第160話
日課であった早朝鍛錬と、その最中のミドリとの交流も終わった後。ヤマトたちは、遅れて起き出したヒカルたちと共に、少し遅めの朝食を始めていた。
「食料を持ち込んだのは、正解だったかな」
「違いない」
ボヤくように声を漏らしたヒカルに、ヤマトは小さく首肯する。
ヤマトたちが朝食を並べた天幕の中に、他人の視線は入ってこない。そのことを確かめているからか、今のヒカルは鎧兜の一切を外して、ずいぶんと肩の軽そうな様子であった――が、その表情は思いがけないほどに暗い。
ヒカルにそんな表情をさせている原因は、円座するヤマトたちの中心に置かれた鍋の中身にあった。
(不味い、という訳ではないのだろうが)
ずいぶん使い古されたような鍋に入れられているのは、この集落の人々から渡してもらった料理だ。長持ちさせることを最優先に作られた硬い干し肉を、搾りたての羊の乳で煮込み、簡単なシチューのように仕立て上げたもの。それが溢れるほどに、鍋に盛られていた。
問題は、それ以外の品が見当たらなかったことだろう。あれば嬉しいサラダがないのみならず、あるべきパンの一欠片も存在しない。ただシチューだけが、ヤマトたちの前に鎮座していたのだ。
「とりあえず、それぞれ一杯ずつね。お代わりは自由にどうぞ」
「うむ」
ノアの言葉に頷く。
聞けば、彼ら遊牧民の食事といえば、ただこうしたシチューを飲むだけに尽きると言っても過言ではないらしい。野菜や穀物を得ることはできず、食料にできるのはただ獣の肉や乳のみという暮らしぶりならば、確かにそうなるのも自然なのかもしれない。事実、彼らはその食事で長年生きてきたのだから、致命的な問題がある訳ではないのだろう。
とは言え、シチューだけで完結してしまう食事というのは、あまりにヤマトたちの常識から逸脱している。誰が何と言うでもなく、ヤマトたちは自然と持ち込んできた加工食品も並べていた。
(見た目で忌避するというのも、失礼ではあるか)
ひとまず、街の常識に沿った食事風景が整ったところで、ヤマトはシチューを注がれた器に視線を落とす。
食卓の一つとして見るならば、何ら不自然なところのない、普通のシチューだ。気になるのは、そのスープの中に野菜の気配を欠片も感じないことだが。
(いざ――)
ヒカルたちの視線が突き刺さるのを感じながら、シチューを口に運ぶ。
しばし舌と鼻でそれを楽しんでから、ゴクリと飲み込む。
「……なるほど」
「どう?」
ヤマトの感想を聞くまでは、手をつけないでおこうという判断だろうか。微妙な警戒心を伺わせる瞳で、ノアが尋ねてきた。
それに首肯を返してから、口を開く。
「独特な味だ」
「そっかー……」
その一言で、ヤマトが言わんとしたことを察したのだろう。ノアは端正な眉尻をくいっと下げて、日頃からは想像できないほどに情けない表情になる。
そんな顔を見て微かな笑みを浮かべながら、ヤマトは先程の味を思い返す。
(これが異文化の味というやつか)
シチューを口に含んだ途端に感じたのは、思わずむせ返りそうになるほどの獣臭だ。集落中に漂っている馬や羊の香りを、まとめて凝縮させたような匂いの爆発。率直に言えば、微かに抱いていた期待の念は、その瞬間にヤマトの頭から消し飛んでいた。
他方、その味の方はと言えば、こちらは存外に悪くはなかった。硬い干し肉を、人の口で食べやすい柔らかさまで煮込んだおかげか、スープには期待以上に肉の味が染み渡っており、ヤマトの舌を楽しませてくれる。羊の乳の方も、匂いこそ強烈であったものの、その味自体はこれまで食べたことがないようなもので、思いの外堪能できたのだ。
(問題は、この匂いだな)
いつだったか、似たような感想を抱いたことを思い出す。
溢れ出すほどの獣臭さは少々――いや、相当な問題であったが、一方の味は及第点だった。異文化の味だと身構えた上で味わってみれば、楽しむこともできるだろう。
無意識にシチューの脇にある加工食品――煮物の缶詰に手を伸ばし、慣れ親しんだ味にホッと息を漏らす。
(思えば、凄まじい発明だ)
ヤマトの頭に新しく浮かんだのは、今口にしている加工食品のことだ。
帝国の魔導技術発展に伴って開発された代物であり、これによって、大抵の食物に数ヶ月の保存が可能となった。大陸を襲っていた深刻な食糧問題を解決する一助となったことは疑いようもないが、それと同時に、ヤマトのような冒険者にもたらされた恩恵も莫大であった。
このシチューに投じられた干し肉のように、通常ならば保存するだけでも相当に味を落としてしまうところを、帝国の技術によって味を保つことが容易になったのだ。ただ保存のことを考えるだけではなく、より美味く食べられるように、その味の研究すら精力的に進められている。そのおかげで、今のヤマトたちはこうして、街中で食べるのと大差ないような食事を楽しむことができていた。
(帝国には足を向けて寝れないな)
元より、帝国を蔑ろにしていた訳ではないのだが。
その気持ちを一層強めながら、ヤマトは再びシチューを口に運ぶ。
「――そういえばさ」
再び襲い来る獣臭を受けて、目に涙を滲ませたヤマトの耳に、ノアの声が滑り込んでくる。
表を上げれば、ノアは加工食品のパンを手にしながら、存外に真剣な眼差しをしていた。
「結局、僕たちは馬を借りるために、ここの人たちと信頼関係を築く必要がある訳じゃん?」
「そうだね」
その言葉に首肯したのは、どことなく目を潤ませたヒカルだ。彼女も、ヤマトに続いてシチューを口にしたらしい。
そんなヒカルの様子に苦笑いを浮かべてから、ノアは改めて口を開く。
「でも、具体的に何をすればいいと思う? 仕事を手伝おうにも、僕たちじゃ足を引っ張るだけになりそうだし」
「それもそうか」
応えるヒカルに続いて、ヤマトも首肯する。
この集落に住んでいる遊牧民は、陽もまだ姿を見せないような早朝から働き始め、一日を馬たちの世話に費やしている。獣たちが文字通りの生命線である彼らからすれば、それは熟練の者によって行われるべきものであり、信用のできない他人を関わらせていいものではない。昨日ここへやって来たばかりのヤマトたちが、今日から仕事を手伝うなどと申し出たところで、彼らからすれば迷惑にしかならないはずだ。
善意は、決して無条件で感謝されるものではない。善意から始まったものであっても、相手にとって害になるのであれば、それは非難されるべきなのが道理だ。
ならば、相手にとって得になるようなものが何か、真剣に考える必要がある。
「僕たちがやってもいい程度の雑用を片づけるのでもいいけど、それじゃあね」
「ちょっと気の長すぎる話かな」
最も確実な手段ではあるが、あまり歓迎できる手ではない。
こうして呑気な日々を送っているように見えて、ヒカルはそれなりに先を急ぐ身だ。間もなく来るはずの魔王襲来に備えて、大陸各地に散らばった初代勇者の武具を集め、その脅威に戦えるだけの力を蓄えなくてはならない。一日二日急いだところで変わる話でもなさそうだが、それでも、いたずらに時間を浪費していい理由にはならないだろう。
既に剣、鎧、篭手の三つを揃えたヒカルだが、武具はまだ二つ残されている。その内の一つを早急に回収すべく、一刻も早く北地入りを果たしたいのが本音であった。
「なら、何か手を考えないといけないか」
「そそ。アイデアがないかなと思ってさ」
軽い口調で告げられたことだが、それはヒカルたちが真剣に考えるべきことだ。
虚空に視線を流したヤマトは、ややあって口を開く。
「彼らの真似事をすることはできない。俺たちだからこそできることを、何かするべきだろうな」
「僕たちだからできることねぇ?」
ぐるりとノアが視線を回す。
救世の勇者ヒカルに、その教導役である聖騎士リーシャ。そのお供をする冒険者ヤマト、ノア、レレイ。
「見事に戦闘寄りだね」
「なら、その方向で尽力する他あるまい」
つまりは、腕っ節を活かすような仕事をするべきだ。
そんなヤマトの言葉に、ヒカルたちも納得したように首肯する。
「馬の世話をする人たちの護衛、とかかな。地味だね」
「それ以外の手立ては浮かばん」
一瞬、故意に騒乱を起こしてから解決すればいいのではないかと、危険な発想が思い浮かぶ。集落の者たちに事情を悟られないという前提があるならば、最も手っ取り早く恩を売ることができるが。
(流石に、な)
即座に首を横に振り、その思想を脳から追い出す。
どうしたものかと考えながら、再びシチューを飲もうとしたヤマトの耳に、朝に聞いた声が滑り込んでくる。
「――失礼するわよ」
声の方へ視線をやれば、幕を上げてミドリが顔を覗かせていた。
「食事中だったのね。ごめんなさい」
「気にすることはない」
天幕の中を見渡し、並べられた料理を見て申し訳なさそうな表情を浮かべたミドリに、ヒカルが厳かな声で応える。
思わずヒカルの方を見ると、先程までの気楽な姿が嘘のように、完全装備の鎧姿になっているのが分かる。常軌を逸した早着替えだが、それも時空の加護による恩恵なのだろうか。
「それで、何用だ?」
「ちょっと頼みがあってね。あなたたちにお願いしたいのよ」
「ほう」
ちょうどいいタイミングと喜ぶべきか、頭を悩ませたことが無駄だったと嘆くべきか。いずれにせよ、もう煩わしい思いをしないで済みそうなことは間違いない。
ヤマトたちにさっと視線を巡らせたヒカルは、一度小さく頷いてみせてから、ミドリの方へ向き直る。
「詳しく聞かせてもらおう」