第147話
「――せいっ!」
気迫の声と共に、横一文字に刀を振り払う。
白刃は雷雨の中を閃き、同じく刀を携えていた鬼武者の胴を薙ぎながらも、両断するまでには至らない。刀の刃は鎧の表面を浅く削り、一文字の傷を刻むに留まる。
『―――――』
「ちぃっ」
軽い手応えに舌打ちを漏らしながら、その場から即座に飛び退る。直後に、寸前までいたところを鬼武者の朽ちた刀が薙ぎ払った。
(威力は相当。まともに喰らえば命はないかも)
頬に感じた斬撃の風圧に、思わず脂汗を滲ませる。
改めて気を引き締めながら、鬼武者の一挙手一投足を見逃すまいと、豪雨で視界の悪くなった中で目を凝らす。
雷雨の中、突如として霊峰シュテンに現れた黒い柱。加えて、カグラの街中に現れた鬼武者たち。姿形こそただの人間とそう大差ない彼らだが、明らかに理性など感じさせない凶暴性でもって、目の前にしたもの全てに刀を振るい始めたのだ。幸いにして外の人通りが少ない刻限だったから、直接的な被害は大きくないものの、カグラの都は今、大混乱の最中にあると言える。
本来であれば、今回のような有事に際して刀を抜くというものが、アサギ一門の役割。――だが、それは今現在においては、とても果たされているとは言えなかった。
「――ハナ様!」
「何か!」
「屋敷内部の掃討は完了しました! 当主様方、怪我もなく全員無事です!」
「よくやりました! ご苦労様です!」
抜き身の刀を手にしていた家臣の言葉に、女剣士ハナはホッと安堵の息を吐く。
ホタルの近衛兵であるハナは、本来であれば主君のすぐ傍で護衛しなければならない身の上だ。だが、今回の騒動の混乱にあって、ハナはその優れた刀術の腕を買われて、屋敷門前の防衛指揮を任されていた。
都の治安維持を信条としているとは言っても、当主とその娘の安全を無視して飛び出せるほど、ハナたち家臣団も博愛精神には満ちていない。屋敷内にも出現した鬼武者、そして屋敷へと押し寄せる、街に出現した鬼武者たち。それらの対処に人手を割かれた家臣団一同は、アサギの屋敷に釘づけにされていた。
「現在は家臣団一同で屋敷内の巡礼をしています!」
「分かりました! ここはすぐに片づけます!」
吠えるように応えながら、ハナは眼前に佇む鬼武者を睨めつける。
元々は上質な一品だったことを伺わせるものの、色はくすみ、鋼のところどころが欠けてしまっている鎧兜。加えて、酷い刃こぼれをしたナマクラながらも、元来の頑丈な刃の甲斐あって、斬られればただでは済まないと直感できる長刀。今の極東では鬼はよく見られるものの、こうも完全武装した個体まではそうはいない。
間違いなく、難敵だ。しかも、これと同程度の鬼武者が、今のカグラには溢れ返っていると聞く。
それが事実であるならば、今こうしている間にも、カグラは刻一刻と被害を大きくさせているはずだ。
(そう長々と時間はかけられない)
生身の人間ではないがゆえに、呼吸を読むことができない。鬼武者の太刀筋は、僅かながらにハナも知る刀術の道理を踏まえながらも、その一方で、異形さながらの馬鹿げた動きを描く。未だ浅学の身である己にとっては、鬼武者の斬撃を見切ることなど到底叶わない。
だからと言って、打つ手がない訳ではないのだが。
「ふぅ――」
刀を正眼に構える。深呼吸して、乱れそうになる心臓の鼓動を整えた。
心の内に描くのは、月影を映す池の水面。一切の揺れも歪みもなく、さながら水の先に別の世界があると錯覚するような水鏡だ。
「いざ」
腰を落としながら、刀の刃を立たせる。
動く様子を見せないハナに焦れたのか、鬼武者は一気に間合いを詰めてくる。朽ちた刀を上段に構え、一気呵成に振り下ろすつもりか。
このまま静止し続けたならば、鬼の刃は間違いなく己を脳天からかち割ることだろう。そんな未来の絵を描きながらも、一切動じていない心境を自覚する。
「奥義――」
上段から迫る鬼の太刀に対抗するように、ハナは刀を下段に構える。
今この瞬間だけ、戦いに関係しないもの全てを意識から排する。己の記憶も感情も思考をも捨て去り、ただ迫る刃と、それに抗する自身の肉体のみを脳裏に描く。
「『斬鉄』」
刀を、斬り上げた。
驚くほどに緩慢かつ脆弱な太刀筋。刀で受け流すどころか、素手で掴むことすら容易なのではないかと思えてしまうほどの、不可思議極まりない斬撃だった。
『―――――!!』
そんなハナの斬撃に、憤りでも覚えたのか。
より一層の威力を伴って振り下ろされた鬼武者の刀は――否、それを握っていた鬼武者本人までもが。鬼自身が気がつくことなく、ハナに何の手応えも返さないままに、真っ二つに両断された。
『………ォォ』
朽ちた刀が篭手から滑り落ちる。同時に、鬼の鎧が真っ二つに分かれて地面に崩れた。
鬼自身、自分に何が起こったのかを知ることはできなかったのだろう。嘆く暇もなく、ただ戸惑うような呻き声を漏らしてから、むせ返るような瘴気を霧散させた。
「片づきましたか」
残心してから、刀を鞘に収める。
サッとその場を見渡せば、ハナの指揮下で戦っていた家臣団もどうにか鬼の対処ができているようだった。ハナとは違い、鬼一体に対して数人で戦わせていることが、功を奏したのだろう。軽傷を負う者はいても、もう刀を握ることができないほどの怪我人までは、まだ出ていなかった。
(とは言え、それもいつまで保つやら)
思わず溜め息を零しそうになって、グッと飲み込む。
今は鬼の襲撃に間が空いているとしても、またすぐに新たな集団が押し寄せてくるはずだ。それらへ万全の態勢で応戦するためにも、ここで不用意に部下の士気を下げるような真似は慎むべきだろう。
「戦いを終えた者はいったん退いて! 少しでも身体を休ませなさい!」
鬼武者を討滅し、その場に腰を落とそうとしていた男たちへ声を上げる。
それにハッと我を取り戻した様子の男たちは、手にしていた刀を鞘に収めて、ノロノロと門の中へ姿を消していった。
彼らの背中を見送りながら、ハナは表情を微かに歪める。
(思ったよりも兵たちの消耗が激しい。状況は厳しそうね)
このままハナが奮戦して前線を保とうとしても、二波程度が限界だろう。それ以上の鬼が押し寄せてくるようだったら、この門を防衛し切ることは叶わず、再び屋敷内部へ鬼の侵入を許してしまうことになる。
心の中に静かに募る焦りのままに、ハナはすぐ隣の城塞――神皇が住まう御所を見上げた。
(衛士が出てくる様子はない。閉じ込もるつもり?)
深い堀と高い塀に囲われ、重厚な鋼鉄の門が隙間なく閉ざされている。いつもは門前に立っているはずの近衛兵の姿も今はなく、外から見ている限りでは、中に誰かがいるようにはとても思えないような状況ではある。
だが、ハナを含めて、このカグラの都に住む人々ならば全員が知っている。この御所に勤めているのは極東有数――下手をすれば、大陸有数の実力を備えた猛者たちばかりだ。ハナが手こずらされた鬼武者にしても、彼らのような勇士からすれば、そう時間を取られることなく倒せる程度の存在であるはず。もしも彼らが出張ってくれたならば、今回の騒動もずっと早く穏便に治まるかもしれない。だと言うのに、彼らが出てくる様子は、一切ない。
(もしかして、神皇はこの都を――)
そんなことを考えかけたところで、慌てて首を横に振る。
この極東という地に住んでいながら、国の祖である神皇を疑おうなど。とても尋常ではなく、許されることではない。
「今は、耐えるしかないってことですか」
己を励ますように声を上げて、思わず暗澹たる気分になる。
耐える? それはいつまでだ。一日後か、二日後か。都から鬼が根絶やしになるまでか、果ては極東中の鬼を討滅し切るまでか。
(兄上。あなたは今、何をしているのですか)
思わず、先日再会したばかりの兄の姿がハナの脳裏に描かれる。
彼は今日は霊峰シュテンに向かっているという話だった。ならば、今回の騒動ついても、決して無関係ではないはずだ。兄は今、無事でいてくれているだろうか。兄ならば、この騒動も解決に導いてくれるのだろうか――。
「ハナ?」
グルグルと吐き気が腹の中で渦巻いていたハナの耳に、その幼い声が聞こえてきた。
ハッと気を取り直したハナは、後ろを振り返る。そこにいた者の姿を見て、すぐにその場に膝をついた。
「ホタル様!? ここは危険です、どうか屋敷の中へお戻りください!」
「今は一段落した、でしょう? それより、話したいことがあるの」
辺りに家臣団の目がないことを確かめてから、ホタルは幾分か砕けた口調になって話しかけてくる。――だが、その表情がどこか強張っているのは、いったいどうしたことだろうか。
心の中に立ち込めた不安感に衝き動かされるがままに、ハナは小さく頷いた。
「直にここも危険になりますので、どうかお早めに」
ホタルはその言葉に頷きながら、雷雨に閉ざされた都を遠い目で眺めた。
激しい雨音と時折轟く雷鳴の中に、人の悲鳴が入り混じっているような気がする。
「ずいぶん、酷い有り様ね」
「直に収束させます。どうかご安心を」
自分ではとてもそうとは思えないからか、口から出たその言葉は、酷く空虚であるように思えた。
そんなハナの内心を悟ってか、ホタルはそっと仄かな笑みを浮かべた。
「ねぇハナ。今日のことって、“あれ”に似てるわね」
「……百鬼夜行のことですか」
八十年前に突如発生し、極東中を席巻した百鬼夜行。
当時の武家たちの手には到底負えるようなものでなく、散々な被害を出した後に、当時のアサギ一門の娘が生贄となることによって、何とか終息した一件だ。
それを脳裏に思い描いたところで、ハナは表情を強張らせる。
「ホタル様。まさかとは思いますが」
恐る恐るという風情で口を開いたハナに、ホタルは小さく頷いた。思わず正気を疑いそうになるが、ホタルの瞳に映っている光からは、その言葉が紛れもない本気のものであることが伺えた。
「どうしてカズハ様が身を投じたことで百鬼が鎮められたのか、私にも同じことができるのか、分からないけれど。少しでも可能性があるのならば、早いに越したことはないと思う」
「そんな!?」
「きっと、百鬼の主はシュテンの社にいると思うわ。だからハナ、あなたにはそこまで、私の護衛をお願いしたいの」
思わず激昂しそうになってから、ハナはその言葉を飲み込む。
「ホタル様。あなたは――」
長年傍で護衛をしてきたのだから、一見して無表情なホタルの表情の機微も、ある程度正確に掴めるようになってきた。そんなハナの目からすれば、今のホタルは――酷く怯えていた。気丈に振る舞おうと己を律しながら、小刻みな震えを堪えることができず、必死に歯を噛み締めていた。
無理もない。まだ十を越えたばかりのような子供が、都に住む皆のため、自ら命を絶とうとしているのだ。そこにある苦悩や恐怖は、いったいどれほどのものだろうか。
「………っ! ……ハナ?」
「申し訳ありません。ホタル様」
そんなホタルを放っておくことは、とてもできそうになかった。
気がついたときには、ハナは華奢なホタルの身体をかき抱き、胸の中で包んでいた。
「あなたをそんなに思い詰めさせてしまった。私は近衛失格ですね」
「そっ、そんなことない!」
慌てたように首を横に振るホタルに、ハナはそっと微笑む。
「でも、あなたが思った通りです。私にはこの事態を解決する力はない。あなたをお守りするだけの力が足りてません」
「そんなこと――」
必死に反論しようとする先を封じるように、ホタルの肩を更に強く抱く。
「ですけれど。きっと、ホタル様が懸念されるようなことにはならないはずですよ」
「え……?」
「あなたには、頼りになる近衛候補の武者がいるでしょう?」
それが、ハナの兄であるヤマトを指していることは、ホタルにも理解できたのだろう。
戸惑う視線に対して、力強く頷いてみせる。
「あの人は強引で頑固で頭が足りてなくて、きっとまだまだ近衛には相応しくない人です。――でも、こんなときには、ずいぶんと頼もしい人でもあるんです」
ハナの脳裏に浮かぶのは、幼き頃のヤマトの姿だ。
中々振り返ってくれることはなかったが、その背中には、後を追っていたハナが不思議と安心できる頼もしさがあった。何か困難が待ち受けていても、きっとこの人なら解決してくれるのだろうと、ハナは無条件に信じることができたのだ。
いつしか、己の胸中に立ち込めていた暗雲までもが晴れていく。そのことを自覚して、ハナは少しおかしな心地になる。
「ホタル様。今はあの人を信じてくれませんか? 昔は解決しなかった百鬼が相手だって、きっとあの人なら、何とかしてくれますから」
「ハナ……」
呆然としたようにハナの顔を見上げていたホタルが、ふと笑みを零した。先程までの気負いは減じた、いつも通りな優しい笑顔だ。
「分かったわ。ハナがそこまで言うのだから、私も信じてみる」
「それはよかったです」
ホッと安堵の息を吐いたところで、辺りの空気がにわかに禍々しくなることに気がつく。
直に、鬼武者の軍勢が押し寄せてくる。今は安穏としていたこの場所も、すぐに戦場と化すことだろう。
「ホタル様。ここは私に任せて、ホタル様はあの人の無事を祈ってくれませんか?」
茶化すような言葉と共に、ハナはホタルの背中を屋敷の方へ押し出す。
少し呆気に取られた面持ちを見せたホタルだったが、すぐに破顔一笑する。
「えぇ! それにしてもハナ、あなたずいぶんお兄さんのことが好きなのね?」
「な――っ!?」
突然の言葉に、ハナが絶句する。
言い返そうとする気持ちが次々に腹の底から込み上げては、言葉になる前に喉元で固まっていく。結局、間抜けな面でパクパクと口を開閉することしかできない。
そんなハナの顔を見て、ひとしきり笑い声を上げたホタルは、力強い足取りで屋敷の中へ戻っていく。
「ほ、ホタル様はいったい何を……」
ホタルの背中を見送ったハナは、思わず自分の頬を擦る。そこで、頬が存外に熱を持っていたことに気がついて、更に赤面する。
そんな気恥ずかしさを誤魔化すように口元を擦ったところで、門の陰からこちらを覗き込む家臣団の視線に気がつく。
「お前ら……!?」
「……もうよろしいのですか?」
ニヤニヤとした笑みと、生暖かい視線の数々。
それらを受けて気恥ずかしさが頂点に達したハナは――思わず、叫び声を上げていた。
「さっさと戦闘態勢に! ここを死守しますよ!」
『ハッ!!』
男たちが一斉に返事をして、各々の刀を抜き払う。
徐々に姿を現し始めた鬼武者の姿を睨めつけてから、ハナは北東――霊峰シュテンの方へ思いを馳せる。
先程の話があったから、というわけではないが。
(兄上。後は頼みます。どうか――)
ヤマトに、武運があらんことを。
束の間だけ、ハナはそんな願いを天に託したのだった。