第152話
数日前までカグラを襲っていた嵐が嘘のように、空は青く透き通っていた。
いよいよ夏の名残も失せた涼やかな風を受けながら、ヤマトはすっと目を細めた。
ヤマトたちが今いるのは、首都カグラの傍を流れる巨大な河の港だ。カグラの繁栄を支えた歴史を持つ河は、商人たちがその品々を運搬する用途のみならず、極東各地へ渡る旅人の足としても利用されている。ヤマトたちの背後には大きな船が鎮座しており、出航のときを今か今かと待ち構えていた。
「――すみません、お待たせしました」
「む」
ここ数日で聞き馴染んだ声に、空を見上げていた視線を落とす。
ヤマトの視線の先にいたのは二人の少女。雅な着物を身に着けたホタルと、動きやすい簡素な鎧を身に着けたハナだ。ここまで急いでやって来たのか、若干息を切らしているホタルへ、ハナは心配そうな視線を送っている。
すっかり護衛役という任が板についているらしいハナの姿に、思わず仄かな笑みが零れる。
「何笑ってるのさ」
「……大したことではない」
そんな内心を見通すようなノアの視線に、ヤマトはぶすっとした無愛想に戻る。
カラカラと楽しげな笑みを零したノアを無視して、ホタルとハナに向き直った。
「わざわざ悪いな」
「いえ、すぐ近場ですから。それに、あのときは見送りもできなかったので……」
「ぐ」
「あのとき」というのは、数年前にヤマトが極東を飛び出したときのことだろう。
極東という狭い島国で、己に課せられた役目に縛られながら生きる未来に殉じることから逃れるために、ヤマトは家族の誰にも告げないままに島を出ていった。そのことを後悔する気持ちはないが、この地に残した家族たちが心を痛めたのであれば、多少の罪悪感も湧いてくる。
思わず視線を逸らした先で、存外に真面目な表情をしているノアと目が合う。
「むぅ」
呻き声を漏らしながら、頭を掻く。
何事かを言ってみようと口を開いてみるが、肝心の言葉が頭に浮かんでこない。声を出せないままに、パクパクと何度か口を開閉させる。
そんなヤマトの様子に、内心の葛藤を悟ったのか。表情を陰らせていたハナがふっと笑みを零した。
「ふふっ、ごめんなさい。困らせるつもりはなかったんですけど」
「……悪かったな」
「気にしてません、と言うと嘘になりますけど。ああなるような予感があったのも確かですから」
その言葉に、ヤマトは声を詰まらせる。
当時、周りの人間に意思を悟られまいと努めていたつもりだったが、実際にはハナには気取られていたらしい。となれば、特に何も言ってこなかった両親も、ヤマトが出奔する兆しには気がついていたのかもしれない。
今回の旅では結局故郷へは顔を出さなかったから、両親と会う機会も持てなかったが。もし会っていたならば、何を言われたことだろうか。
(あまり想像したいものではないな)
軽く頭を振って、その考えを思考の隅へ追いやる。
そんなヤマトの姿に苦笑いを漏らしたハナだったが、ふと表情を改めて、ヤマトの後方へ視線をやる。
「ヒカル様方は、既に奥へ?」
「あぁ。先日捕らえた襲撃犯に尋問をしているようだな」
先日の襲撃――霊峰シュテンに封じられた魔王の右腕を解放し、百鬼夜行を発生させてカグラ一帯への攻撃を企てたジークは、リーシャの手によって捕縛された。
本来であれば、ジークの身柄はアサギ一門の手によって管理されるのが道理であったのだが、事態の収拾に当たったヒカルたちの懇願により、大陸で管理することに決定されたのだ。大陸までの道は、極東から帰るヒカルと同行する手筈になっている。
大陸までの約一ヶ月を共にするのだから、出立する今日に尋問を開始するというのは、少し気が早いようにも思えるが。
(積もる話もあるのだろうな)
ヤマトが思い浮かべたのは、リーシャのことだ。
数年来に再会を果たしたヤマトとハナと同様に、リーシャとジークもまた数年来に出会った兄妹だ。彼女たちの間には、ヤマトたち兄妹にはないほどの確執があることだろう。尋問という名目は置いておいて、これまで別々にすごしてきた時間のことを埋め合わせる必要は、確かにあるはずだ。
そんなことを思い浮かべたヤマトの表情に、何かを悟ったのか。怪訝そうな表情を浮かべながらも、ハナはそれ以上口を開こうとしなかった。
「ヤマト様」
沈黙したハナに代わって、ホタルが控えめに声を出した。
視線を送ったヤマトに対して、ホタルは良家の子女らしい、可憐ながらも毅然とした立ち姿で口を開く。
「先日の騒動を鎮圧してくださったこと、父に代わってお礼申し上げます。ありがとうございました」
「……そうか」
存外に格式張ったホタルの言葉に、目を丸くさせながら、ヤマトは小さく頷いた。
そんなヤマトに反応しないまま、ホタルは言葉を続ける。
「今回は大した礼も返せないこと、申し訳なく存じます。またこの地を訪れたときには、必ず礼を致しますので――」
「ふふっ、気にすることはない」
思わず、笑い声が零れた。
そのままの勢いでホタルの頭を撫でてやれば、ホタルは驚いたように視線を上げる。
「あ、あのヤマト様、何を……?」
「そう心配せずとも、また戻ってくる。約束をしたからな」
その言葉に、ホタルはカッと頬を赤く染める。
年頃の少女らしい反応に、心が穏やかになるのを実感する。小さく頷きながら、後ろの船へ――正確には、その船内にいるはずのヒカルの方へ、視線をやった。
「今の役目も、何年もかかりはしないはずだ。それが片づけば、ここへ帰ると約束しよう」
「……分かりました。そのときを待っています」
ふっと小さな笑みを咲かせたホタルに、ヤマトもぎこちなく笑い返す。
ほんわかとした空気が流れたところへ、出航支度をしていた船員が声を張り上げた。
「――間もなく出航します! お乗りの方は、お忘れ物がないことをお確かめ下さい!」
「む。時間か」
ホタルの頭から手を除けて、ノアの方を見やる。
荷物の搬送は全て完了している。忘れ物の心配も、事前に数度確認したから問題ないだろう。もっとも、本当に必要なものはそれぞれが手持ちにしているか、ヒカルが時空の加護で保管しているのだから、気にする必要すらないのだが。
「僕は先に乗ってるから、ヤマトも区切りいいところで乗ってね」
「あぁ」
言い残して、ノアはさっさと船の甲板へ上がっていく。
その背中を見送ってから、ヤマトは改めてホタルとハナに向かい直った。
「まぁ、そういうことだ」
「ヤマト様。今回は本当にありがとうございました」
今度は穏やかな笑みも添えた感謝の言葉に、ヤマトは小さく頷く。
ふと、腰元に下げた刀に意識が向く。
(結局、こいつのことはよく分かっていないが)
ホタルが大事そうに抱えており、その身を助けた礼として受け取った逸品。ただ頑丈かつ斬れ味の鋭い名刀というだけではなく、どこか得体の知れないものを秘めているらしいことを、今回の戦いの中でヤマトは感じ取っていた。
元々の持ち主であるホタルならば、この刀に秘められた力についても、何か知っているだろうか。
「ホタルは――」
「はい?」
口を開きかけたところで、すぐにそれを閉ざす。
無垢な瞳で首を傾げているところを見るに、ホタルは何も知らないように思える。仮に知っていたとしても、それを無理に聞き出そうとするのは、少し気がはばかられた。
首を横に振って、脳裏にこびりつく未練を払い除ける。
「何でもない。また来る。そのときまで達者でな」
「はい! ヤマト様も、どうかご無事で」
可憐な笑みを浮かべるホタルに、ヤマトも口角を緩める。
次いでハナの方へ視線をやると、何か言いたげな表情を浮かべている姿が目に入る。
「どうした」
「……兄上は、ホタル様のような幼子が好みなのですか?」
「は?」
「あんな柔らかい表情の兄上は、見たことがなかったものですから」
言うに事欠いて、この妹は何を口走っているのだろうか。
正気を疑うような視線を送れば、ハナもまた似たような視線を向けてきていることに気がつく。
「冗談を言うな」
「……そうですか。まぁ、そういうことにしておきますか」
面倒な嫌疑をかけられたものだと、溜め息を吐きそうになる。
そんなヤマトへジットリとした視線を向けていたハナだったが、唐突に笑みを零した。
「ごめんなさい、悪ふざけがすぎましたね」
「全くだ」
言いながら、ヤマトも苦笑いを浮かべる。
色々と異なる点はありながらも、根本の性格は自分と似通っているのがハナという少女だ。きっと、湿っぽい別れになることを嫌って、ああした冗談を口にしてみたのだろう。
(その割には、目は本気そうだったが……)
その点については、気にしない方が吉というものか。
何とか自分を誤魔化そうとするヤマトへ、ハナは微笑みながら、近衛兵式の敬礼をする。
「それでは兄上。またしばしの別れとなりますが――ご武運を」
「……あぁ」
アサギ一門の家臣団たるに相応しい佇まいを前にして、ヤマトは思わず目を細める。
いつも背中を追いかけて来るばかりだった、幼い頃のハナの姿。そればかりがヤマトの頭の中には浮かんでいたが、それも、もはや過去の話になったということか。ずいぶんと頼りがいのある立派な立ち姿が、ただただ眩しく感じられる。
(いつの間に、こんなに成長したのだろうな)
ふと、ヤマトの脳裏にリーシャとジークの姿が去来する。
聖剣術を使いこなし、ジークを打倒してみせたリーシャ。その姿を見たときに、ジークはいったい何を思ったのだろうか。いつの間にか自分を追い越すほど成長した妹の姿に、兄は何を思うのだろうか。
様々な思いが生まれるが、それらをまとめて飲み込んでしまえば、後に残るのはただ一つの感情だった。
「ハナ。立派になったな」
「へ――?」
胸の内に溢れる誇らしさに任せて、ヤマトはそう口走っていた。
それを聞いて、惚けたような表情になるハナ。その顔を見やって、ヤマトは満足気に頷いた。
「ではな。行ってくる」
「ちょっ、兄上!?」
慌てた声を上げるハナに構わず、ヤマトはさっさと船に乗り込む。
ヤマトが最後の客だったのか、それを見届けた瞬間に、船が一気に動き始めた。
「――ずいぶん強引な挨拶だったね」
「む?」
慌てたような、嬉しそうな、名残惜しそうな。何とも形容し難い表情で港に立つハナを見ていたヤマトに、いつの間に隣へいたのか、ノアが呆れたような声を上げた。
「ヤマトらしいのかもしれないけどさ」
「さてな」
適当にお茶を濁しながら、ホタルとハナを見つめる。
そのヤマトの視線に気がついたのだろう。諸々の感情を抑え切ったのか、諦めたような表情でハナは手を上げる。
「手、上げ返さなくていいの?」
「知らん」
言いながらも、ヤマトはハナたちから目を逸らそうとしない。
立派になった妹の姿を目に焼きつけるように、ヤマトは沈黙を保ったまま、港の方をジッと見つめ続けていた。