第145話
霊峰シュテンに建立された社への参道。
立ち並ぶ数多の鳥居を潜り抜けた先の広場に、その男は立っていた。
(青鬼か)
絹のような滑らかさで輝く金髪に、悲哀の表情を浮かべた青鬼の仮面。前回は一目で騎士と分かるような甲冑姿であったが、今回は平民に扮しているらしい。大陸ではごく一般的な平服に身を包んでいる。
得物を構えた様子もなければ、尋常ならざる闘気を放っているわけでもない。まるで異国へ観光に来た一般客のような出で立ちではあるが、彼が油断ならない人物であることは、一度対峙したことがあるヤマトにはよく分かっていた。青鬼の一番の武器と言えるものは、最小の詠唱と魔力操作によって行使される、最大限の効果を発揮する魔導術の数々。一見して戦意のない素手であっても、一瞬あれば即座に人を殺せるだけの術を発動できることを、肝に命じなければならない。
息を吐き、心臓の鼓動を整える。
僅かな前兆さえあれば即座に動き出せるように、全身に密かに力を込めながら。ヤマトは、放心した様子のリーシャに視線を向ける。
「無事か?」
「ヤマト……。来てくれたのね」
「突然飛び出すな。ヒカルが気にしていたぞ」
その言葉に、リーシャはバツの悪そうな表情を浮かべる。
「ごめんなさい。でも、一刻を争うことだと思ったから」
「責めるつもりはない。どうやら、その判断は確かに正しかったようだからな」
言いながら、ヤマトは青鬼を睨めつける。
結界を破壊してから今このときまで、青鬼が何をしていたのかをヤマトは正しくは知らない。けれど、自由に時間を与えてしまっていたならば、きっとろくでもないことを仕出かしたのだろうという確信が、ヤマトの胸の中にはあった。
それを肯定するように、青鬼はヤマトの視線に対し、肩をすくめて応える。
「本当にね。後少し時間があれば、面白いことができそうだったんだけど」
「それは残念だったな」
時間をかける――大規模魔導術の用意でもしていたのだろうか。天変地異に等しいことまでは引き起こせなくとも、魔王の右腕を解放するきっかけを作る程度のことならば、この男には可能だったのかもしれない。
リーシャの機転に無言のまま感謝しながら、ヤマトは刀を握り直す。
軽く呼吸してから、そっと目蓋を閉ざす。
(あのときは、ノアと二人がかりで届かなかったが――)
聖地ウルハラでの邂逅を思い返す。
突然襲撃してきた青鬼に対し、迎撃したヤマトとノア。気構え準備諸々の差はあったと言えど、ヤマトは青鬼に対して惨敗を喫した。少なくとも、ヤマト自身はそう捉えた。ただ単純に、ヤマトの実力が不足していたのだ。どれだけ力を込めて刀を振ろうとも、魔導術を次々に繰り出す青鬼を前に、互角以上に戦うことができなかった。
だが、あのときの敗戦を機に、ヤマトも念入りに鍛錬を積み重ねてきたのだ。かつて敗北したからと言って、今も敗北するつもりまでは、毛頭ない。
(雪辱を果たすとしようか)
目を開く。
心の中で爛々と闘志の炎をたぎらせながら、ゆっくり刀を正眼に構える。
「へぇ」
ヤマトのまとう気配が変貌したことに気がついたのか、青鬼は感心したような声を上げる。
だが、まだ余裕そうだ。まだ余裕を保てるだけの実力差があると、彼は分析しているのだろう。
(まずは、その余裕を剥がすとしよう)
ぐっと腰を落とす。
脚に力を込めるのと同時に、青鬼の雰囲気が緊張を帯びたことに気がついた。
「――いざ」
刀を身体の脇に寄せ、刃の切っ先を青鬼へ。
腰を落としたまま前傾姿勢を取り、踏み出す右脚の爪先へ全身の力を込める。
「勝負ッ!!」
叫ぶのと同時に、踏み込む。
周囲の景色を意識から除外し、己と青鬼の姿のみが、ヤマトの視界に浮かび上がる。
刀を手に駆ける中、ヤマトの目は、青鬼がそっと腕を上げようとするところを捉えた。
青鬼の十八番。コンマ一秒もかからぬ、魔導術の高速発動。威力よりも精度や速度を重視した術展開は、人の目では前兆を捉えることも困難な上に、発動後に回避することも難しい。対処の難しい小技を積み重ね、相手に詰み状況を強いるのが、青鬼の常套戦術。
大振りな攻撃をすれば、青鬼の小技に出鼻を挫かれ。小振りに戦おうとしても、魔導術の高速展開を武器とする青鬼に、勝てる道理はない。
それを分析し切った上で、ヤマトはなおも前進し続ける。
(集中しろ――目を凝らせ)
地を駆ける己の身体から、思考を分離させる。
青鬼の身体の動き。鬼面の奥から覗ける視線の向き。微かに肌が感じ取る魔力のざわめきに、戦いの中で培った実戦勘。それら全てを総動員して、青鬼の出方を探る。
一歩。また一歩と、青鬼との間合いが狭まる。
残り半歩で青鬼の胴が刀の間合いに入る。反射的に刀を握る手に力が込められたところで、ヤマトの鼻先が、ジリッと焼けつくような感覚を覚える。
ヤマトの目の前。指先を掲げた姿勢のまま静止していた青鬼が、そっと声を上げた。
「『障へ――」
「シャァッ!!」
刀を握る腕が疼き、本能が叫び声を上げる。
身体が衝き動かされるがままに任せて、虚空目掛けて刀を振り抜いた。
風を裂いた刀の刃が、青鬼の寸前を斬り抜ける――その寸前に、確かな手応えがヤマトの手に返ってくる。
(捉えた!)
はやる心を抑え、目には見えない『障壁』を刀で斬り捨てた。
「なっ!?」
「貰っていくぞ!」
『障壁』を真っ二つに斬り上げた刀の刃が、勢いを殺さないままに弧を描く。大上段へ構え直した刀を手に、ヤマトは更に深く踏み込む。
青鬼の身体は完全に間合いに捉えている。どれだけ早く魔導術を展開しようとも、その発動より先にヤマトの刀が青鬼を両断する確信。間違いない。勝利は目前にある。――にも関わらず、ヤマトの胸中に暗雲が渦巻いた。
思わず、ヤマトが青鬼の動きに注視する中。迫る白刃を目前にして、青鬼は即座に魔導術を展開し直し――暴発させる。
「ぬぅ!?」
ただの魔力爆発。
実体を持った魔力が吹き荒れ、ヤマトの身体を押し込もうとする。その勢いに抗いながら、ヤマトは刀を振り抜いた。
「ぉらっ!」
「ぐっ!?」
魔力が荒れ狂う中、振り抜いた刀が何かを斬り裂く感触が返ってくる。同時に、青鬼の苦悶の声。
思わず身体を弛緩させたヤマトは、魔力の嵐に身体を押され、そのまま後ろへ上体を泳がせた。
「くそ……っ!」
数歩後退ったヤマトは、そのまま一気にバックステップする。
刀を正眼に構え直しながら、先程の手応えを思い返し、ヤマトは小さく悪態を吐いた。
(手応えはあった――が、軽すぎる)
あれでは、到底決定打にはなり得ない。
千載一遇の好機を掴み損ねたことを悔やみ、すぐに首を横に振る。反省をしたいのならば、戦いを終えた後に幾らでも機会はある。今は、全神経を戦いの場へと集中させるべきだ。
気を取り直したヤマトが視線を前方へ戻せば、青鬼が鬼面を手で押さえている姿が視界に入ってくる。
「……やってくれたね」
「ふん」
鼻を鳴らして、青鬼の言葉を無視する。
ヤマトの視線の先、鬼面から手を離した青鬼は、その奥から燃えるような激情――憤怒ではない、愉悦だろうか――を秘めた瞳で見返してくる。
「想定以上、期待以上だ。聖地のときと比べると、ずいぶん見違えたね」
「さてな」
適当にあしらいながらも、ヤマトは心の中では小さく頷く。
きっと、そのきっかけは黒竜と全力で刃を合わせたこと。九死に一生を得るような死闘の中で、ヤマトが持っていた“何か”が、吹っ飛んでしまったような感覚があったのだ。何がどう変わったと明らかにすることはできなくとも、明確に自分が変化していることを、ヤマトは如実に感じ取っていた。
とは言え、そのことをわざわざ言ってやる趣味もない。
「ふぅ――」
軽く整息。たぎる闘志の炎に薪をくべたところで、ふとヤマトは気がついた。
青鬼の顔面を覆い隠していた鬼面に、深々とヒビが入っている。
「あぁ――」
青鬼が悟ったような声を上げるのと同時に。パキッと音を立てて、鬼面が真っ二つに砕け散った。
鬼面の奥から現れた顔。それを見やり、ヤマトは小首を傾げる。
(どこかで、見たことがあるか?)
その疑念が胸に生じるものの、答えは出てこない。モヤモヤとするものを抱えたままに、ヤマトは青鬼の素顔を改めて確認する。
流れるような金髪に、整った目鼻立ち。大陸人らしい彫りの深さではあるが、極東生まれのヤマトから見ても美男子だと思える美貌だ。金色の目は怜悧な光を帯びながらも、その奥底の方には優しげな雰囲気を漂わせているような風情も感じられる。
一度見たならば、その印象が強く刻み込まれるような青年だ。改めて見ても思い返せないということは、直接会ったことはないのだろうか。
そんな釈然としないというヤマトに対して、リーシャの方はずいぶん違った反応をしていた。
「やはり……!!」
「知り合いか?」
思わず問いかけたヤマトに、リーシャは小さく頷く。
リーシャ個人の知り合いということは、太陽教会の関係者――特に、聖騎士であるという線が濃厚か。
密かに推測していたヤマトを余所に、リーシャは青鬼目掛けて口を開いた。
「もう言い逃れはできないわね。どうしてここにいるの――兄さん!」
兄。
反射的にリーシャの顔を見やったヤマトは、内心で小さく頷いた。
(確かに、似ている)
リーシャと青鬼の顔立ちだ。
共に金髪金目であることは無論のこと、目鼻立ちや雰囲気に至るまで、二人は正しく瓜二つと言うに相応しかった。青鬼の素顔に既視感を覚えたのは、リーシャのそれに酷似していたからだろうか。
そんなことを思うヤマトを尻目に、リーシャは言葉を続ける。
「騎士団を裏切ったの? 確かに、あなたならそうするのも仕方ないのかもしれない。でも――」
「やれやれ。本当に、よくもやってくれたよ」
リーシャの言葉を遮って、青鬼は溜め息を吐く。
青鬼は、一瞬だけヤマトの方へ視線を投げてから、リーシャに向き直る。
「これじゃもう、誤魔化せそうにないか。やぁリーシャ、久し振りだね」
「……質問に答えて」
「あらら、素っ気ない妹だね」
「茶化さないで!!」
剣呑な雰囲気と共にレイピアを構えたリーシャに、青鬼は苦笑いを浮かべる。
「せっかくの再会だから、僕も妹と言葉を交わしたい気持ちはあるんだけど。どうやら、今は時間切れみたいだね」
「何を――」
噛みつくように口を開いたリーシャが、何かに気がついたように、ハッとして辺りを見渡す。
思わず首を傾げるヤマトに対して、顔を不自然に青ざめさせたリーシャが呟く。
「しまった……」
「あまり気にすることはないよ。これに気づかれるようじゃあ、僕も引退しなくちゃならない」
同情するような青鬼の言葉に、痛恨の表情を浮かべるリーシャ。
事態が掴めないヤマトが口を開こうとしたところで――“それ”は、唐突に始まった。
「なっ!?」
「地震……やっぱり!」
地面が大きく揺れ始める。
極東では地震が起こること自体は珍しくないが、これほど大きな地震は、そう起こるものではない。
咄嗟に身を屈めたヤマトの耳に、飄々とした青鬼の声が入ってくる。
「何とか、発動してくれたみたいだね」
「何をした!?」
「大規模魔導術さ。いつ仕込んだかとかは、リーシャに聞けば教えてくれると思うよ」
ヤマトの視線の先で、地震など少しも感じていないような足取りのまま、青鬼はその場を後にしようとする。
「待ちなさい!!」
「焦らなくても、すぐに会えるはずさ。君たちが“あれ”をどうにかしようとするなら、ね」
言いながら、青鬼は指先を霊峰シュテンの社の方へ向ける。
釣られてヤマトが視線を向けたところで――社から、黒い柱が立ち昇った。
「あれは、いったい」
「どういう理屈なのか、僕は知らないけど。この地に封じられた魔王の右腕は、昔に何か騒動を引き起こしたらしいよね」
「……まさか」
ヤマトの脳裏に、先程社の巫女から聞いた話が蘇る。
およそ八十年前のこと。突如として発生した“それ”は、極東全土を瞬く間に席巻し、人々の生活に壊滅的な打撃を与えたという。そして、人の手で鎮めることは叶わず、結局は生贄という手段をもって封じることに成功した災害。
「百鬼夜行?」
呟くのと同時に、黒い柱が突如として爆ぜた。
柱から散らばった黒い粒子が、霊峰シュテンの各所、更には都カグラの街中にまで降り注いでいく。次いで、粒子が落ちた先から、ゾッとするほどの怖気を覚える。
「あそこから、鬼が生まれているのか」
半ば当てずっぽうな言葉ではあったが、それは驚くほど的を射ているように思えた。
社を中心に、各地へばら撒かれている黒い粒子。それらが着地したところから、数えるのが嫌になるほどの鬼の気配が感じられる。
思わず刀を握っていることも忘れるヤマトに対して、青鬼は楽しげな声を上げた。
「これはまた、壮観だね」
「兄さん! あなたという人は……!!」
青鬼にリーシャが噛みつく。
どこかへ現実味を置いてきてしまったような感覚でいたヤマトの頬に、何かが滴り落ちる感触。咄嗟に手をやれば、生暖かな液体が手を濡らしていた。
「雨か……?」
ヤマトがその一言を呟くのを契機に。
黒い柱が天を貫いた霊峰シュテンの周囲一帯に、激しい雨が降り始めた。