第144話
瞬く間に青鬼との距離を詰める中、リーシャの思考は高速で回転していた。
(兄さんは強い。たぶん、まともに戦っても勝ちは望めない)
リーシャの兄ジークは、かつては、太陽教会最強の聖騎士として、そして大陸を救う勇者候補として、その武勇を大陸中に知らしめた男だ。卓越した魔導術と剣術に加えて、彼のみが行使できる聖剣術。それらが織りなす強さは、常人が容易に至れるような領域にはない。
ジークが教会を去ってから数年、リーシャも相当な鍛錬を積んだと自負しているが、かつてのジークにすら未だ至っていないと自覚していた。
(とにかく先手を取って、ペースを握る!)
そうしなければ、リーシャとジークの戦いは始まらない。
五歩状況から始めても勝ちの目は望めず、一度ジークが優位に立ったときに、それを引っ繰り返すだけの力をリーシャは持っていない。――ゆえに、攻める。まずは一手。どんな手を使ってでも、序盤の主導権は握らなければならない。
(――入った!)
会話の最中、青鬼の視線と意識が逸れた刹那を狙った踏み込みだった。現に、咄嗟に視線を落とした青鬼は未だリーシャとの間合いを掴め切れていないようで、迎撃の手は遅い。
一息に踏み込む。胸元へ寄せたレイピアの切っ先を青鬼へ向けて、駆ける勢いを刃に乗せて放った。
「はぁっ!」
リーシャの出せる限りでは最速の一撃だ。青鬼の注意が散漫なタイミングと箇所を狙った、それ以上は望めないほどの最適な攻撃。
それを目前にしてもなお、青鬼は平静を保っている。緩慢な動きで指先を上げて、迫るレイピアの切っ先に向けて、一言。
「『障壁』」
ただ一言だけの詠唱と、必要最低限の魔力操作。一瞬で発動された『障壁』が、リーシャが捻り突きだそうとしたレイピアの切っ先に触れる。――その瞬間に、リーシャは己の失態を悟った。
「くっ!?」
硬い手応えが返ってくる。想定していなかったタイミングでの衝撃がリーシャの手を痺れさせ、そのまま剣を取り落としそうになる。震える指先を叱咤し、辛うじて柄を握り直したときには、青鬼は次の行動へ移っていた。
(剣は届かない。なら――!)
レイピアでの攻撃を即座に却下し、魔力をかき集める。威力も精度も何物をも捨て置いて、ただ速度だけを優先して魔導術を組み上げる。
術の展開を開始し、完成するまでの時間。僅かにコンマ数秒。だがそれは、リーシャと青鬼の戦いの中にあっては、何物にも代え難い時間であった。
「『霊矢』」
リーシャが魔導術を完成させる寸前に、青鬼の魔導術が完成する。
青鬼が手を振り下ろすと、その周囲に浮遊した魔力の矢が一斉に矢尻をリーシャへ向けて、殺到する。
(間に合わない!?)
銃の弾丸にも等しい速度で、『霊矢』がリーシャに迫り来る。
魔導術の迎撃が間に合わないと判断したリーシャは、その場で半身になる。身体の急所だけを腕で庇い、衝撃に備えた。
(力を貸して!)
身にまとっている鎧に魔力を這わせ、仕込まれている魔導術――『防護』を発動させる。薄い障壁を身体にまとわせ、迫る衝撃を軽減させる術だ。
青鬼の魔導術の威力を前にしては、気休め程度にしかならない術だ。とは言え、ないよりは遥かにマシ。
衝撃を覚悟して目を細めた途端に、『霊矢』の一発目がリーシャの『防護』を撃ち抜いた。軽くない衝撃に仰け反りそうになるが、懸命にその場に踏み留まる。青鬼の『霊矢』は『防護』を貫くことはできていない。すなわち、ここで退く道理はない。
「これは……」
『霊矢』を放った青鬼は、すぐにリーシャが何らかの魔導術を発動させていることに気がついたらしい。さっと視線を巡らせ、リーシャの鎧に目を留める。
「その鎧か」
「兄さんも知っているでしょう。聖騎士に支給される魔導鎧よ」
魔導鎧。
端的に言えば、ただ鋼を鍛え上げたところに加えて、魔導術による強化も施した鎧のことだ。激しい動きを阻害しない軽量さに見合わず、重厚な甲冑にも近しい防御力を誇る高性能の品
。太陽教会の騎士団員は基本的にこれが支給されているため、魔導鎧を身に着けていることこそが、聖騎士である証だとさえ言える。
リーシャの言葉に、青鬼は軽く首を横に振った。
「魔導鎧か。厄介だね」
くたびれたような言葉とは裏腹に、青鬼の動きは淀みない。『霊矢』の弾幕でリーシャの動きを喰い止めながら、己の脇に、更に丹念に魔力を織り込んだ矢――否、もはや『霊槍』と呼ぶべき代物を生み出していく。
(あれは、まずい!!)
青鬼の傍に控える『霊槍』を見やり、そのことを直感的に悟る。幾ら魔導鎧が高性能であっても、あれほどの威力を防げるほどの強靭さは備えていない。
発動させまいと前進しようとしたリーシャだったが、その矢先を挫くように『霊矢』の弾幕に肩や脚を撃ち抜かれる。矢の衝撃で、思うように身動きを取れない。
「このっ!」
「実戦慣れしてないね。いちいち判断が遅い」
「うるさい!」
前進することができないならばと、リーシャはすぐさま魔導術を展開するが――間に合わない。
ちらりと視線を投げ、リーシャを寸評するようなことを口にしながら、青鬼はゆっくりと右腕を空に上げた。その周囲には、切っ先をリーシャへ向けた『霊槍』が十本ほど浮遊している。その全てが必殺の威力を秘めており、先程のような急ごしらえの防御などは、容易く貫かれることだろう。
思わず、リーシャは歯噛みする。
「降参した方が、身のためじゃないかな。それがどんなに高性能な鎧でも、これは防げないでしょ?」
「……そうね」
青鬼の言葉に、リーシャは小さく頷く。
にわかには信じ難いほどの魔力が込められた『霊矢』――もはや『霊槍』と呼ぶべきほどのものになった魔導術は、生半可な威力ではない。鎧の『防護』に加えて、リーシャ自身が『障壁』も併せて発動させてみたところで、その攻撃を凌げるビジョンは、リーシャには少しも見通すことができなかった。せいぜい、『防護』と『障壁』と共にまとめて貫かれるのが、関の山だろうか。
防ぐのが無理ならば、回避は可能だろうか。その思いつきに対しても、リーシャはすぐに首を横に振る。先の『霊矢』の速度を見る限り、『霊槍』の方も容易に避けられるとは思えない。加えて、一本だけでも充分以上に脅威的な代物が、計十本も控えているのだ。どれほどの奇跡が起これば、それら全てを回避できるのだろうか。
「ふぅ――」
正しく、絶体絶命の危機。
防ぐことも避けることも叶わない以上、リーシャには、この状況を打破できるだけの手は思い浮かばなかった。もう間近にまで迫った死の気配に、背中を脂汗が伝う。
(だけど、ここで退く訳にはいかない!)
小刻みに身体を震わせながらも、毅然とした光を宿して、リーシャは青鬼を睨めつける。
その視線の強さを感じ取ったのだろう。僅かに身動ぎしてから、青鬼は驚いたように声を発した。
「諦めるつもりはないみたいだね」
「当然!」
叫び、萎えかけていた闘志に再び火を灯す。
レイピアの剣呑な光を浴びて、青鬼のまとう空気が再び引き締まった。恐ろしいほどの殺意を辺りにばら撒いて、『霊槍』がゆっくりと鎌首をもたげる。
「なら、残念だけど――これで終わりだ」
空に掲げた右腕を、ゆっくりと振り下ろす。
その緩慢な動作とは裏腹に、『霊槍』は凄まじい速度でリーシャへ迫り来る。その切っ先を凝視しながら、リーシャは汗の滲んだ手でレイピアを握り締める。
(受け止めることも、避けることもできない。ならば――!)
後ろでも、左右でもない。『霊槍』を目前にして、リーシャは前方へ脚を踏み出す。同時に、レイピアの剣身に己の魔力を這わせた。
「――ハッ!!」
気迫の声を上げるのと同時に、リーシャはレイピアを突き出す。
向かってくる『霊槍』を正面から貫くように、レイピアは魔力の槍にぶつかり――食い込む。
「へぇ?」
面白そうに見つめてくる青鬼に構わず、リーシャは『霊槍』に突き刺さったレイピアを捻り、横へ薙ぎ払う。
魔力をまとった刃は、リーシャの手の動きに従って、『霊槍』を構築していた魔力の束を解いていく。丹念に固められた魔力を解し、空中に霧散させていく。
リーシャが払った斬撃が、強固に作られた『霊槍』の魔力を絡め取り、霧散させる。まるで魔導術を斬撃で散らしたような光景を前にして、青鬼は驚いたような声を漏らした。
「これは、驚かされたね」
「はぁ、はぁ、はぁ――っ」
称賛の声を上げる青鬼に対して、リーシャは咄嗟に言葉を返すことができない。荒々しく空気を肺に取り込みながら、ズキズキとした頭の痛みに表情を歪める。
(何とか、成功してくれた)
青鬼が組み上げた魔導術『霊槍』の魔力構成を読み取り、高速で飛来する槍を目前にして、手にしたレイピアを介して魔力を解きほぐす。針に糸を通すような繊細さを求める技だったが、どうにか決まってくれたらしい。
そのことに安堵しながらも、リーシャは一息吐くことすらしない。――否、できない。
油断なくレイピアを構え直すリーシャに対して、青鬼はゆらりと力の込もっていない動きで、軽く拍手をする。
「あの土壇場で、そんな技を成功させてみせるなんてね。いやはや、本当に驚かされたよ。大したものだ」
「………」
「ただ、まぁ何と言うか。今回ばかりは、相手が悪かったように思えるよね」
その言葉に、リーシャは顔を歪める。
青鬼の言っていることは、リーシャにとっては認め難いことではあったが、確かな事実だ。
「君はその技で『霊矢』を防いでみせた。だけど、それは一つだけ。その様子を見るに、それでも相当苦労したみたいだね」
「……そうね」
「だから、状況は変わっていないと言える」
青鬼が再び腕を掲げる。
それに従って穂先を動かした魔力の槍が、計九本だ。
「あまり長引かせても悪いから、次はこれを一気に放つよ。流石にそれなら、打つ手はないだろう?」
「さてね」
あえて不敵な笑みを浮かべて、リーシャはレイピアを胸元に寄せる。
青鬼の様子は気楽なようでありながら、油断している様子は少しも見受けられない。戦いの初手で見せたような、青鬼の意表を突くやり方はもう取れないだろう。
(いよいよ、マズいかしら)
初めに危惧した通りの展開になってしまった。
リーシャが仕掛けた懸命の奇襲は受け流され、戦いの主導権は既に青鬼が掌握している。こうなった以上、元々の実力差に開きがあるリーシャに打つ手はなく、ただ不利な状況から敗北することを受け入れる他に道はない。
だが。だからと言って、その運命を素直に受け入れてやる道理など、どこにもない。
「やる気だね」
「当然よ。黙ってあなたに殺されるだなんて、到底認められるはずないじゃない」
「そう。まぁ、何でもいいさ」
決意を秘めた眼差しを向けるリーシャに対して、青鬼は興味なさげに頭を振る。
「――じゃあ、これで終わりだね」
何気ない言葉を吐きながら、青鬼は腕を振り下ろす。
同時に、九本の『霊槍』がリーシャ目掛けて殺到した。
あまりにも暴力的な魔力の塊。人の身ではとても耐えられないほどの力強さを目前にして、リーシャの身体は理性の叫びに従わず、本能のままに震え出す。レイピアを持った腕が鉛のように重く、『霊槍』を目前にしたリーシャの意思に反して、その場から動こうとしない。
(動け――動け動け動け!!)
錆びついた鉄のように強張った腕を振り抜こうとする――その刹那。
「奥義――『疾風』」
聞き馴染んだ男の声と共に、無数の鎌鼬がリーシャの眼前へ雪崩れ込む。
「なっ!?」
「へぇ……」
驚くリーシャの声と、面白がるような青鬼の声。
その二人の視線の間で、荒れ狂う竜巻の如く辺りに散らばった鎌鼬が、九つの『霊槍』を斬り刻み、ただの魔力へ霧散させていく。
魔力の風が辺りを吹き抜ける中。リーシャと青鬼の視線の先に、その男はゆらりと姿を現した。
極東の人間らしい黒目黒髪に、手には寒々しい光を放つ刀が一振り。日頃の無愛想な顔つきの中に、今はリーシャでさえ思わず背筋を凍らせるほどの殺気が滲み出ていた。
(これが、本当に……?)
記憶の中にあるその姿と照らし合わせて、あまりに変貌した姿に、リーシャは驚きを隠せない。
ノアからは、実戦に際してずいぶんと雰囲気が様変わりする男だと伝え聞いていたが。よもや、これほどまでに変貌するとは。
思わず目を見張ったまま何も言えないリーシャに対して、青鬼の方は、鬼面の上からでも分かるほどの喜悦を滲ませ、声を出す。
「いやはや。聖地で会ったっきりだね。また会えて嬉しいよ――ヤマト」
「吐かせ」
青鬼の言葉に対して、ヤマトは言葉短く吐き捨てる。
手にした刀を真っ直ぐ青鬼の眼前に突きつけて、ゆっくりと口を開いた。
「何が狙いかは知らんが。お前は、ここでたたっ斬る」