第142話
幾重にも立ち並ぶ鳥居の洞窟を抜けた先の広間には、小ぢんまりとした社が鎮座していた。
大きさは、ちょっとした民家よりも更に小さいほど。社と言うよりも、祠と呼んだ方が近しいかもしれない。汚れの一つも浮かんでいない白石で組み上げられているだけで、飾り模様の一つも刻まれていない。その分、巫女たちの手によって丁重に管理されているらしく、曇天模様の中にあって、些かも明るさを陰らせていないようだった。
「あの中に、魔王の右腕が封じられているのか?」
「はい。魔王という名こそ伝わってはいませんが、異形の右腕が封じられているのは確かです」
確認するようなヒカルの言葉に、ここまで道案内をしてきた巫女が首肯する。
神代の昔に大陸から渡り、霊峰シュテンの火口で永らく封じられてきた代物。二百年前の大噴火に紛れて失われ、八十年前の百鬼夜行騒動の果てにただ一つ残されたものでもある。百鬼夜行によってアサギ一門の力が大幅に減衰したことを思えば、この魔王の右腕こそが、今の極東の窮地の元凶と言えるかもしれない。
飾り気がまったくなく、まるで人の記憶から薄れることを願うような、純白の祠。百鬼夜行は、確かにアサギ一門にとっては、忘れたい汚点だろう。
(いや、違うか)
「ふぅっ」と息を吐きながら、ヤマトは小さく首を横に振る。
先程、巫女から聞いた話を思い出す。曰く、かつての百鬼夜行を人の手によって討滅することは困難であったため、当時のアサギ一門の娘カズハが、その身を賭して鬼を鎮めたという。それが事実ならば、この地はアサギの者共にとっては、決して忘れたい汚点などではない。むしろ、決して忘れてはならない類のもの。
(ここは、カズハという娘の墓か)
そう考えるのが、一番妥当であろう。
鬼に身を差し出した後、異形の右腕だけを残して姿を消したカズハ。元凶と思しきものを封じるのは無論だが、加えて、跡形もなく失せてしまったカズハを弔おうという心も、ここを建立した当時のアサギ一門の間にはあったはずだ。
そのことを踏まえてみれば、この社の印象はずいぶんと変容する。ただ神秘的で静謐な雰囲気を漂わせていた社は、どこかへ失せてしまったカズハを弔い、また彼女を守れなかった武者たちの無念が寄り集まった墓所になる。
(長居するのは、止めるべきだな)
そんなヤマトの思いは、ヒカルも同じくするところだったらしい。
巫女の方へ向き直ったヒカルは、兜の中から声を出す。
「封印されている様子を見ることはできるか? 不備がないか、ひとまず確かめておきたい」
「問題ありません。許可は下りています」
ヒカルの言葉にあっさりと頷いた巫女は、そのまま社の方へ歩みを進める。
一瞬だけ呆気に取られた様子のヒカルだったが、些か拍子抜けした具合で再び口を開いた。
「できるのか? 見た感じ、祠を開けないといけなさそうだが」
「……そうですね。では、この封印がどのようにしてなされているのか、軽くご説明するとしましょう」
巫女の言葉に、ヒカルは一瞬だけ躊躇う素振りを見せたものの、やがて首肯する。
分厚い雨雲が迫っていることや、ここが百鬼夜行当時の無念を象徴する墓所であることなどが理由で、あまり長居したくないのが正直なところだ。とは言え、封印に何の異常も生じないという確信を得ないままに、いたずらに魔王の右腕を見ようとするのは、流石に躊躇われる。
ここは、大人しく巫女の話を聞いておくべきだろう。
「皆様もご存知の通り、ここには百鬼夜行の元凶と思しき、異形の右腕が封じられています。その封印は、大まかに分けて三段階で成り立っているのです」
「三段階?」
「はい」とヒカルの言葉に首肯してから、巫女はまず、ヤマトたちがつい先程歩いてきた鳥居を指差す。
「第一の封印。このシュテンの周囲には、天然の要害と言うべき山肌の他に、私共が古代から受け継いできた結界が貼られています」
「結界?」
「外敵の侵入を阻止し、内部を清浄に保つ結界です。そこを通り抜けるための門が、先程の鳥居になります」
鳥居とは、現世と神界を隔てる門の役割を持つ。
そんな具合に定義されるものだったが、ここでは似たような役割を、現実のものとして果たしているということか。
「残る二つの結界で抑え切れないものを、ここの浄化作用によって無害なものにしている、という側面もあります」
「魔力の浄化か」
それは、ヒカルの持つ聖剣の機能にも、ある程度似通ったものではあるのだろう。
大陸の聖地ウルハラに封じられた魔王の心臓がそうであったように、どれほど強固な封印を施そうとも、辺りには相応の魔力が流れ出てしまう。元が枯れ果てた地だったウルハラでは、土地の豊穣という形で作用してくれていた。だが、元々が豊かな地であるこの極東においては、どうなってしまうのか。
霊峰シュテンの周囲に張られた結界の浄化作用というのは、その懸念を無用のものとするために作られたものなのだろう。魔王の右腕から微弱に溢れ出る魔力が、何らかの異常を生じさせる前に、完全に無害なものへと浄化させる。
「念入りなのだな」
「もう二度と、百鬼夜行を起こしてはなりませんから」
そう言う巫女の表情は、真剣そのもの。
既に百鬼夜行に遭遇した生の経験を持っていない彼女たちにも、その認識は確かな形で受け継がれている。それほどまでに、当時の百鬼夜行は脅威的であったということだ。
「話の腰を折って済まない。続けてくれ」
ヤマトの謝罪に、仄かな笑みを浮かべて巫女は頷く。
「第二の結界は、この社そのものです。社を作るために用いられた石材は、いかなる力をも通さない特別なもの。これにより、第三の封印を越えて出てくる力の大半を、社の中に閉じ込めることができます」
「閉じ込める、か」
要は、魔力を通さない石材ということだ。
魔王の右腕が、封印を越えて過剰な魔力を溢れさせないようにするために、寸分の隙間もなく祠が組み上げられている。
とは言え、ここについては懸念が残る。
「なら、この中には魔力が凝縮しているということか?」
ヒカルの言葉に、ヤマトも隣で小さく頷く。
俗に魔力溜まりと呼ばれるものだ。大陸では、魔力溜まりに触れた獣が、その理性を失う代わりに大きな力を得る魔獣となることが知られている。最近の研究では、人体に対しても何らかの影響を及ぼすらしいと考えられているものの、そちらについてはまだまだ理論構築の段階にすぎない。
いずれにせよ、魔力溜まりをそのまま放置しておく――それも、段々と魔力濃度を上昇させる形だ――というのは、健全とは言い難い状態だ。
そんな思いと共に向けられたヒカルの視線に、巫女は即座に頷く。
「はい。この中には、異形の右腕より漏れ出る邪気が溜まっています。ゆえに、定期的に中を取り替える必要があるのです」
思わず小首を傾げたヤマトたちの前で、「失礼します」と丁寧な礼をしてから、巫女は小さく祠の戸を開ける。
途端に、ヤマトたちの肌を、馬鹿げた濃度の魔力が撫でていく。
「―――っ!?」
「これは……!」
「やはり、ずいぶんと溜まっていますね」
咄嗟に身構えたヤマトたちに対して、巫女は慣れた様子で、祠の中から一つの箱を取り出した。
その箱も、魔力を通さないという白い石で組み上げられているようだったが、尋常ではない魔力が感じられる。
警戒心を顕にしながら、ヒカルは箱を指差す。
「それは?」
「中の邪気を一箇所にまとめる箱です。ここの巫女に命じられた者は、日に数度、この箱を適切に処理することが求められます」
説明しながら、巫女は懐から数枚の札を取り出す。墨字で何事かを書き記されているようだが、ヤマトたちには読むことができない。
箱を砂利の上に置き、その目の前に巫女は正座する。札を手に、目を軽く瞑り、何事かを小さく呟く。
「――破邪の封」
その一言と共に、札を箱に貼りつける。
それと同時に、ヤマトは肌をビリビリと刺激していた魔力の気配が失われたことに気がつく。
「封印した、のか?」
「はい。とは言え、簡単な破邪の印を記しただけですけど」
その言葉に、ここまで無言を通していたノアが首を傾げる。
「破邪の印っていうのは?」
「邪気を浄化する印のことです。この術単体でこの邪気全てを祓うことはできませんが、シュテンの結界の力と合わせれば、どうにか安全に浄化し切ることは可能です」
こともなげに言ってみせる巫女だったが、その術を覚えるためには、並大抵の努力では済まないのだろう。少なくとも、ヤマトがまだ極東で暮らしていた折には、そんな術を使える人間はいなかった。
そうした術を充分に扱えることが、この地の巫女となるための条件なのだろう。必死の鍛錬の果てに得られるものが、霊峰シュテンの結界の中という、一種の閉鎖空間での生活であると思えば、些かならず気の毒になるが。
そんなヤマトの胸中とは裏腹に、達成感に満ちた表情で箱を見下ろした巫女は、再びヒカルに向き直る。
「失礼しました。以上までが、異形を封じる二つの封印です。そして、最後の封印というのが――」
言いながら、巫女は祠の中を指差す。
釣られて視線をそちらに寄せたヤマトたちは、途端に表情を強張らせた。
小ぢんまりとした祠の中には、質素な台座の上に、ポツンと一つ寂しく、“それ”――魔王の右腕が横たわっていた。だが、かつて聖地ウルハラで見えた魔王の心臓から感じた魔力が嘘のように、その右腕からは魔力を感じない。その仕掛けは、台座に所狭しと刻み込まれた墨字にあるのだろう。
「その台座に直接刻まれているのが、停止の印です」
「中にあるものの時間を止める印っていうこと?」
「左様でございます」
ノアの言葉に、巫女は素直に頷いてみせる。
時間を止める。そんな魔導術は、帝国の研究機関でもまだ開発されていないはずだ。つまり、明らかに常軌を逸脱した術式。
(いや、ヒカルならば――)
ふと、ヒカルの方へ視線を寄せる。
彼女がこの世界に渡るに際して得た加護は、時空の加護という。端的に言えば、時間や空間といったものに対して、常識を越えて作用することを可能とする力だ。その力ゆえに、ヒカルは未来視や瞬間転移、異空間収納といった技を行使することができる。
その権能を遥かに強化していった先ならば、時間の停止――時空の固定は、可能になるのかもしれない。
とは言え。当時にヒカルがいるはずもない。可能性があるとすれば、ヒカルと似たような力を、初代勇者も持っていたという可能性だが。
(考えても、詮ないことか)
僅かに首を横に振って、湧き起こる疑問を頭の隅に追いやる。
いずれにしても、それは並大抵のことで得られるような力ではないだろう。
どういうことかと問うような視線をヤマトが向けると、巫女はすぐに口を開いた。
「この台座は神代の昔に、神が異形の右腕を封じたとされるものをそのまま用いています」
「なに?」
首を傾げるヒカルに、巫女は後ろを振り返り、霊峰シュテンの頂上を指差す。
「あちらの火口を捜索した際に、その台座は発見されたそうです。どうにか解析しようとされたものの、分かったのは印の効果のみ。印の転写をすることもできないまま、結局、封印のためにそのまま使用することになったのだとか」
「……なるほど」
つまりは、祠の中に鎮座している台座こそが、魔王の右腕封印の本体。
ざっと視線を巡らせた限りでは、どこにも損傷した様子は見受けられない。
「これは、触れてもいいものなのか?」
「――なりません!」
何気なく尋ねたヤマトの言葉に、巫女は即座に首を横に振る。存外に強い口振りに、そろりと手を伸ばしていたヒカルは、すぐさま手を引っ込めた。
「迂闊に力を持つ者が触れれば、封印が解けてしまうかもしれません。ゆめゆめ、それに触れることはありませんように」
「……分かった」
彼女の言っていることは正しい。君主危うきに近寄るべからずとも言うが、不審であるのだから、無理に触る必要もない。
ヤマトたちが一歩後退すれば、新しい箱を祠の中に入れてから、巫女は祠の戸を締める。
「失礼しました。以上が、この地の封印になります。お求めだったものは、これで全てでしょうか?」
「あぁ。封印にも問題ないことが分かったから、私たちの用もこれで終いだ」
「それでいいな?」と確認するヒカルの視線に、ヤマトたちは一斉に頷く。
この社がどれほど安全なのかは分からないが、少なくとも、封印が自然に解けてしまうということはなさそうだ。巫女たちが適切に管理している限り、封印は確かに保たれることだろう。
(ゆえに、問題となるのは)
自然ではない仕方によって、封印が解けてしまうこと。――すなわち、人為的に封印が解除されること。
それをヤマトが想定した瞬間のことだった。
「―――――っ!?」
空気が震える。肌が一斉に粟立ち、髪が僅かに逆立つような感覚すら覚える。心臓がバクバクと脈打ち始め、腰元の刀がぐっと重みを増したような気さえする。
いったい、何が起こった。
「ヤマト?」
突然のヤマトの反応に、ヒカルは怪訝そうに首を傾げる。
それに応えようと口を開いた瞬間に、また別に動きを始めた者が一人。
「――もしかして」
「リーシャ? 今度は君まで、いったいどうしたんだ」
サラリと金髪を流したリーシャが、いつになく切羽詰まった面持ちで、西方――霊峰シュテンの麓の方に視線を投げていた。
明らかに、尋常ではない。顔色は赤と青を目まぐるしく行き来し、ギュッと腰元の細剣の柄を握り締める。彼女にしては珍しく、主であるヒカルのことさえも、眼中から消え失せてしまったらしい。
「ヒカル様……」
「リーシャ? 気分が優れないのなら――」
「少し休もうか?」。
その言葉をヒカルが口にしようとした瞬間に、リーシャはその場でくるりとターンをして。
「―――失礼しますッ!!」
駆け出し、社から飛び出ていく。
突然のリーシャの行動に、ヒカルは何を言うこともできず、身体の動きを止めてしまった。もしも兜がなかったならば、パクパクと間抜けに口を開くヒカルの表情が望めたことだろう。
「い、いったい何なんだ。リーシャはどうして……」
「答えは、あれかな」
訳も分からないという様子で口を開いたヒカルに、ノアはゆっくりと手を上げ、一点を指差す。
その先にあるのは、ヤマトたちが本殿に来るまでに通り――そして、今しがたリーシャが飛び出していった鳥居の通路だ。
「鳥居か? あれに何があるんだ」
「鳥居がって言うより、封印の方かな」
いつもヘラヘラと緊張感のない表情だったノアが、いつになく顔を険しくさせている。
「ヤマトの直感に従って正解だった、っていうところかな」
「いったい何を――」
焦れたヒカルが声を荒げる、その寸前に。
ひどく顔を青ざめさせた巫女が、喉元を震わせながら、それを口にした。
「シュテンの封印が……破壊されました」