第159話
翌朝。
寝床にしていた天幕から抜け出した途端に、ヤマトの肌を冷たい風が撫でていった。
「相変わらず、よく冷える」
僅かに頭の隅を鈍らせていた眠気が、その寒風と共にどこかへ吹き飛ばされる。
ガチガチと歯の根が合わなくなるところを必死に堪えながら、ヤマトはさっと辺りに視線を巡らせた。
(ずいぶんと朝が早い連中なのだな)
ヤマトの視界に入ってきたのは、まだ陽も姿を見せ切っていない刻限だというのに、精力的に辺りを歩き回っている遊牧民の姿だ。まだ眠っている馬や羊たちを起こさないような静かな動きで、水汲みや馬具磨きなどをせっせとこなしている。それら全てが、上質な馬を育て上げるためにこなされているのだ。
その勤勉な姿にホッと感嘆の息を漏らしてから、手に握っていた木刀の柄の感覚を意識する。
(俺も気合いを入れなくてはな)
彼らの働きぶりに影響された、訳ではないだろうが。
なんとなしに気合いを入れて深呼吸をしたヤマトは、鍛錬のための空き地を求めて、辺りを見渡す。
「む?」
その途中、想定していなかったものが視界に入り、思わず声が漏れた。
忙しなく人々が動き回る中に、誰も立ち入ろうとしない空間がある。その中心で、朝の風に銀色の髪をたなびかせながら、一人の女性――ヤマトたちを集落まで案内してくれた女性が、弓を構えて悠然と佇んでいた。身を凍えさせる風の冷たさに動じることなく、まるで彫像が熱を持ったかのように整然とした立ち姿で、キリッと一点を見つめながら弓の弦を引いている。
劇の一幕であるかのような、美しい情景。何の脚色もなしに一つの絵画となり得る佇まいに、ヤマトはそっと息を呑む。
(見事なものだ)
刀術ばかりに興じて弓術には大した心得もないヤマトだったが、それでも感じ入ってしまうほどの力を、そこからは感じられた。
弓術には一射絶命という言葉があるという。要は、一射一射に己の命を賭けるだけの真意を込めろといった意味合いの語らしいが、その女性の構えからは、確かにそれに等しい集中力が伺える。思わず呼吸をすることすら躊躇ってしまうほどの緊迫した空気が、辺りに張り詰めていた。
「ふ――っ」
食い入るようにヤマトが凝視する中、張り詰めた弦が弾かれた。同時に、一閃の光筋が空を駆ける。
無意識にそれの飛ぶ先へ視線をやったヤマトは、立てかけられた的の中心へ矢が突き刺さる瞬間を目にする。思わず、ホッと息が漏れた。
「見事なものだな」
「む、レレイか」
突然横から聞こえてきた声に、ヤマトは咄嗟に視線を投げる。そこには、昨日買ったばかりのコートに身を包んだレレイが立っていた。
先程まで眠っていたはずだというのに、その横顔には眠気の欠片も残されていない。むしろ、まるで戦を目前に控えた武人であるかのように、瞳に爛々と輝く炎を灯していた。思わず視線が吸い寄せられてしまうほどの熱量が、レレイの身体から立ち昇っている。
武術の世界に足を踏み入れてから日の浅いレレイからしても、彼女の一射には、その魂が揺さぶられたということか。そのことに思いが至り、ヤマトは胸が温かくなるのを自覚する。
「弓か。島にも古いものは残っていたが、使える者はいなかったな」
「あの島ならば、それも仕方あるまい」
レレイの故郷であるザザの島を一言で現すならば、高温多湿のジャングルだ。誰の手も寄せつけないほどに木々は複雑に絡み合い、人や魔獣はその隙間をかい潜るようにして生活を営む。見通しがいいような場所はほとんど存在せず、遠距離武器の代表とも言える弓が輝ける場面もない。自然、島に住む人々から弓の記憶が薄れていくのも、当たり前な話ではあるのだろう。
(惜しい話ではあるがな)
ヤマトの感覚からすれば、弓とは、戦場の花形とでも言うべき武器だ。遠距離からの殺傷が可能であり、弾も安価。扱いも極端に難しいものではなく、兵士として相応の鍛錬を積んでさえいれば、誰でも扱うことができる。猛者が刀や槍を振り回すよりも、素人が弓を放つ方がよほど恐ろしくあるほどだ。魔導技術の発展が遅れた極東の地などでは、今でも主戦級の働きを見せていることだろう。
このエスト高原も、極東と同様に、未だ帝国の手が及んでいない地であるらしい。ならば、彼らもまた弓を重宝しているのだろう。
そんな推測をヤマトが並べていると、矢を撃った後の姿勢から微動だにしていなかった女性が、ふっと息を漏らした。弓の構えを下ろした後、ヤマトとレレイの方へその視線を投げる。
「そこで見てないで、こっちに来たら?」
「む、そうか?」
鍛錬を中断させてしまったような気まずさを覚えながらも、ヤマトとレレイは足を前に進めた。
何と話したものかと頭を働かせたヤマトを余所に、レレイが意気揚々と口を開く。
「見事な腕なのだな。思わず見惚れてしまった」
「そうなの? 外の人の腕を知らないから、何とも言えないけど」
「ふむ? 確かに、弓を使うような者はそういなかった気もするな」
確かめるようなレレイの視線に、ヤマトも小さく頷く。
極東ならまだ使われていると言ったが、それはあくまで、極東ならという話だ。魔導技術に代表される様々な技術が発展した大陸においては、弓はもうほとんど使われなくなっていると言っていい。その理由は多岐に渡るが、一番に挙げられるのが、矢で貫けない上に機能的な装甲が開発されたことだろう。魔獣の素材を上手く織り込むことによって、人の服は見た目以上の頑強さを得るに至ったのだ。
とは言え、そうした事情とは関係なしに、女性の弓術の腕が並外れているという事実は揺るがない。
「卓越した弓捌きだ。ともすれば、大陸一も狙えるかもしれんな」
「それは言いすぎじゃない?」
「さてな」
凛々しい表情との差異の大きい、パッと花が咲くような笑みを女性が浮かべる。
思わずそれから視線を逃がすヤマトとは反対に、レレイはますますの熱を帯びた様子で口を開いた。
「少なくとも、私が見た中なら一番だったぞ」
「ふふっ、褒めすぎよ」
満更でもない様子ながら、女性は視線を空へ投げる。少し考えるような素振りを見せた後に、その言葉を口にした。
「でも、そうね。ちょうどいいかもしれないし、少し弓を引いてみる?」
ちょうどいいというのは、昨夜に集落の長老が口にしていたことに関係しているのだろう。ヤマトたちが信用に足る人物なのか、見極める。その一環として、ここで交流を持つのもありだという判断か。
そんなヤマトの思考を尻目に、レレイはその猫のような目を輝かせた。
「いいのか!?」
「えぇ。ここの人たちも、もうあまり弓を使わないみたいだから、きっと余ってるはずよ」
「是非お願いしたい!」
元来の強い好奇心に圧されるように、レレイは勢いよく頭を下げた。
そのあまりに素直な動きぶりに、女性は目を丸くした後、そっと噴き出すように笑みを零す。
「分かったわ、教えてあげる。あなたの方はどうする?」
「……俺はこいつがあるからな。見学に留めさせてもらおう」
手元の木刀を揺らしながら、首を横に振る。
正直に言えば興味は尽きないところだったのだが、刀術もまだ道半ば。講師役は一人しかいないのだから、生徒役はレレイ一人に任せてしまう方がいいだろう。
「そう? 遠慮しなくていいのに」
微妙に残念そうな表情を浮かべてから、女性は「あっ」と何かに気がつくような素振りを見せる。
「そういえば、まだ名前を言ってなかったわね」
「む? 言われてみれば、そうかもしれんな」
きょとんとした様子のレレイも、小さく頷く。
「私はレレイだ。冒険者をしている」
「ヤマト。冒険者だ」
二人の端的な自己紹介を受けて、女性は微笑みを浮かべる。
「レレイにヤマトね。私はミドリ。ここに暮らしている――そうね、用心棒ってところかしら。よろしくね」
そう言って手を差し出した女性――ミドリに、ヤマトとレレイは共に頷き、握手し合った。