第146話
霊峰シュテンを昇り始める前の懸念は、都合の悪いことに確かであったらしい。
一滴だけの雨粒を垂らした暗雲は、そのまま滝のような雨を降らせ始める。辺りはあっという間に水の幕で閉ざされ、一メートル先を見通すことすら怪しい状況になる。
「これは……っ」
夏の嵐は激しく移ろいやすいとはよく言うが、秋の嵐も、決して例外ではなかったらしい。
風の音も聞こえない雷雨の中、雨粒に全身を打たれながら、ヤマトは小さく舌打ちを漏らした。
「どこへ行くつもり、兄さん!?」
雨音の中から聞こえてきたリーシャの叫び声が、ヤマトの意識を現実に引き戻した。
飛沫が妨げる中、必死に目を凝らしてみれば、ヤマトたちが駆け下りてきた参道を駆け上ろうとする青鬼の姿が目に入る。
(奴の目的は――)
青鬼が行こうとする参道の先――霊峰シュテンの社からそびえ立つ、正体不明の黒い柱を見上げる。
“あれ”が何なのか、ヤマトにははっきりとは分からない。ただ直感に任せて言ってみるならば、それは鬼共を生み出す元凶であり、今こうしている間にも、霊峰シュテンを中心として辺り一帯に鬼を出没させているものなのだろう。黒い柱から吹き散らされている黒い粒子からは、確かに強力な鬼の気配が感じられる。
そこまで考えたところで、ヤマトは頭を軽く振る。
(今はそれどころではないな)
何よりも優先するべきは、この場から離れようとしている青鬼を取り逃がさないことのはずだ。
手にしていた刀を握り直して、ヤマトはぐっと腰を落とす。
「待ちなさい!」
リーシャの声に従って、参道を行こうとする青鬼の元へ駆け寄る。
ヤマトとリーシャの視線の先で、青鬼がゆっくりとした動きで振り返るのが見えた。
(魔導術か!?)
雨に濡れて滑りやすい砂利を咄嗟に踏み締め、駆ける勢いを殺す。
油断なく辺りへ視線を巡らせたヤマトに向けて、青鬼は指先を頭上へと向けた。
「………? 何の――」
「頭上注意。つまらない幕引きは勘弁してよ」
その言葉と共に、ヤマトの耳に異音が入り込む。
警鐘をかき鳴らす本能に従うままに、ヤマトはその場から飛び退った。ちらりと見やれば、リーシャも同様の判断を下している。
直後。
『―――――』
ヤマトとリーシャの目の前に、“それ”は降り立った。
姿も身の丈も人と同程度。それでありながら、身にまとう空気――瘴気は、思わず脂汗が滲み出るほどの禍々しさを伴っている。
鬼。加えて、かつては名のある武者だったと見受ける。身体はくすんだ色の鎧に包まれ、手には錆びつき刃こぼれした刀が握られている。茫洋としているように見えながらも、迂闊に脚を踏み出せば即座に斬り捨てられるだろうと、ヤマトには直感できた。
(こいつは強いな)
一目見て、そのことを悟る。
鬼がまとう独特の瘴気の濃さに加えて、ヤマト同様の武人としての佇まい。その両方が、並大抵の使い手ではないことを雄弁に物語っていた。
首都カグラへ入る前に立ち寄った山間の村で、ヤマトたちは鬼退治を引き受けた。そのときに出会った鬼も、やはり並大抵の腕前ではなかったが、今直面している鬼は、それをも上回る強さを備えている。
余所見をして勝てるほど、生温い相手ではない。
「くっ! 逃げられた……!!」
「構えろリーシャ! 奴は強い!」
参道を登っていく青鬼の背を睨めつけるリーシャに、ヤマトは警告の声を飛ばす。
その直後に、鬼は存外に滑らかな動きで刀を正眼に構えた。
「――来る」
そう呟くのと、ほとんど同時に。
鬼武者は踏み出し、刀をヤマト目掛けて振り下ろす。
「『柳枝』」
回避を選択しても、続けて連撃が襲い来るはず。
そんな直感のままに、ヤマトは迫る白刃を前に鞘を立てた。鬼武者の斬撃を脳裏に描き出しながら、鞘を握る腕に全神経を集中させる。
『―――ッ!!』
「ぉぉおおおっっっ」
間違いなく、尋常ならざる使い手。
それでも、鬼であるがゆえに――亡者であるがゆえに、猪口才な技の駆け引きができないところが、上手く嵌まってくれたのだろう。
想定した通りの軌道、想定した通りのタイミング、想定した通りの威力の斬撃が、ヤマトが盾のように構えた鞘に吸い込まれる。
(ここだ)
鞘をズラし、傾かせ、押し込む。
使い手にすら違和感を覚えさせないほどの滑らかさでもって、鬼武者の斬撃を受け流した。ヤマトの脳天を両断するはずだった刀が、真横へ逸らされ、雨粒だけを虚しく薙ぎ払う。
『―――?』
鬼の意識に、明らかな隙が生じる。
会心の出来に一息吐く間もなく、ヤマトは手にした刀の刃を立てた。受け流した勢いを殺さぬままに、身体を捻りながら一閃。
「『斬鉄』ッ」
逆袈裟に振り抜かれた刀が、何の抵抗もなく鬼武者の鎧を斬り裂く。
刹那。
(――何だ今のは)
ドクッと、刀が脈打つような感覚。
思わず小首を傾げそうになりながら、ヤマトは残心。刀を正眼に構え直し、鬼武者へ意識をやる。
『――ォォォ』
そこでようやく、鬼も己が斬り捨てられたことに気がついたのだろう。
斬撃の跡をなぞるように指先を這わせてから、雨の降り注ぐ空を見上げる。嘆くように声にならない音を漏らしてから、身にまとっていた瘴気を失せさせた。
ガランッと音を立てて、鎧や刀が地面に落下する。当然ながら、その中身に人の姿などは見られない。それが生身の人間のように動き回っていたことが、嘘であるかのような光景だ。
「何とか片づいたか」
「ずいぶん余裕そうに見えたけどね」
刀を鞘に収めたヤマトに続いて、リーシャが口を開いた。見れば、レイピアを腰に収めながら、釈然としない表情になっている。
「上手く噛み合っただけだ」
「そう? 別に謙遜しなくてもいいのに」
リーシャの言葉に首を横に振りながら、ヤマトは握っていた刀に視線を落とす。
鬼武者を斬り裂いた直後に覚えた、疼きにも似た感覚。元々得体の知れない刀だと感じてはいたが、先程のは、明らかに異質であった。まるで、刀が生きていたか、意思を持っていたかのような感覚だった。
だが、それも一瞬だけのこと。今は既に刀は沈黙しており、先程の不気味さが嘘であったかのように静止している。
(いったい、こいつは何なんだ)
ホタルに勧められるがままに受け取ってしまったが。まさか、妖刀の類だったのだろうか。
ざわつく胸を鎮めて、ヤマトは刀を鞘に収める。次いで、青鬼が消えていった参道の階段を見上げた。
ふと、ヤマトの脳裏にリーシャと青鬼の会話が蘇る。確か、リーシャは青鬼の素顔を見て、何事かを確信していたようだった。
「リーシャ。青鬼のことだが――」
「えぇ。ちゃんと話すわ。でも、まずは追うとしましょう」
確かに、話ならば参道を登りながらでもすることができる。
リーシャの提案に頷いたヤマトは、立ち並ぶ鳥居の方へ駆け寄ろうとして――足が止まる。
「ヤマト、早く行くわよ」
「……あぁ、分かっている」
リーシャに促されて、ヤマトは頷く。
青鬼の手によって引き起こされた百鬼夜行。それがどの程度のものなのか、まだヤマトには判断しかねるものの、先程のような鬼が大量出没するというのであれば、事態を楽観視することはできない。少しでも被害を抑えたいのであれば、一刻も早く事態を収束させることに尽力すべきだ。
そう理解はしていても、ヤマトの胸中には不安の影が差していた。
(あいつは、無事でいるだろうか)
ヤマトの脳裏に浮かんだのは、先日久々に再会したばかりの妹の姿だった。
カグラには、神皇を守護する選りすぐりの精鋭兵や、アサギ一門の家臣団が控えている。下手な城塞以上の防御力を有していることは分かるが、だからと言って、絶対に無事でいるという保証もない。
「―――」
思わず振り返りそうになったところで、ヤマトは首を横に振る。
そのまま頬に張り手を打って、ボンヤリとしていた意識を目覚めさせた。
(無用な心配。下手に気をやることこそ、あいつに悪いというものだ)
ヤマトが案じる必要がないほどに、ハナは腕を上げている。そのことは、先日再会したヤマトも、深く理解していた。それを再び胸の中で思い返しながら、ヤマトは後ろ髪引かれる思いを断ち切った。
降りしきる雨の中、ヤマトは今度こそ、社へと続く参道に足を進めた。