥型魔獣を始め、人の手がほとんど入っていないがために強力に育った魔獣が数多く生息している。馬や羊の世話に手を取られる人々を守る役割は、普段はミドリが請け負っていたようだが、彼女がヤマトたちと共に行動する以上は、その代役を誰かがこなす必要があったのだ。それを、集落の者と親交を深めるという点も考慮して、ヒカルとリーシャが請け負うことになっていた。
すぐ傍まで歩み寄ってきたヒカルは、ヤマトとノアが見つめていた先――若者たちに取り囲まれているミドリへ視線をやると、兜の中から笑い声を漏らす。
「人気者だな」
「本当にねぇ。どうやらレレイも、あの人には気になってるところがあるみたいだし」
「あぁ、確かにそうだな」
件のレレイはと言えば、既に荷物をまとめ終えた後らしく、駅までの足となる馬の隣からミドリの方へ視線を投げていた。
ノアが指摘したように、エスト高原に来てからというもの、レレイの心はミドリに奪われているらしい。初対面の頃からミドリのことを何かと意識し、数日前には初対面だったとは思えないくらいに、今では親交を深めているようだ。
「何が琴線に触れたんだろうね」
「さてな」
ヤマト自身、人づき合いは相当に苦手なのだ。レレイとミドリが心を通わせている理由など、思い浮かぶはずもない。
そう首を傾げるヤマトに対して、ノアはミドリの方へ視線を投げながら、ふと小首を傾げる。
「ねぇヤマト。ミドリさんのことなんだけどさ」
「うむ」
「どこかであんな感じの人を見た気がするんだよね」
「………」
その言葉を受けて、改めてミドリを視界に捉える。
風を受けて柔らかく流れる銀色の髪に、雪のように白い肌。およそ現実の人とは思えないほどに顔立ちは整っており、一目すればもう忘れ難いほどに強い存在感がある。
(確かに、引っかかるものはあるのだがな)
既視感にも似た感覚は、ミドリを初めて見たときに覚えたものだ。とは言え、あのような人を見て忘れるようなはずがないと断言できるため、気のせいかと頭の隅に置いておいたのだが。
「ノアも感じたのか」
「も。ってことは、ヤマトも感じた訳ね」
「うむ。ひとまず、気のせいとしていたのだが」
その理由は何だろう。
答えを求めてノアへ視線をやるものの、彼も明確な答えは導けていないらしい。喉に小骨が刺さったような煮え切らない表情で、小さく困惑の声を漏らしていた。
「ヒカルとリーシャは、そういうのは感じてる?」
何気なしにヒカルとリーシャの方へ話題を振るノアだったが、二人はその言葉に首を傾げる。
「うん? いや、特にないな」
「えぇ、私もないわね。あんなに綺麗な人なら、一度見たら忘れないと思うのだけど」
「うーん、それは確かにそうなんだよね……」
ヒカルとリーシャは、ヤマトたちのように既視感に似た感覚を覚えてはいないらしい。ということは、彼女たちと旅を共にする前――聖地ウルハラにて出会う前に、ヤマトとノアが経験したことが原因だろうか。
ふらっと視線を彷徨わせて、もう一度ミドリを視界に捉える。
「そういえばミドリさん、元々はこの集落の――いえ、この高原出身の人じゃないみたいよ」
「ふむ?」
「そうなのか?」と尋ねる視線を向ければ、リーシャは小さく頷く。
「ずっと昔に、長老さんが拾ってきたそうよ。銀髪は北地出身の人に特徴的なものだから、そこで捨てられた孤児だったんじゃないかって」
「よく知っているな」
「護衛をしているときに、ちょっとした世間話をしたのよ」
視線を横へズラしたリーシャに、ヒカルも頷く。
護衛仕事を通じて集落の人々と親交を深めるという目的を、彼女たちは順調に果たせているらしい。そのことに感心させられながら、ヤマトは口を開いた。
「だが、北地出身なのか」
「知り合いはいる?」
「……いないな」
大陸各地から出てきた武道家と試合したことがあるが、その中にも、極寒の北地から出てきたという者とは会ったことがない。せいぜい、このエスト高原で遊牧民として暮らしていた者が限界なのだ。
問い返すようにノアへ視線を向ければ、そちらからも否定の念が返ってくる。
「僕たちに北地出身の知り合いはなし。当然、レレイにもないだろうね」
「ふむ」
結局、胸中にわだかまる既視感の正体は掴めないままらしい。
申し訳なさそうに眉尻を下げたリーシャに手を振ってから、ヤマトは視線を上げる。
「そろそろ出立のようだな」
「あ、ようやく解放されたみたいだね」
若者たちの声かけが終わったらしく、少々疲弊した面持ちのミドリが歩み寄ってくる。
その姿に苦笑いを浮かべながら、ヤマトはモヤモヤとした感覚をひとまず意識の隅へ追いやった。




