第143話
(これは、まさか……本当に?)
霊峰シュテンを覆った結界が破壊された。
清浄な空気が失せた代わりにリーシャの元へ届いた、破壊者の魔力。それを感知した途端、リーシャはヒカルたちの元から飛び出していた。
(ありえない。だって、あの人は)
心の中で浮かんでは消えていく問い。
それらの煩わしさに苛まれながらも、リーシャの駆け足は止まらない。もしその疑念が真実であれば、すぐさまその元へ向かわなくてはならないはずだ。ヒカルたちに何も告げられなかったことは悔やまれるが、今は一刻を争う。
登るときにはかなりの時間を要した参道を、一足で飛び越えていった。魔導術の助けも得たその疾走は、正しく風の如き素早さであった。
(――見えた! あと少し!)
階段を数段飛ばして跳んだリーシャは、鳥居の先に、参道の始点だった場所を確かめる。ちょっとした広間になっていたそこからは、“その魔力”が鮮明に感じられた。
心臓が高鳴る。身体中を駆け巡る血が熱くなり、咄嗟に腰元のレイピアを握り締めた。
今のリーシャの心に渦巻いているのは、戦意か興奮か、それとも歓喜か。どれとも判断がつかないままに、リーシャは階段を下り切る。
「―――っ」
駆け下りた勢いのまま、広場へ滑り込む。ブーツの踵を石畳に擦りつけながら、即座に辺りを探り――見つけた。
極東では珍しいが、大陸ではごくごく一般的な平服。まるで、シュテンへただ観光へやって来たかのようなカジュアルな格好だ。そんな中、悲哀の表情を浮かべた青鬼の仮面が、その金髪の男の顔に貼りつき異彩を放っていた。
間違いない。彼こそが、今回の騒動の犯人。そして――。
グルグルと頭の中で思考を回転させるリーシャの前。その男は、警戒心を微塵も抱いていないような軽い動きで、リーシャの方を振り返る。
「おや? ずいぶんとお急ぎだったみたいだね」
「あなたは……」
「まぁ、グダグダと腹の探り合いをするのも好きじゃないから、単刀直入に言うけど。僕は青鬼って名乗ってる、しがない傭兵さ。この先に用があったから、邪魔な結界は壊させてもらったよ」
青鬼。
魔王の心臓を求めたクロの要請を受けて、聖地ウルハラを襲撃した傭兵二人組。その内、ヤマトとノアが応戦した者が同様に名乗っていたと聞く。彼らからの話によれば、魔導術と剣術の両方を高水準に使いこなした他、更なる奥の手をまだ隠しているらしい。
油断ならない相手だ。ヤマトとノアの二人がかりでどうにか抗えたレベルなのだから、リーシャ一人では太刀打ちも難しいかもしれない。――だが、そんなことよりも。
「で? このまま僕と戦おうっていうなら、さくっと片づけさせてもらうけど。どうす――」
「――妨害」
一言だけ詠唱するのと同時に、特殊な形に変えた魔力を青鬼へ叩きつける。
即座に飛び退った青鬼はリーシャの魔力を避けてみせるが、代わりに“何か”が砕けるような音が聞こえた。
(ひとまず、これで手は封じた)
ホッと安堵の息を漏らす。
無意識に身体を弛緩させたリーシャに対して、青鬼の気配はふっと剣呑になる。
「やってくれたね。せっかく用意していたのに」
「それを発動させるわけにはいかないわ。どんな効果は読めなかったけど、どうせろくでもない術なのでしょう?」
「さてね」
例えば、霊峰シュテンを噴火させるだとか。
例えば、遠く離れた祠の封印を、遠くから無理矢理に解除させるだとか。
リーシャの知る”あの男”の実力ならば、それくらいは容易いはずだ。そして、その手を挫くことができた。――それでも、まだ安心するには早い。
そっと腰元のレイピアに手を這わせる。
「あぁ、やる気? ずいぶんと気の早い人みたいだね」
「……一つ、聞きたいことがあるわ」
青鬼の返答を待たないままに、リーシャは脳でモヤモヤとわだかまっていたものを吐き出す。
「なぜ、ここにいるの。兄さん」
震える唇を震わせてそう言うと、青鬼はその軽い口を一瞬だけ固まらせた。身体から放たれていた闘志も、ごく僅かにブレたように感じる。
「……いったい何を言っているのか、よく分からないけど。人違いじゃないかい?」
「いいえ、間違えるはずはない。そんな趣味悪い仮面を着けているからといって、あなたの魔力を間違えるなんてことはありえないわ」
「趣味悪いって」
「そこそこ気に入ってるんだけどな」と、青鬼は嘆くように呟きながら、その仮面を撫でてみせる。
その情けない口振りを耳にして、リーシャは更に確信を強めた。
リーシャの言葉に対する反応や雰囲気。話しているときの自覚していない癖に加えて、濃密でありながらもどこか気品を感じさせる闘志や魔力。その全てが、リーシャの記憶に眠っていた兄の像と、寸分違わず一致している。
(でも、だったらなぜ……)
グルグルと疑念が頭の中を渦巻く中、リーシャの意識は記憶の中の兄へと遡っていった。
物心がついたとき、リーシャは既に太陽教会が経営する孤児院で暮らしていた。父の顔も母の顔も知らず、頼れる大人は孤児院の神父やシスターだけ。そんな中で唯一確かだったのは、自分にはジークという、血の繋がった兄がいるという事実だけだった。
年頃のバラバラな少年少女が雑多に集まる孤児院の中で、リーシャとジークはいつも一緒にすごしていた。貧しくとも、それなりに充実した平和な日々。そんな時間がいつまでも続くのだと、幼いリーシャは純粋に信じていた。
そんな日々が変じたのは、ジークが十歳になり、リーシャも九歳に成長したときのこと。
ジークの身体に、類まれな魔力適合性――下手をすれば、大陸随一にまで至れるほどのものがあったことが判明したのだ。
そこから先のことは、リーシャの記憶に深くは残っていない。あれよあれよと言う間に聖騎士入りを果たしたジークと、無理を言い、神父たちの口添えもあって、彼にくっついて聖地入りしたリーシャ。幼い頃から頼りっきりだった兄はますます偉大になっていき、彼に置いていかれないようにと、必死に努力する日々が続いた。
そんな努力の甲斐あって、兄に続いて聖騎士入りを果たせた。どの直後のことは、リーシャの記憶にも色鮮やかに刻まれていた。――だが、世界は、兄妹に穏やかな一時をすごすことすら許さなかった。
(もう、何ヶ月も前のことなのね)
すなわち、魔王再来の予言である。
急速に大陸中が慌ただしくなる中、太陽教会においても、リーシャとジークにとって運命的な出来事が行われた。
魔王襲来に際して、大陸の救世主たる勇者の選出が、太陽教会の名において行われたのである。大陸中の腕自慢が選抜されるものの、やはりと言うべきか、最後に勇者候補としてただ一人祭り上げられたのは、リーシャの兄であるジークだった。
(それも当然のことなのかもしれないけど)
常人を寄せつけない、卓越した魔導術と剣術。それのみでも選抜者全員を打倒できる実力を有しながら、極めつけが、ジークのみが修練の果てに会得することに成功した聖剣術だ。かつての聖騎士の代名詞でありながら、現在では失われた妙技の使い手に、大陸中が期待した。ジークならば、どれほど恐ろしい魔王が現れても征伐できるはずだと、人々が歓喜に湧いていた。
そして、事件が起こった。
突如として、異世界からヒカルが召喚されたのである。
(ヒカル様に、恨みは抱いていないけれど)
戦いのいろはも知らないながらに、強力無比な加護を宿した少女ヒカル。大神官たちが群れをなして見守る中、ヒカルと力比べをすることになったジークは――まさかの、膝を屈する結果に終わったのだ。
そこから先は、今思い返してもひどいものだった。
昨日まで褒め称えた者たちは全員が手の平を返し、ジークを口汚く罵る。友全員がジークの敵へと回り、ヒカルの見せた奇跡を盾に、ひたすらにジークを蹴落とし始めたのだ。聖騎士第一席として築いた地位も名誉も全てが剥奪され、一介の聖騎士以下の立場にまで追い落とされたジークは、何も知らないヒカルの目から排除されるように、北地視察を任命――事実上の追放をされてしまった。
ジークなど最初からいなかったかのように、急速に再編された聖騎士団。そんな中、ジークの実妹たるリーシャがヒカルの指導役に任命されたのは、きっと数少ないジーク擁護派の神官たちが、必死に根回しをしてくれた結果なのだろう。初めはヒカルへ複雑な思いを胸に抱いていたリーシャも、彼女が純粋無垢な少女であったこと。ジークが僻地からの報告書に紛れ込ませて、リーシャ宛てに手紙を送り続けてくれたことがあって、ようやくヒカルと思いを交わせられるようになったのだ。
今はないものとして扱われながらも、かつては勇者候補として、大陸中から期待を寄せられた男。それが、太陽教会が誇る最強の聖騎士であり、リーシャの実兄でもあった、ジークという男だ。
その重すぎる肩書きに見合った、慈悲深く寛大な心を持ちながらも、何物にも屈しない気高さを抱いた騎士だったのだ。
(なぜ、兄さんが……)
リーシャの意識は、目の前で佇む青鬼の元へ戻る。
彼がリーシャの兄ジークであることは、少しも疑う余地がない。彼の実妹としてすごした十数年の年月の記憶が、そのことを力強くリーシャの心に訴えかけている。
同時に、青鬼という男が、聖地ウルハラを襲撃して壊滅させたのみならず、今も極東の霊峰シュテンを襲撃しようとしていることもまた、疑いようがない事実であった。
グルグルとリーシャの思考が空回りする。何を問うべきかと惑う中で、リーシャの口は自ずと開かれていた。
「兄さん。一つ、聞かせて」
「僕は君の兄じゃないけど。何?」
「なぜ、ここを襲っているの」
レイピアを抜き払い、腰をゆっくりと落としながら、リーシャは青鬼に言葉を投げかけた。
理想的な騎士だった兄ジークが、謎めいた傭兵青鬼として霊峰シュテンを襲撃している理由。聖地ウルハラの襲撃と同様ならば、魔王軍の手先であるクロに協力している理由。
「教会を恨んでいるの? 兄さんを利用しようとして、都合が悪くなったから追放した教会が、憎いの?」
「……さてね」
沈黙を保っていた青鬼が、呟きながら、空を見上げた。
雨の降り出しそうな曇り空を見上げる彼の目に浮かんでいるのは、絶望の色か、憤怒の色か、悲哀の色か。
思わず目を細めたリーシャの前で、視線を戻した青鬼は、先程までと同様にゆらりと力のない立ち姿に戻る。
「僕は君の兄じゃないし、教会にも大して関わりなんてない。でも、君はそんな風に言ってみせても、どうせ納得はしないんだろう?」
「そうね」
「なら、話は単純じゃないか」
ズボンのポケットから手を抜いた青鬼が、軽く拳を構える。
途端に、収まりかけていた闘志と魔力が噴出し、目の前で対峙するリーシャの身体をビリビリと痺れさせていく。思わず後退りしそうになって、必死に踏み留まる。
「く……っ!」
「僕を捻じ伏せて、抵抗できないようにしてから聞き出せばいい。拷問でも何でもすれば、もしかしたら何か分かるかもしれないね」
「……分かった」
つまりは、戦えということだ。
視線を落としたのは一瞬。すぐに青鬼へ向き直ったリーシャは、対抗するように闘志を放ちながら、レイピアを真っ直ぐに構えた。
「―――」
「―――」
ピリピリと見えない火花を散らしながら、緊張感が高まっていく。
そんな中、ヒカルは胸中に浮かんだ言葉を、気がつけばそのまま口に出していた。
「兄さん。私は憎かったわ。手の平返して兄さんを追放した教会が、どうしても信じられなかった。叶うことなら、あいつらに復讐したいと思ってた。――でも!」
リーシャの目の裏に浮かんできたのは、ヒカルの素顔だ。
時空の加護という訳の分からない力を押しつけられ、勇者という重責を背負わされた少女。故郷から遠く離れたこの地で、ただ一人重大な役割に駆り出されながらも、何とかそれらと向き合おうとひたむきに努力する少女の姿。
「ヒカルは――あの子は、私が守る。魔王が相手でも教会が相手でも、兄さんが相手でも! あの子を害そうって言うなら、私は躊躇わない!!」
姿勢を落とす。
闘志の中に魔力を潜ませ、魔導術を組み上げていく。同時に、手元のレイピアで狙うは神速の一撃。
「いい闘志だ」
感心したように、青鬼が言葉を漏らす。
それには構わずに、リーシャは更に深く腰を落とし――踏み込んだ。