第156話
「ほぅ! これは暖かいな!」
補給係の鉄道憲兵が並べたコートの一つを羽織って、レレイがはしゃいだ声を上げた。
それを温かい目で見守りながら、ヤマトとノアは言葉を交わす。
「流石は帝国製と言うべきだな」
「ヤマトも貰っておく?」
「……そうだな」
ノアの言葉に曖昧に応えながら、ヤマトはコートを手に取る。
一見してありふれたコートのようであるが、その軽さは尋常ではない。頑丈そうな見た目に反して、その重みが不思議なほどに感じられないのだ。薄手に作られているのかと視線を移してみても、そうではないことがはっきりと分かる。ならばと手を潜らせてみれば、すぐさま指先が暖かい布地に包まれる。
頑丈かつ耐寒性に優れていながらも、動きをほとんど阻害しないほどに軽い服。その秘訣は、服の布地に織り込まれた特殊な素材と、それを活用する帝国の技術によるところが大きい。
「蜘蛛型魔獣の糸を織り込んでいるのだったか」
「そうそう。シルクスパイダーね」
シルクスパイダー。
巨大な蜘蛛のような魔獣であり、森の奥深くに好んで生息している。非常に軽く強靭な糸を使って得物を捕らえ、巨大な牙でもって噛み殺す獰猛な魔獣だ。大陸全土でよく見られることもあり、比較的に有名な魔獣の一種と言えよう。
滅多に人里に降りることがないものの、一度出くわしたならば、ほとんど生還することが叶わないほどの凶暴な魔獣。その糸を使った衣服とあれば、かなりの値段がつけられるのが普通なのだが。
「本土に養殖所があり、安定して採集できるのだったな」
「よく覚えてるね」
「あれほどの光景を忘れられるものか」
言いながら、ヤマトはかつて帝国に訪れたときに目にした、シルクスパイダーの養殖所の光景を思い返す。
小国程度ならば出没しただけで災害に等しく扱われるシルクスパイダーを、まるで牛や豚の如く、巨大な檻の中で飼い慣らしていたのだ。ただ上等な糸を生み出すためだけに、人の手によって管理されるシルクスパイダーの群れ。野性というものが抜け落ちてしまったような魔獣の姿が、ヤマトの目蓋に鮮烈に焼きついたことを覚えている。
見方によれば残酷な光景だ。それでも、今目の前にしている衣服のように、分かりやすい利益となって人々に還元されているのだ。
(ならば、歓迎するのが普通なのだろうがな)
素直に喜べず、胸中にわだかまりが残るのを自覚する。
とは言え、それは表に出すようなものではないだろう。
「一つくらいは買うか」
「この辺りは寒いですからね。防寒着は多いに越したことはないですよ」
呟くようなヤマトの言葉に応えたのは、ノアたちの要請に応じて、数々の防寒着を表に出してきた補給係の男だ。身にまとっている厳しい制服に反して、その顔には人懐っこい笑みが浮かんでいる。
「やはり、ここの冬は厳しいか」
「えぇ、それはもう。今日は暖かい方ですけど、これからは一気に冷え込みますね。明日も油断できません」
その言葉に、ヤマトは微かに顔を顰める。
今こうしている間にも身体に触れている風は、ヤマトの感覚からすれば相当冷たく感じられるのだ。大陸南部の真冬ならこのくらいだろうかと思えるほどの寒さが、確かにそこにあった。そんな寒風が、まだまだ本調子には程遠いと言う。
「……数枚買っておくか」
「毎度ありー!」
とても憲兵らしからぬ明朗な声と共に、男は破顔一笑する。
それに思わず苦笑いを零してから、ヤマトはコートの試着をしているレレイに視線を向ける。
「レレイはどうする?」
「む? うむ、こいつを買うとしよう」
レレイが試着しているのは、彼女の髪色と同じ茶色のコートだ。軍需品ゆえに大した装飾は施されていないものの、全体的に上品さに溢れている。そんなコートを羽織ったレレイの姿は、ザザの島特有の伝統衣装とは打って変わって、露出がほとんどないほどに減らされていた。夏ならば以前の格好は涼やかであったものの、寒さが身に堪える冬場においては、今の方が見ていて安心感を覚えられる。
それは着る側のレレイも同じなのか。先程までの寒さに身を縮こまらせていた様子から一変して、今は無邪気な笑みを満面に浮かべていた。存外の暖かさに気が緩んでいるのか、はたまた買い物という経験に胸を躍らせているのか。いずれにしても、楽しげであるのはいいことだ。
そんな笑顔を一瞥して、ホッと安堵の息を漏らしてから。ヤマトは、傍で同様にコードを持ち上げていたノアに視線をやる。
「どうだ?」
「辺境だから実用性重視なのかな。僕たちからすれば、本土で出回っているものよりも使えそうだよね」
「確かに、本土じゃ地味なものは好かれませんからね。軍属ですから、こうしたものの方が使いやすいんですが」
ノアの言葉に、コートに視線を落とした補給係が小さく頷く。
帝国は技術面や学術面のみならず、文化面においても他国より優れている。大陸文化の最先端とでも言うべき帝国の街には、いつも華やかな服で着飾った人々が行き来しているのだ。そんな街並みには、確かに質実剛健を体現するような服は似合わないことだろう。
(俺には無縁の話だが)
華やかさとは縁遠い冒険者稼業だ。最低限の身だしなみには気をつけるが、流行の最先端を駆けようという気概までは抱けない。
例え芋臭いと揶揄されようとも、不潔にまで行き着かなければ気にしないのがヤマトという男だった。
(気にする者も、確かにいるようだな)
そんなことを思い浮かべながら、ヤマトは視線を横に逸らす。
ヤマトが見やった先にいるのは、ヒカルとリーシャだ。ザザの島で長い間暮らしてきたレレイにはなかったが、その二人の間には、見た目の可憐さに妥協したくないという思いが共有されているらしい。
「ふむ……」
「軍需品ってなると、こういう方向性が多くなっちゃうか。色合わせをすれば、少しはマシになるかしら」
「色合わせか。その方向で考えるとしよう」
ヒカルが男言葉を徹底していることもあって、傍目からでは、リーシャに合う服を二人で選ぶカップルのように見えなくもない。実際には、二人でそれぞれに合いそうな服を選び合っているような具合なのだが、いずれにしても、相応の時間がかかることは確かだろう。
生暖かな視線を送る補給係の男を一瞥してから、そっと溜め息を零す。
「長くなりそうだね」
「俺たちはどこかで待つとしよう」
女性陣の買い物は長くかかると相場が決まっているものだ。
ヤマト同様に辟易とした表情のノアと、既に数着のコートを買ってホクホク顔のレレイを促して、ヤマトは少し離れたところの壁に背中を預けた。
(む?)
妙に視線を感じる。
何気なく辺りを見渡せば、忙しなく動き回る鉄道憲兵隊の面々に混じって、どことなく穏やかな微笑みと共にヒカルたちを見やる者の姿が認められた。固い雰囲気をまとって軍事に従事しながらも、彼らなりにヒカルたちを歓迎しているようだ。辺境に勤めている彼らからすれば、こうして旅人が訪れることすら珍しいのかもしれない。
微妙な気まずさと共に視線を落とせば、苦笑いを浮かべているノアの顔が目に入る。
「皆、私たちを見ているのか」
「珍しいのだろうな」
不思議そうに小首を傾げるレレイに、ヤマトは小さく答える。
そこに苦々しい思いを感じ取ったのか、ノアが話題を変えようと口を開いた。
「ひとまず、思ったより色々調達できそうで安心したよ。これで物資方面の心配は必要なくなったし」
「流石は憲兵隊の詰め所と言うべきだな」
それなりに大量に買い込んだつもりだったが、補給係はヤマトたちの注文を快諾していた。いざというときに戦力を動員できるよう、潤沢に物資を蓄えていることの証左だろう。その値段にしても、周辺国家の相場に多少上乗せした程度の金額で抑えられていた。
おかげで食料や防寒具についての心配は無用になったものの、代わりに、ヤマトたちの頭には一つの懸念が新たに浮かび上がっていた。
「なら、次はどうやって高原を抜けるかって問題か」
「うむ」
ノアの言葉に、ヤマトは厳かに頷く。
一年前、ヤマトとノアが二人旅をしていた折にエスト高原を抜けようと試みたことがあったが、結局それは叶うことなく頓挫してしまった。その原因は食料を始めとする物資の不足に最たるものがあったものの、それだけではない。
どうしたものかと思案する顔つきになったヤマトとノアに対して、今一つ要領を得ていない様子のレレイが首を傾げる。
「何か問題が残っているのか」
「うん。まあね」
どう説明したものかと視線を巡らせたノアは、壁に貼られた大陸地図を指差す。
「あれ見て」
「ふむ?」
「大陸北部にずっと広がってる平原地帯があるでしょ? あれがエスト高原」
「……ずいぶんと大きいな」
レレイの言葉に、ヤマトとノアは同時に頷く。
大陸北部から始まるエスト高原は、東西方向に大陸を横断しているのみならず、南北方向においても相当の広さを誇っている。大陸中央部に栄える諸国群を抜けた先から始まり、大陸北端にあるという凍土まで、全容が未だに把握し切れていないほどに広がっているのだ。
当然、その広大さも常軌を逸している。
(今回の目的地は、その凍土か)
大陸北端にある永久凍土の地帯。そこに勇者の武具が残されているという手がかりを得て、ヤマトたちはこのエスト高原までやって来たのだ。
そのためには、あまりここで時間を浪費したくないところではある。
「歩いて抜けようとすれば、最短ルートを選んでも数ヶ月はかかるかもね」
「数ヶ月か」
「最短かつ平穏な旅路っていう前提だから、実際にはその倍くらいはかかるかも」
レレイは顔を顰めた。
どんな生活を送ってきた者であっても、それがとても常識的な選択肢でないことは分かるだろう。道中で怪我をしたら取り返しがつかない上に、方向を僅かに間違えるだけでも致命的だ。
これまでの旅であれば、魔導列車を始めとする公共機関を利用してしまえば、瞬く間に目的地に到着していたのだが。
「旅人さん。あんたら、この高原を抜けるつもりなのかい?」
しばし頭を悩ませるヤマトたちに話しかけてきたのは、ヒカルたちの対応から抜け出してきた補給係の男だ。店番をしていた彼からしても、ヒカルたちの買い物を待つのは中々骨が折れることだったのだろうか。
そんなことを思い浮かべながら、ヤマトは小さく頷く。
「うむ。北地の方に用があってな」
「ははぁ、北地にですか」
辺境も辺境。帝国の影響力もほとんど及んでいないほどの僻地と言うべき地だ。
訝しげな表情を浮かべる男だったが、全身に銀甲冑を着ているヒカルなど、とても普通ではないことを思い出したのだろう。疑念の色を目に宿しながらも、男は口を開く。
「なら、馬を借りて遊牧民の集落を乗り継ぐのが得策ですね。相応の対価を用意する必要はありますが、一番確実かと」
「ふむ」
遊牧民。
先の話題にも挙がっていたが、彼らはこの過酷なエスト高原という地を、馬や羊と共に転々しながら生活している。生活様式が謎に包まれた民族ではあるものの、決して敵対的な関係にある訳ではない。
「遊牧民か。確かに、それが一番確実かな」
「えぇ。ここの品々を持っていけば、そう悪く扱われることはないと思いますよ」
思いがけず有力な情報を得ることができた。
ひとまずの懸念がなくなったことで軽い気持ちになりながら、ヤマトたちは頷き合った。