第163話
長い階段を昇り切り、地上へと出る。その瞬間に差し込んできた陽光の眩さに、ヤマトは思わず手で目を覆い隠した。
「結構時間かかった気がしたけど、まだ陽は高いみたいだね」
「帰った頃には、日没になっていそうだがな」
既に昼はすぎた頃合いだ。まだ明るいと油断していては、あっという間に夜闇に囚われることになってしまうだろうか。
束の間の安らぎの後に、高原の寒風が吹き抜ける。着込んできたコートの襟元を思わず寄せたヤマトは、後から続いて出てきたミドリが、今一つ浮かない表情をしているのを目にする。
すぐ隣にいるノアに視線をやれば、ノアは苦笑いを浮かべた後に、ミドリに向かって口を開いた。
「やっぱり納得はできない?」
「……えぇ。今こうしている間にも、あいつらが神殿を荒らすかもしれないと思うと、正直ね」
そう言いながら、ミドリは険しい表情で地下の遺跡を振り返った。
エストという名で呼ばれたらしいこの遺跡は、これまでは高原に住む遊牧民たちの聖地として扱われてきた。遺跡には大いなる風の神が住んでいると信じ、彼ら自身の手で丁重に保全してきたのだ。
それが、突然やって来た胡散臭い男アブラムが、エスト遺跡は自分の土地であると勝手に主張し、遊牧民たるミドリの立ち入りを拒否した。去り際のアブラムの様子から察するに、彼はこの遺跡を金儲けの手段として利用する算段なのだろう。このまま放置してしまえば、遺跡が跡形もないほどに荒らされてしまうことは、想像に難くない。
「今からでも引き返さない? あいつらも手練って訳じゃなかったから、捕まえることは難しくないと思うのだけど」
「まぁ、それは確かにね」
頭に血が昇っているのか、ミドリが語気を荒くしてそんなことを口にする。
それと対照的に冷静な面持ちを崩さないノアは、ミドリの言葉に小さく首肯する。
「僕が見た限り、あいつらは小悪党もいいところだよ。アブラムって男は成金にもなれてない商人だし、その護衛もせいぜいチンピラ程度」
「なら……!」
「だけど、手を出す選択肢はないかな。少なくとも、あのときや今からは」
その理由は、アブラムが持っていた権利書と、ノアが語った帝国刑事法に集約されている。
果たして真実なのかが疑わしくなるほど胡散臭い男だったが、確かにその手には、行政機関のサインつきの権利書が握られていたのだ。つまり、アブラムの行動を帝国が認可しているということになる。今すぐにアブラムを拘束するという行為は、すなわち帝国の決定を否定するという意味を含むことになってしまう。
「今動けば、遺跡が荒らされることは確実に防げる。けど、その代償に帝国がこの地に踏み入ることを許してしまう。その結果がどうなるかまでは読めないけど、最悪の場合には、この高原が帝国に支配されるなんてこともあり得るかもね」
「く……っ!」
理路整然としたノアの言葉に、ミドリは咄嗟に反論することができない。悔しげに歯噛みした後、燃えるような激情を秘めた瞳で地面を睨めつける。
「あの神殿は、皆が守ってきた場所なのよ。それを、何も知らない男が好き勝手に荒らすだなんて……!」
「どうするにしても、まずは集落の人に報告するのが先かな。相手がちょっと大きすぎるから、慎重に事を進めないと」
その言葉は、紛うことなき真実なのだろう。
ミドリたち遊牧民が相手にする存在――帝国は、大陸に覇を唱えることも可能だろうと目されるほどの大国だ。精力的に他国へ侵略する動きこそ見せていないものの、他の追随を許さない魔導技術や文化を駆使して、徐々に帝国の力を大陸中に浸透させている。帝国文化で大陸を統一するという野望を、完全には捨て去っていないだろうというのが、大陸中で共通した見解だった。
そんな帝国を相手に、無闇につけ入る隙を見せるべきではない。誇張表現ではなく、純然たる真実として、エスト高原が帝国の版図に組み込まれるという未来は、想像に難いものでは決してないのだ。
「ふむ。帝国とは、それほどに強大な国なのか」
「まぁね。その気になれば、大陸中の国を相手取るくらいはできるでしょ」
軽い調子で口にしたノアの言葉に、レレイは顔を顰める。
アブラムがやろうとしている遺跡荒らしは、ミドリを始めとする遊牧民にとって到底許せるものではない。かと言って、アブラムの暴挙を止めようという行いは、大陸随一の国家である帝国相手に喧嘩を売ることになり、遊牧民たちに明るい未来は望めない。
八方塞がり、とでも言うべきか。
「………」
ミドリは深刻な表情で考え込む。そんな彼女に心配そうな視線を投げたレレイは、その後にノアの方へ目を転じさせた。
「ノア。何か手はないのか?」
「うーん? ない訳でもないんだけどね」
「知恵を貸してはくれないか。私は、ミドリたちの力になりたい」
存外に強い意思を秘めたレレイの瞳を横から伺って、ヤマトはそっと息を漏らす。
この集落に来てからというもの、レレイがミドリのことを何かと気にかけていることは知っていた。朝方にミドリから弓術の手ほどきを受けていたのも、彼女なりにミドリに歩み寄ろうとしたものなのだろう。何がレレイを衝き動かしているのかまでは分からないが、ミドリの力になりたいという思いは、確かに本物であるように見える。
思わず感慨深くなってから、ヤマトは相変わらず呑気な表情をしているノアに視線を投げた。軽く咎めるように視線を鋭くさせれば、ノアはおどけるような笑みを浮かべた後、小さく肩をすくめる。
「そろそろ言ったらどうだ? 既に、手立ては考えついているのだろう?」
「うん、まぁね」
飄々としたその言葉を受けて、ミドリは勢いよく面を上げる。
「手があるの!?」
「確実、とまではいかないけど。それなりに分のいい手ではあると思うよ」
「……聞かせてもらってもいい?」
「勿論」
「ひとまず、帰りながら話そうか」と口にして、ノアは集落への帰路を歩き始める。
その背中を追いながら、ミドリはノアの言葉を真剣な面持ちで待ち構える。
「まず初めになんだけど。さっきのやり取りで、僕は一つ疑ってることがあるんだ」
「それは?」
「アブラムって人が持ってた権利書は、果たして本物なのかってこと」
その言葉を受けて、ミドリはすっと視線を鋭くさせている。
「つまり、奴は偽物の権利書を盾にして、私たちを追い払ったということか」
「推測だけどね」
「理由は?」
静かに怒気を昂ぶらせたミドリを尻目に、ヤマトが声を上げた。
「相応の根拠はあるのだろう?」
「うん。何か一つに絞るのは正直難しいところだけど、色々とね」
応えながら、ノアは指を立てる。
「帝国の権利書を持ち出したってことは、あの人たちは帝国商人のはず。帝国商人は普通、その身分証は常に持ち歩いているはずなんだけど、あの人はそれを出そうとはしなかったよね」
「求めなかった、という面はあるだろうがな」
「それでも、まず身分を明かすときに提示するのは、商人の基本だよ」
言ってから、二本目の指を立てる。
「次に、護衛の質が悪すぎる。仮にもあんな格好ができるだけの財産があるなら、もっとまともな護衛を雇えるよ」
「見る目がなかったか、その分の費用を嫌ったか」
「エスト高原に踏み入ろうっていうのに、そこを敬遠する手は正直ないかな」
そして、三本目の指。
「これまでミドリたちが見かけなかったのに、権利書を持っている。権利書を発行するためには結構な手続きが必要になるのに、ミドリたちがそれに気づかなかったとは考えづらいよね」
「ふむ」
第一発見に加えて、権利書発行のための調査を数度。それだけ訪れたにも関わらず、ここの人々がまったく気がつけなかったというのは、確かに考えづらい。
「まだ幾つか根拠はあるけどね」とつけ加えたノアは、改めてミドリの方へ向き直る。
「そんな理由で、たぶんアブラムっていうのは偽物商人だね。それこそ、盗賊の変装って考えた方が合点がいく」
「なら――」
一気に遺跡へ駆け戻ろうとしたミドリを、ノアの言葉が止める。
「だけど、それでも手を出す訳にはいかない。仮にも帝国の名がついたものを無視するというのは、帝国に対して、あまりいい感情を与えないからね」
「ぐぬ」
「だからここは、帝国自身に登場を願うのが筋かな」
その言葉に、ミドリは目を丸くさせる。
対してヤマトとレレイの方は、「確かにな」と納得の首肯をする。
「この近くに、鉄道憲兵隊が駐在している駅がある。事情を話せば、彼らが動いてくれるはずだよ」
「……結局は人任せになるわけね」
「気が乗らない?」
穏やかな笑みを浮かべたノアの言葉に、ミドリは小さく頷いた。
エスト遺跡を荒らそうと踏み込んできた賊の始末。確かに、普通の感覚ならば、エスト遺跡を聖地として祀ってきた遊牧民たちの手によって解決すべき事態に思える。それを、悪く言えばただの隣人にすぎない帝国に対処を願うとは。
今一つ納得していない様子のミドリを諭すように、ノアは再び口を開く。
「見方を変えれば、今回は帝国が喧嘩を売られた形にもなっているんだよ。アブラムって人たちは、帝国が強い力を持つ国であることを知った上で、それを利用しようとした。帝国の名が騙られているかもしれないんだ。なら、彼らが当事者だって言うこともできそうでしょ?」
「……そう、ね」
どうにかノアの言葉を飲み込もうとしながら、ミドリは小刻みに首肯する。
その姿をチラッと一瞥してから、ヤマトは口を開いた。
「なら、彼らに助力を乞う方向で考えればいいか」
「うん。日没も近いし、まずは集落の人たちに伝える必要もあるから、本格的に動くのは明日からになりそうだけどね」
「慌ただしくなるな」
とは言え、遊牧民たちの信頼を勝ち得るというヒカルたちの目的と照らし合わせれば、諸手を挙げて歓迎すべきことなのかもしれないが。
ヤマトとノアの会話を聞いて、逸る気持ちを抑えるように深呼吸をしてから、ミドリはヤマトたちの方に改めて向き直った。
「ありがとう。あなたたちのおかげで、何とか解決への道が見えた気がするわ」
「大げさだよ。案外、実力行使に出た方が楽に片づいたかもしれないしね」
「それでもよ。私だけだったら、きっと勝手に先走って、皆に迷惑をかけていただろうし」
「だから、ありがとう」と真っ直ぐな瞳で礼を告げるミドリから、ノアは照れくさそうに目を逸らす。
どこか穏やかな空気が流れる中、ヤマトは一人、何かを探るような眼差しでノアの横顔を伺っていた。