第140話
翌朝。
宿を出たヤマトたち一行は、アサギ一門から派遣された案内役の文官と共に、都カグラの北東に位置する霊峰シュテンへと訪れていた。
「ここが……」
「霊峰シュテン。カグラに訪れる魔を祓い、永久の安寧を約束すると伝えられた山です」
感嘆の息を漏らすヒカルへ、文官の男はどこか得意気に解説してみせる。
その言い伝えの由来は、かつてのアサギ一門が百鬼夜行に際し、その元凶をこの山に封じたことにあるのだろう。そのために作られたという社は、一般人の立ち入りこそ許可されていないものの、遠目でもいいから見てみたいと熱望する旅人が後を絶たないと言う。
(信仰したくなる気持ちは、分からないでもないか)
そう心の中で呟きながら、ヤマトも霊峰シュテンを見上げる。
圧倒的な力強さを感じさせる佇まい。その高度は、正確に測ろうとした者もいないものの、一説では数千メートルにも及んでいるという。ヤマトたちが今いる麓付近には森林地帯が広がり、その上方には岩肌が。更に登った先の頂上付近には、一年中溶けることがない凍土が広がっている。
そのシュテンの中腹。ゴツゴツとした岩肌を這うように朱色の鳥居が立ち並び、その先には立派な社が建てられている。遠目に、山肌を這い登ろうとする赤い竜のように見えるそれは、アサギ一門によってシュテンに作られた、件の社だ。人の立ち入りを制限した上で丹念に手入れをしているからか、赤い鳥居がキラキラと輝いているようにすら見える。
白灰緑の三色に塗り分けられるシュテンに、赤い筋が立ち昇る姿。それは、都カグラが栄える中で幾度となく絵画にされてきた光景。極東に住まう者ならば、少なくとも一度は見たことがある景色だ。
ヤマト自身も久々に目の当たりにした景色に、思わず感慨にふける。
同様に、しみじみと頷きながらシュテンを眺めていたヒカルが、そっと息を漏らした。
「確かに素晴らしい。だからこそ、今日の空模様は惜しいな」
「えぇ、本当に。太陽に照らされたシュテンの美しさは、筆舌に尽くし難いほどのものなのですが……」
それは確かに、その通りだろう。
感動に浸っていた心を取り直して、ヤマトは恨めしげに天上を見上げた。
(まだ、辛うじて降ってはいないか)
曇天模様。と言うのも憚られるほどの、嵐の一歩手前な空模様だった。
昨日危惧した通り、西空に広がっていた分厚い雨雲は、一夜明けた今日になってカグラを完全に覆い隠していた。今はまだ雨も降っていないものの、黒い雲からは時折雷鳴が轟き、グルグルと怪しげに渦巻いているような錯覚すら覚える。辺りを吹き抜ける風は雨の湿り気を帯びて、ヤマトたちにジットリとした生暖かさを感じさせた。
ヤマトの隣で空を見上げたレレイも、その顔を僅かにしかめた。
「嵐が近い」
「どれくらいだ?」
「もう降ってもおかしくないくらいだ」
ヤマトの見立てと同じだったことに、余計にうんざりした気持ちになる。
「規模は?」
「島にいた頃なら、避難を考える程度だ」
「そうか」
レレイがいた場所――南海を越えた先にあるザザの島は、控えめに言っても未開の島であった。人々は木造りの粗末な家に住み、狩猟と採集で生計を立てるような生活レベルで生きていた。魔獣対策の堀や柵こそ作っていたが、その暮らしぶりは、大陸の人々とは比べ物にならないほどだったと言える。
だが、その分を加味してみても、今回の嵐は脅威的だということだ。万が一、外出中に嵐と遭遇してしまったならば、相当に濡れてしまうことは覚悟しなくてはならない。運が悪ければ、雨風で怪我をする危険性すらあるだろう。
「今からでも引き返した方がいいと思うが?」
「……それはなしだ。悪い」
冷静に考えるならば、レレイの言葉に否定すべきところはどこにもない。この空模様は、流石に外出日和とは言い難い。本来ならば、カグラに住まう人々と同じように、ヤマトたちも昨日確保した宿に引き込もっているべきだったのだ。
それでも今日霊峰シュテンに訪れた理由は、実のところ、ヤマトにある。
(ここにはいない、か?)
周囲へ油断なく視線を巡らせて、小さく首を傾げる。
ヤマトの胸中に渦巻いているのは、昨日出会った気配の主のことだった。
「そんなに異質な者だったのか?」
「うむ。確信にまでは至っていないのだがな」
小首を傾げるレレイに、ヤマトは曖昧に頷いてみせる。
アサギ一門の屋敷から出て、少し経ったときのことだ。何の変哲もない街並みの中、突如として感じられた異質な気配。ただの気のせいと片づけてしまうほど、ヤマトは生温い人間になったつもりはない。気配の主からは、明確な敵意までは感じられなかったものの、気配を容易に悟らせず、ヤマトが僅かに補足した瞬間に姿を隠した手腕は、それだけで警戒するに値する。
目的も何も掴めない状況の中、予定を早めて霊峰シュテンへやって来たことについては、ただの勘に近しいものではあるのだが。
「ふむ。だが、ヤマトがそう警戒するほどの手練れならば、念には念を入れるというのも悪くないか」
「すまない」
「気にすることはない。早く片づければいいだけの話だ」
男らしく頷いてくれたレレイの清々しい姿に、ヤマトは内心で安堵の息を漏らす。
ヒカルたちは誰一人として、予定を早めようと提案したヤマトに反対することはなかった。彼女たちからの信頼の厚さに喜ぶ気持ちの反面、間違えていたらどうしようという懸念の方も、段々と膨らんではいるのだ。
(まぁ、そのときはそのときだな)
いざとなれば、土下座をする他ないだろう。
そう開き直ってしまって、ふっと心を軽くする。腰元の刀を撫でながら深呼吸をすれば、段々と鼓動も落ち着きを取り戻していった。
ふと、レレイの視線が刀の方へ向いていることに気がつく。
「どうした?」
「その刀、昨日貰ったのだろう? 具合はどうだ」
「ふむ」
問われて、ヤマトは刀へ視線を落とす。
昨日アサギ一門の屋敷から出る際に、ホタルから渡されたものだ。ホタルが後生大事に抱えていた一品だから、相応の格を伴った刀なのだろうとは思うのだが。
「正直、よく分からん」
「ほう?」
レレイは小首を傾げる。
何と説明したものだろうか。眉間にシワを寄せながら、ヤマトはゆっくり口を開いた。
「頑丈な刀だ。その上に斬れ味もよい。少々重くはあるが、俺に扱えないほどではない」
「……なら、いい品ではないのか?」
「ただ単に質のいい刀、と言うだけではないものを、どこかに感じている」
言いながら、ヤマトは腰元の刀を揺らす。
刀を実際に抜いて手入れをしたのは、昨晩のことだ。確かに相当な質のよさを感じさせる名刀ではあったが、それだけではなく、尋常ではない何かを感じ取れたのも事実。丹念に鍛え上げられた鋼の内に、何かが入り込んでいると考えてしまった方が、ヤマトとしてはしっくり来るほどだ。
とは言え、そんな事情をレレイが察せるはずもない。困惑したように表情を陰らせているレレイに、ヤマトは苦笑いを浮かべる。
「案ずるな、既に身体は慣らしてある。土壇場でこいつを振れぬということはない」
「……ヤマトがそれでいいなら、私は構わんが」
釈然としない表情のレレイだが、ひとまずそれで納得することにしたようだ。
ヤマトとレレイがそんなことを話していた間に、ヒカルたちの話はちょうど終わったらしい。
「ヤマト、レレイ。そろそろ行こう」
「む? 分かった、すぐに行く」
応えてから、もう一度霊峰シュテンを見上げる。
相変わらずの荘厳な佇まい。嵐を間近に控えた暗雲の中にあっても、霊峰の輝きはくすむことなく、ヤマトの目に眩しく映っていた。




